ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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学び方

2008-11-30 | 育児
 誰もが納得できるように授業を進めたい。この思いが様々な努力を生み出していく。どこで、妥協するかは授業者次第となる。
 毎時間、毎時間丁寧に教材研究をし、子どもの実態を把握し、実践しようと心がけても物理的に不可能である。だからいい加減でもいいというわけではない。精一杯努力しているからこそ、子どもに力がつく。人間教育である以上、すべて完璧ではない。不完全なところがあるからこそ目標を立てて頑張れる。
 不完全ではあるが、しなければならないが日常の授業だ。その授業の中で少しでも力をつけるために大事にしていることがあるかないかが重要になる。これは、目先の行動ではなく、根幹に関わる生き方にこだわることだと思う。
 例えば、「自分の力を出し切ること」「新しいことに向かって挑戦すること」「くじけず、粘り強くやりきること」「仲間から学ぶこと」など授業に向かう姿勢作りはどの授業においても大事にしなければならない。教科の枠を超えてもとめたい姿勢だ。ここにこだわることなら納得できる授業を作り上げることができる。これがうまく行けば、どの子もできるという授業が成立するかもしれない。教師の努力だけでなく、子ども自身にも授業を自分で作り上げる構えをもたせることで授業の質は変わってくる。受け身の授業から自ら働きかける授業になっていく。教えてもらうのではなく、学び取る授業になっていく。納得がいかないと何度も追求する姿も生まれてくる。これがいわゆる学び方。教師が悪いから子どもが悪いというものではない。反面教師という言葉もあるが、学ぶ側の姿勢で学ぶ内容や量も違ってくる。だからこそ、学び方を子どもに学ばせる教師でなければならない。これは教科の内容を教えることよりも大事だ。自分で乗り越える力を身に付ければ、教えなくても自分から学習を始める。勉強が楽しいというのも分かる。自ら学ぼうとするから楽しいのだ。まさに生涯学習につながる大切なものだ。

全体を眺める

2008-11-28 | 育児
 私たちは同時に2つのことを考えることはできない。必ず1つに焦点を当てて考えている。その焦点を当てるとき、どこに当てればよいかを考えるときには、ちょっと離れて全体を眺めながら焦点を決めることができれば、焦点の当て所がいくつも見つかる。しかし、離れることができなければ、直感的に目の前に現れた焦点で対応するしかない。 特にこどもたちは離れて全体を眺めて、焦点の当て所を探すことがなかなかできないで、目の前に起きることに直感的に反応していることが多い。
 例えば、理科の実験中、現象の面白さに釘付けとなり、実験結果に焦点が当たっている。そのため実験の課題を忘れていることが多い。何のための実験なのか、どんな事が見つかればよいのか、問題解決の過程の一つが実験結果であることに焦点が当てられないでいることがある。そこで、教師が、「このことからどんなことが考えられるの?」と質問しなければならない。
 忘れ物の扱いでも同じ。忘れたことに気が付いたらすぐに反応し、今言うべきかどうか考えて行動することは少ない。例えば、教科書を忘れたとき、教師が本の説明をしようとしたときに初めて教科書がないことに気づいたとき、すぐに忘れたことを伝えに来る子がいる。自分が困っていることに焦点が当たると全体で話を聞く場であることに焦点が当てられない。そこで、「それは、困ったね。でも、今、あなたが言いに来るとみんなへの話を中断しなければならないでしょ。言いに来なくても隣のお友達に見せてもらえばいいんだよ。」と話をしなければならない。
 最近の人は自己中心的で人の話を聞かないと言われたり、KY(空気読めない)などと人をけなす言葉を使ったりするが、言われる人は、小さい頃から全体を眺める経験が少ないからではないだろうか。
 日頃から目の前の事だけに目を奪われていると全体が見えなくなる。全体を見るためには、目標や目的をはっきりさせることが重要な気がする。
その目標や目的を忘れず、目の前のことに揺れないで目標や目的に向かって歩む自分を作ることのように思う。
・何のための活動なのか。
・何をめざしているのか。
・目標や目的に近づくために何を大切にしたらよいのか。
・目標や目的に近づくために目の前のことをどのように考えたらよいのか。
・そのために我慢しなければならないことはないのか。
 子どもの焦点が今どこに当たっているのかを眺めながら、全体を見させるように 繰り返し投げかけると当たっている焦点を変えることができる。

