よりよい授業づくりをしていく中で、よく子どもを見なさいと先輩に言われることがありました。この子どもをよく見るということは、授業で様々な刺激を与えている授業者に反応するのが子どもだから当然といえば、当然のことです。
いくら教師がよい授業観をもっていても、受け取る子どもにそれが伝わっていかなければ、よい授業とは言えません。
つまり、授業は、受け取った子ども次第で決まることになります。
ですから、反応をよく見るということは、授業づくりではとても大切になります。
新任教師の頃は、伝えたいことを明らかにするだけで、なかなか子どもの反応まで見るゆとりがなかったように思います。
ある程度の反応が読めるようになると、次第にゆとりがもて、子どもの反応をうまく利用して、授業を組み立てることができるようになっていきます。
その過程では、やはり子どもの反応を見ていた自分があるように思います。
ただ、この子どもの反応という場合、何を見るかによってかなり、授業の質が変わっていきます。
多くの場合、子どもの言葉を取り上げます。それは、発問に対する答えとして、子どもが言葉を返してくれるからです。
帰ってくる言葉を吟味することで、授業の質を見ることができます。
例えば、話し合いのできる授業を作るとしましょう。
そのためには、子どもの反応が教師の言葉への反応だけでなく、一緒に学習する仲間に向けた言葉が言えるようにしなければ、なりません。
この時、「私は、~と思います。」と言う発言を10人続けても話し合いにはなりません。10人がバラバラで一人一人につながりがないからです。自分の主張を言うだけになり、話し合いではなく、言い合いでしかありません。
中には、仲間の意見とは異なる意見を言うことが学級で話し合いをしているように錯覚している子どもや教師もいます。これだと、次第に挙手する子どもが減っていきます。初めに20人手を挙げていても、同じ考えだと判断した子どもは次から手を挙げないようになります。それが5人に減り、2人、1人と次第に挙手が減っていくということになります。これでは、話し合いをする学級にはなりません。
仲間の発言に反応すると、発言を聞く前の自分の考えと比べることになり、情報が増えた分考えが深まり、変化します。その変化した考えを言うということになれば、発言が増えれば増える程、複雑になり、思考が深まっていくはずです。ですから、「わからない。」とか、「○○さんと△△さんは、似ている。(同じ)」とか、「まとめると~ということなのでは」などと発言の内容に関わる発言が増えてきます。挙手が増えてくることはあっても、減ることはありません。
教師は、出てきた発言を整理しながら、本質へと迫るための言葉かけをし、次第に本時ねらいたい方向へと誘導していくことになります。
このように発言を吟味するか否かは、授業の質に大きな違いが生まれてきます。
教師の思い通りの発言が出てきて満足しているうちは、子どもの発言をよく観察していないと考えた方がよいでしょう。
1,教師の思い通りの発言をうまく引き出せない授業
2,教師の思い通りの発言を引き出すことのできる授業
3,思わぬ発言が出て、その発言をうまく生かせずに苦しむ授業
4,思わぬ発言が出ても、うまく授業の中で生かせる授業
発言だけを見ていくと授業の質は、この4つの段階を経て、高まっていくと考えることができます。
ただ、2と4は似ているため、自分の授業が2なのに、4だと錯覚している教師をかなり見かけることがあります。
この2と4の違いは、発言をした子どもの内容を他の子どもが受け止めることができているかどうかを探っているかどうかの違いになります。
常に学ぶ側は子どもです。教師の刺激に対する反応だけを観察していると2で満足してしまいます。
子どもの刺激に対して反応する子ども・・・つまり、聞き手となっている子どもの反応を意識しているかどうかがポイントとなります。
この場合の観察は言葉ではありません。話し合いの場合、一人ずつしか発言ができないため、言葉だけをとらえていると一部の子どもだけによる話し合いになってしまうことが懸念されます。ですから、言葉以外の反応にも注意を払う必要があります。
子どもは、仲間の発言に対して体全体で受け止め、反応しますから、全体の雰囲気をよく観察する必要があります。