公開授業

2008-11-27 | 育児
 参観してもらう授業は、普段以上のプレッシャーを感じる。そのために普段以上の努力をし、授業に向かう。努力をすれば、それだけの成果を得ることができる。
<環境を整える>
 参観者に心地よく過ごしてもらう環境にしようとすると、日頃目に入らなかったことが見えるようになったり、手つかずになっている所が気になったりする。これだけでもかなり雰囲気が変わる。
<行動を揃える>
 子どもの行動が一番気になる所である。どの子も同じ行動ができると安心できる。できない子どもを何とかしようと働きかける。そして、揃えたいという思いが子どもに伝わり、子どもも意識する。
<できることをに自信をもたせる>
 子どもたちもそれなりに緊張する場面である。子どもに自信をもたせることがよい成果を発揮することになる。そこで、子どもたちのよさを事前に紹介したり、できていることを明らかにしたりして、不安を取り除き、前向きにさせる。
<見方や考え方を示す>
 ただ単に授業を観てもらうということでなく、子どもたちに事前に視点として、参観のねらい等を明確にする。「あなたたちのこんな所を観てもらおうと思っている。」と子どもたちに示すことで、頑張りの方向が明らかになる。
<人柄が見える>
 授業で活動する教師や子どもたちの姿から、授業を作る教師の人柄が見えてくる。特に子どもとの人間関係はどうか、子ども同士の人間関係はどうか等は参観する側からすると一番気になるところである。これは、一朝一夕にできるわけではない。できた姿ではなく、できるように努力する所にその先生の人柄が見えてくる。この努力する姿に多くの人は好感をもつ。そして、「この先生なら子どもたちを安心して任せられる。」と思っていただければ全てがよしとなる。

 いろいろな努力をするが、その努力の方向は、必ず自分を生かすことにつながっている。

気持ちを切り替える

2008-11-26 | 育児
 悩みを抱えていたり、失敗したりすると、次々起こること出来事に対しても冷静に対処できず、その気持ちに引きずられてしまうことがある。気持ちを切り替えて次のことに早く取りかかることができれば、とても楽になるはずなのにそれができないで苦しむことがある。「気持ちを切り替えて次のことをしよう。」と声をかけてもなかなか切り替えられない子どももいる。どうすれば、切り替えが早くなるのだろう。
 悩みや失敗を心の深い部分においているとなかなか切り替えることができない。つまり、「私はだめだ。」「どうせ、私にはできない。」「何をやっても私はうまくできない。」などと自分そのものがだめだ(深い部分)と考えているとなかなか立ち上がれない。
 特に子どもは経験も少なく、できないことが多いはず。できなくて当たり前と考えればよいが、他者から過度の期待がかかるとそんなことは言っていられない。できなければならない自分とできない自分の狭間で苦しんでしまう。
 この自分そのものがだめだと思っている枠を外さない限り楽にはなれない。
 「本当にいつもできない自分なの?」「できないことばかりなの?」などと自分の考え違いに気づかせ、「できない時も、できる時もあるんだ。」「これはたまたまできない時だったんだ。」と思わせる。そして、次は「できるかもしれないし、できないかもしれない。」「いつもできないわけではない。」「やってみないとわからない。」となれば、気持ちも楽になる。
 ただ、子どもとの信頼関係がなければ、この言葉も通じない。また、冷静に話せる状態にないときは言葉そのものが入らない。子どもをじっくり見つめ話ができる機会をとらえ、「あなたを信じているよ。」「あなたは(本当は)そんなあなたではない。」という思いと共に心を込めながら話せば、必ず伝わる。
 悩む子どもからできるだけ早く解放し、気持ちを切り替えて新たな気持ちで挑戦する子どもにしたい。

伝える努力

2008-11-25 | 育児
 自分の思いが強く出ると、相手が見えなくなる。特に子どもは大人以上には言わないし、言葉が少ないため言えない。
 いくら素晴らしいことであっても、受け止める側の立場に立たないとその思いは相手に伝わらない。伝わったとすれば、受け止める側の努力である。その努力を見ないで、伝わったと思うとしたら伝える側のおごりでしかない。
 「ちゃんと言ったでしょ。」「以前にも言ったはずだ。」などと受け止める側を責めるのは、間違いだ。
 受け止めようとする努力をするのは、伝える側を信じて頼りにしているからできることなのだ。だから、「私を信頼し、分かってもらって嬉しい。」「伝わったんだ。ありがとう。」と感謝をすることだ。
 よく講演や発表の最後に「ご静聴、ありがとうございます。」と言われる方がいる。話の内容に視点が集まっていて、気に留めないでいることが多い。また、形式的な挨拶だと捉えることもある。しかし、この「ありがとう」を本気で伝えたい。日常会話であっても同じ思いでいたい。話をする側の伝えたいという思いが伝わったと感じたときに本気でありがとうという気持ちを伝えられたら、きっと会話でのトラブルは今よりも少なくなるだろう。
 分かって当然という構えがいかにも多すぎる。子どもたちに伝える努力をして初めて、伝わったときに「努力が実った。分かってもらえた。有り難い。」と感謝の気持ちがもてる。努力しないでいると感謝の気持ちももてない。
 今、世の中には、言葉の省略、単純化など短くした言葉で氾濫している。そして、それが分からないと不安になる。伝える側の問題が問題とならず、受け止める側の問題になってしまっている。流行の言葉に乗っていては自分の心を伝えることができない。相手の顔を見て、反応を見ながら伝えることでその言葉の選び方もわかる。携帯メールでのやりとりには、大きな問題が潜んでいる。

ネームプレートの使い方

2008-11-24 | 育児
 どの子も活躍できる授業を作りたいという思いは、誰でももっている。その授業を目指して、黒板に子どものネームプレート(黒板掲示用)を利用することがある。一人一人を大切にしようと発言した子どもを板書と共にネームプレートを貼る。それを1時間し続けるとある程度の子どものネームプレートが貼られているが貼られていない子どももいる状態になる。
つまり、発言した子、発言していない子に分かれてくる。教師の一方的な指名で貼れば、子どもたちは、「せっかく発言したのに先生から当ててもらえなかった。」ということで、「発言したくてもできなかった。」という状況が生まれて不信感をもつ。
 これは、ネームプレートを発表した子しなかった子を区別することに使ってしまったから問題が起こるのである。
 「同じ考えの子はいるかな。」と発言内容と同じと考えている子どもをネームプレートを使って位置づけることでこの問題は解消できる。
 つまり、授業内容と関わらせて、授業に参加している姿をネームプレートで示すことになる。授業に全員参加をしているかどうかをネームプレートを見れば分かるという状況にするために利用するという構えがネームプレートの使い方を変える。そして、それが、指導の仕方を変えることになる。
<ネームプレートが貼られていない子どもが気になり、何とか位置づけようと考える。>
 ここが大事。個に合わせた指導がどうしても必要となる。(参加しない子どもが悪いという考えに立っていてはだめ。参加させるのは教師の仕事だと考えるから、指導の手だてを工夫する。)
・意図的に指名する。
・考える時間を作る。
・仲間の考えを再度整理し、理解を求める。
・選択肢を用意して選ばせる。
・別の場面を用意し、参加しやすい状況を作る。
 ネームプレートがないとどの子が授業に参加したかしなかったかが分からないからどうしてもネームプレートが使いたいという思いがもてるまでには、かなりの繰り返しが必要である。
 そして、使いこなすようになると、子どもたちも位置づけていないと、張り忘れを指摘したり、意見が変わったときにネームプレートの移動を要求したり、自分の位置づけを黒板で明確にしようと発言する姿も増えてくる。そして、「今日の勉強のキーになるのは誰の発言ですか?」と黒板のネームプレートを眺めながら、「○○さんのこの発言だ。」というように内容と人とを結びつけて話ができるようになる。ここまで使いこなせるようにしたい。

学ぶこと

2008-11-23 | 育児
 発見したときの感動(衝撃)は学びの原点だと思う。発見したことにより見方や考え方、感じ方も変わってくる。「何が起こるだろう。」「どうなるのだろう。」「どうしてだろう。」「どうしたらいいだろう。」とドキドキ、わくわくする時には多くを学ぶことができる。子どもたちは、本来毎日の生活にこのドキドキ、わくわくした感じをもっているのではないだろうか。大人のように経験と言語の量がかなり少ない子どもにとって初めて体験することがかなり多い。だから、ドキドキ、わくわくした気持ちでいることが多いだろう。
 無邪気な赤ん坊の時代、子どもはよく笑った。「できた。」「できた。」と喜んでいた。育てる側も子どもの変化が見えると嬉しくなり、一緒に喜んでいた。よく周りを観察し、新しいことを発見するとすぐにできるようにしようと何度も繰り返していた。親の真似をして何度も同じ繰り返していた。
 段々大人と同じように行動できるようになると、子どもの変化が見えにくくなってくる。すると段々子どもから目を離すことが多くなり、褒めることも少なくなっていく。しかし、子どもの内面では学びを続けている。
 人との関わる方も同様だ。子どもたちは、見える形から真似をする。それがどういう意味があるのかを知らないで、形を真似る。「おはよう。」「ありがとう。」「ごめんなさい。」などいつ、どこで、どのようにするのかを親から教えてもらったようにしている。
 親と子の世界から、子ども同士の世界に入っていくと、今まで作り上げた大人の真似だけでは通用しない。多くの様々な子どもと出会うからだ。今まで学んだことを精一杯使いながら、ドキドキわくわくしながら生きている。ぶつかることもある。トラブルが起きるのもそのためだ。だから、ここには失敗はつきものとなる。その失敗から学ぶことで子ども同士の世界に通用する生き方を身に付けていく。誰の真似をするとよいのか、どんな姿が生きやすいのか。毎日考えて生活をしている。中にはストレスをためる子どももいる。うまくストレスを発散させてくれる環境があれば、安心して子どもの世界で学ぶことができる。
 「こうすべきだ。」「こうしなさい。」と指示されているうちは学びはない。へたに大人が介入してもうまくいくことはない。子どもの世界に混乱を起こす原因にもなる。子どもは、自ら学ぼうとしない限り自ら繰り返し行動することはないからだ。
 強制的に繰り返しをさせていることが子どもの生活の中に多くあるとすれば、子どもにとって不幸なことだ。自分の意思とは関係なく、繰り返ししなければならないためストレスもたまり、解消する場も多く必要となる。荒れる子どもが多くなっている一つの原因として学びが子どもの本来の学びになっていないことは考えられないだろうか。
 子どもが自ら繰り返ししていることは、自ら学んでいることだ。この本来の学びを取り戻さなければ学ばない子どもになっていく。学びを拒否する子どもが最近増えてきたように感じるのは私だけだろうか。動けないで、指示を待っている子どもが多いように思う。
・あなたは、どんな自分になりたいの?
・あなたは、何ができるようになりたいの?
・あなたは、何をしたいの?
・あなたは、どうやって自分を生かそうとしているの?
・あなたは、このことから何を学んだの?
 子ども自ら学ぼうとしている心の中を探りたい。

教師の指導力

2008-11-22 | 育児
 教員の資質向上に関する研修会で、指導力不足の職員のもっている資質の傾向を教えていただいた。
 1 子どもを見下した表現が多い。
 2 うまくいかないことを子どものせいにする。
 3 授業内容に間違いが多く、板書が乱雑である。
 4 授業スタイルが一問一答である。
 5 休み時間に子どもと遊べない。
 6 子どもへの声かけが不適切である。
 7 突発的な行動に対応できない。
 8 指示待ちである。
 9 配布物に誤りが多く、不適切である。
10 他人への配慮がない。
 これらの姿が現れるのは、「対人関係をうまく作れない。」「自分を見つめる力に欠ける」「内面を探ることが苦手」「教科指導に欠ける」ことが原因のようだ。
 この話を聞き、目標をもって毎日を生活していることがとても大切なように思えてきた。今の自分に満足することなく、少しでも伸びようとする自分が新たな自分を創り出す。可能性をもった素敵な存在としての自分を承認することから始めたい。そして、それが自分を救うことにもなる。

すべきことをする

2008-11-21 | 育児
 感情的になっているとしなければならないことができなくなることがある。「失敗したことを引きずる。」「いやなことが思い出されて踏み込めない。」などはその例である。こんな時、いかに早く冷静な自分にするかが問題となる。
 喧嘩をして感情が高ぶっていると、なかなかすべきことをすることさえできなくなることがある。そんな時、こどもたちにも「そっとして置いてあげようね。」と声をかけることがある。
 しかし、これだけだといつも時間をかけないと解決ができないことになる。子どもにとってとても不幸なことだ。
 感情の高ぶりをおさえるためには、その感情と同じ高ぶりを共感してみるのも一つだ。
「そうだ。そうだ。本当に腹が立つ。」「分かるよ。その気持ち。」などと声をかけてみる。すると、まだ言い足りないことがどんどん言葉となって出てくる。すると次第に感情の高ぶりがおさまる。逆に「いつまでもそんなことでへこたれていてはだめだ。」などと強く出ると余計に感情が高ぶったり、不満を抱いたりすることがある。
 早くすべきことをさせたいと思っても、感情が子どもの活動を支配している。だから、これを収めないと次には進めない。
 早くして欲しいという気持ちで感情が高まっている子どもと接しているうちは、解決にならない。まして、放っておくことはその場の感情はおさまっても、分かってくれないという不満が残り、今後の子どもとの関わりが悪くなる。このように考えると改めて「すべきことをすることができる子」は落ち着いて生活している子なのだと強く感じる。決して当たり前のことではない。努力の成果だと思う。

疑ってみる

2008-11-20 | 育児
 私たちは、相手の言うことを信じながら、表現された言葉を自分に精一杯受け止めている。しかし、いくら一生懸命に受け止めたとしても、それは自分の解釈でしかない。相手が本当に伝えたいことは言葉で表せなかったこともあるはずだ。その言葉に表せなかったことも受け取って判断しなければ、相手を理解して受け止めたことにはならない。
 これは伝えるときでも同じ。「きちんと話を聞きなさい。」「ちゃんと話したでしょ。聞いていないとだめでしょ。」と聞き方の悪い子どもを叱ることがある。しかし、本当に子どもが悪いのだろうか?自分の伝え方が本当に子どもたちに伝わる伝え方をしているだろうか。言葉だけでなく、体全体を使って、誠意をこめて伝えているだろうか。「話したから伝わったはずだ。」というのは思い込みで、「本当に伝わっているだろうか。」と疑ってみることも大切だ。
 子どもたちは、そこまで深く考えて言葉を使って相手に伝えようと思って話しているわけではない。単に反応しているだけ。日頃の会話で学んだ反応の仕方で反応している。子どもは鏡である。こちらの対応に合わせている。だからこそ、言葉を丁寧に受け止める姿勢、言葉の背景にある思いまで受け止める姿勢を教師が示すことで子ども自身の言葉の受け止め方が変わっていく。
・私は、本当に伝わる伝え方を使っているのだろうか。
・私は、本当に相手を分かっているのだろうか。
・私は、本当に伝えているのだろうか。
 伝わったかどうかは、復唱したり、質問したりしながら確かめることができる。言いっぱなしでいることが一番危険だ。一言がかなり重いが、言葉が全てではない。言葉をきっかけに丸ごと相手を理解しようとする姿勢が言葉を変えていく。

自分を責めないで

2008-11-18 | 素敵な先生
 悩みを抱えていると前に進むことができない。今の状態が続くだけ。新しい一歩を踏み出すためには、悩みを早く解消しなければならない。解消できない理由は何だろう。自分のエゴは、ないだろうか。見栄はないだろうか。今の自分では、本当にいけないのだろうか。今の自分を肯定した上で、だったら何ができるのかを探りたい。自分を責めていては、新しい考えは浮かばない。もう、悩むのはやめよう。今できなくても、できる時期になれば、必ずできる。だってその芽はすでにあなたの身についているのだから。あとはそれが開花するのに必要な条件が整うのを待つだけ。焦ることなく、じっと耐えすべきことをしていよう。今のあなたで十分素敵だ。無理をしないで休んでください。
 「やることが一杯あって、眠れない。」・・・悩み続けて、なかなか眠られないという話を聞き、こんな言葉を贈りたいと思った。

意図して続けること

2008-11-17 | 育児
 子どもを育てる時、意図して続けていることがあるだろうか。先日、毎日学級通信を出していたという方と出会った。毎日学級通信を書くことなどなかなかできることではない。担任をしていたときには週1回が限度で、それ以上書くことができなかった私である。
 しかし、毎日であろうと週一であろうと続けることにはそれなりの考えがある。その考えが正しいと信じて続けている。そして、続けていく間に考えも少しずつ変わり、質の高いものになっていく。続けることで見えないものが見えてくることもある。今まで気づかなかったことに気づくとまた、続けたくなることもある。
 それぞれの置かれている状況において、続けている事の価値は人によって変わってくる。「これは、こんな価値があるから続けよう。」「これより、あれの方がより価値があるからこれはやめよう。」などと自分なりの価値観で決めたい。他人から「それはやめた方がいいよ。」と言われて止めるとしたら、いつも自分で決めることなく他人に頼る生き方しかできない。だから、意図して続けるか、それを止めるかは、価値観を作り出すまでは続けたい。
 意図して続けることは、自分らしい生き方を築くことになる。何を選ぶかは、人によって異なる。
・一人一人を大切にするために、具体的に何ができますか。
・どの子にも学力を付けるために、具体的に何をしていますか。
・どの子も健康な生活ができるように、具体的に何をしていますか。
・仲間と仲良く生活ができるように、具体的に何をしていますか。
・授業作りであなたは、何を大切にして続けていることがありますか。
・学級作りであなたは、何を大切にして続けていることがありますか。
など、様々な問いに応える具体的な行動をいくつあげられるだろうか。
無意識にしていることの中に必ずあるはずだ。それを意図して続けることで質が高まっていく。もう一度自分を見つめ直してみたい。

自信をもつ

2008-11-15 | 育児
 完璧な人間など一人もいない。まして、完璧な教師などいるはずがない。経験を重ね、理想とする教師に一歩ずつ近づいていくものだ。それぞれの立場から多くの人が私たちにいろいろと求めてくる。その要求に一つ一つ応えられる自分にしようと努力はするが応えられない自分を発見すると自信を失い、努力できなくなってしまう。
 求められていることが、本当に教師として私のために要求していることなのか、それともエゴのために私に要求しているのかをきちんと見極めなければ、しなければならないことにつぶされてしまう。
 日々の実践の努力は、あくまでも自分が理想とする教師像を求めている実践の歩みだ。誰も同じ歩みをするわけではない。自分に合わせて歩みを作り出していくしか自分を生かす道はない。楽をしているわけではない。自分の歩みがこれでいいのかどうかを確認しながら歩んでいるのだ。悩みはその過程で出てくるものだ。
 目の前にいる子どもを見ると、4月当初の子どもと同じだろうか。1学期の子どもと同じだろうか。子どもと関わってきたことで、変化したことが、教育の成果だ。その変化が望む姿ならば、大いに自信をもちたい。万が一、臨む姿になっていないとしても、それは、今後の取り組みの課題が明確になってきたと解釈すれば、この失敗をもとに次に生かすことができる。常に自分のしていることには、肯定的な意味があると解釈すれば、すべてよしとなる。
 若い頃は、揺れが大きく悩むことも多い。経験を積むに従ってその揺れは少なくなる。これは、子どもを育ててきた自信が裏付けとなっている。
 保護者は、自分の子どもが全てである。失敗をすれば、批判も多くなる。しかし、子どもや保護者に申し訳ないと思い、真摯に努力する姿を示すことで誠実な生き方を示すことになる。その誠実に生きる姿は子どもにも保護者にもプラスに働く。
 私たちは、人間教育をしている。子ども自身も完璧ではない。だからこそ、教師が見本となって不完全な人間としての生き方を身をもって示すことになる。外圧につぶされることなく、自分の信じる道を精一杯突き進みたい。
<例 教師としての人生設計>
○1年目~3年目(とにかく動き回る時期)
  教育実践を通して、教師としての自分のあり方をおぼろげに掴む。
○4年目~9年目(無我夢中で挑戦する時期)
  理想の教師像を作り上げ、師となる人物を見つけて近づく努力をする。
○10年目~15年目(俯瞰して見直す時期)
  組織の一員としてあるべき教師像を練り直す。
○16年目~21年目(創造的に活動する時期)
  組織を動かす教師として努力する。
○22年目以上(自分を生かす時期)
  後輩を育てる教師として努力する。
 教員生活を長いスパンで見つめることが自信につながる。
これは、完璧を常に求める保護者の期待とは大きくずれている。しかし、その時々の自分の持ち味を十分発揮することで保護者からの信頼を得ることができ、自信につながる。

具体的にイメージする

2008-11-14 | 育児
 「協力して仲良く活動しましょう。」・・・活動をする時に目標にすることの多い言葉だ。これは素敵な言葉で、誰もが目指そうとする方向として間違いはない。しかし、具体的なイメージは人それぞれ異なる。その違いが活動の姿に現れてくる。
 自ら仲良くなろうと働きかけをすることは、それほど簡単なことではない。一緒に体験しても仲良くなったことにはならない。活動に夢中になっていると仲間作りを意識することよりも体験することの楽しさの方が上回ることの方が多い。活動を終わって「楽しかった。」と言うが、「友だちと仲良くなった。」と言えるかどうかは別である。
 意図的に力を合わせないとできない活動が組まれていれば、「友だちとやって」とか「友だちのおかげで」という言葉が出てくるが、個人で楽しめる活動であれば、仲間を意識した言葉はなかなか出てこない。
どんな場面で仲良しをイメージしているのかが明確になっていないとただ活動をこなすだけになってしまう。次の4つを大切にして具体的な場面でのイメージ作りをしたい。
・一緒に行動する。(一人ぼっちを作らない。)
・一緒に相談する。(一人一人の考えを大事にする。)
・一緒に活動する。(活動がスムーズに進むように助け合う。)
・一緒に喜ぶ。(活動してよかったと共感し合う。)
 子ども一人一人に意識させる働きかけが重要になる。

どこまで子どもの力で?

2008-11-13 | 育児
 自習をしている学級を覗く。席を立つ子も殆どなく、静かに学習を進めている。これは、素晴らしいと思い、後で担任に話をした。担任は、子どもたちに褒められたことを子どもたちに紹介した。すると、喜ぶどころか「そんなことはない。まだだめだ。」と子どもたちから返ってきたと言う。
 この話を担任から聞き、子どもたちから完璧を求めている厳しさを感じた。どの学級でも同じようにこんな姿になるとは限らない。これは、それぞれの学級が作り出す風土であり、よりよい姿を求める姿がある学級だからこそこんな姿になるのだ。
 ただ、どこまで子どもの力でできるかの見極めがとても重要になる。学級の中にはみんなと同じようにできない子は必ずいる。その子を本気で支えてできるようにしようという学級集団なのか、自分たちの価値観から「仲間だからそうすべきだ。」と押しつける学級集団なのかによって対応が異なってくる。
 本気で支える仲間ならば、できない子の気持ちを考えたり、一緒に歩もうとしたりするため、できない子のペースが生かされる。しかし、押しつける仲間ならば、願いから行動を押しつけることが多くなり、できない子のペースは乱される。集団の力が強ければ、強いほど渦中の子どもには、その見極めは難しくなる。どんな学級集団なのかを捉えている教師だからこそ見極めることができる。
 「よく頑張ったね。あとは先生に任せてね。」と教師がゴールを示し、新たな目標を示せば、子どもたちも次の目標に向かって歩み始める。全員到達した時の充実感をどの子にも味わわせたいという思いを強くもちすぎると負担が大きくなる。子どもたちの実態に合わせて充実感を味わわせる場をどこに設けるかは教師次第。ここは無理をしないで教師が前に立とうするか、ここは最後まで子どもの力でやり通そうとするかは教師の腕の見せ所となる。全員でできることを一つずつ根気強く増やしていくことに力を注ぎたい。誰でも一度に多くのことはできない。時間をかけ、一つずつ丁寧に取り上げることで子どもたちも充実感をもてる。できないからと言って焦っても子どもは急には変わらない。焦らずこつこつと進めることが子どもたちの力でできることを増やすことにつながる。