ですから、「子どもの今の発言を子どもたちはどのように受け止めたのだろう。」と顔の表情や動き、態度などを一瞬のうちに受け止めなければなりません。
それは至難の業です。
ですから、私は、子どもたちに「わかったか、どうか、挙手で教えて。」と必ず挙手で反応するようにお願いします。(ここで挙手のルールが生まれます。発言のための挙手のルールではなく、発言に反応するためのルールという考えになります。例、わからない→グー、同じ→パー、意見がある→チョキなど)
子どもたちもわかりたいと思っていますから、仲間の発言に対して、わかった、わからないと判断し続けることは、授業への参加を前向きにする機会になります。どの子もわかるようにしたいという願いを教師はもっていますから、この反応をきちんと受け止めることが重要になります。
このように授業の質を上げることが、授業づくりには欠かせませんが、その基本は、子どもをよく見るということになります。
授業研究をしっかりしていても、子どもがどのようにそれを受け止めるかは、子ども次第です。わかるできると判断するのは、教師ではなく、子どもです。
子どもを見ずに授業が進むとすればとても恐いことです。一人一人が本当にわかっていこうとしているのか、授業から逃げていく子どもはいないか、子どもから目を離さない教師でいたいと思います。
まして、授業に参加しない子どもが悪いと子どもの責任に転嫁する教師は論外です。わかりたい、できるようになりたいと子どもは思っています。ただし、その表現は、人それぞれなのです。それも教師の子どもの観察力にかかっています。
いくら教師がよい授業観をもっていても、受け取る子どもにそれが伝わっていかなければ、よい授業とは言えません。
つまり、授業は、受け取った子ども次第で決まることになります。
ですから、反応をよく見るということは、授業づくりではとても大切になります。
新任教師の頃は、伝えたいことを明らかにするだけで、なかなか子どもの反応まで見るゆとりがなかったように思います。
ある程度の反応が読めるようになると、次第にゆとりがもて、子どもの反応をうまく利用して、授業を組み立てることができるようになっていきます。
その過程では、やはり子どもの反応を見ていた自分があるように思います。
ただ、この子どもの反応という場合、何を見るかによってかなり、授業の質が変わっていきます。
多くの場合、子どもの言葉を取り上げます。それは、発問に対する答えとして、子どもが言葉を返してくれるからです。
帰ってくる言葉を吟味することで、授業の質を見ることができます。
例えば、話し合いのできる授業を作るとしましょう。
そのためには、子どもの反応が教師の言葉への反応だけでなく、一緒に学習する仲間に向けた言葉が言えるようにしなければ、なりません。
この時、「私は、~と思います。」と言う発言を10人続けても話し合いにはなりません。10人がバラバラで一人一人につながりがないからです。自分の主張を言うだけになり、話し合いではなく、言い合いでしかありません。
中には、仲間の意見とは異なる意見を言うことが学級で話し合いをしているように錯覚している子どもや教師もいます。これだと、次第に挙手する子どもが減っていきます。初めに20人手を挙げていても、同じ考えだと判断した子どもは次から手を挙げないようになります。それが5人に減り、2人、1人と次第に挙手が減っていくということになります。これでは、話し合いをする学級にはなりません。
仲間の発言に反応すると、発言を聞く前の自分の考えと比べることになり、情報が増えた分考えが深まり、変化します。その変化した考えを言うということになれば、発言が増えれば増える程、複雑になり、思考が深まっていくはずです。ですから、「わからない。」とか、「○○さんと△△さんは、似ている。(同じ)」とか、「まとめると~ということなのでは」などと発言の内容に関わる発言が増えてきます。挙手が増えてくることはあっても、減ることはありません。
教師は、出てきた発言を整理しながら、本質へと迫るための言葉かけをし、次第に本時ねらいたい方向へと誘導していくことになります。
このように発言を吟味するか否かは、授業の質に大きな違いが生まれてきます。
教師の思い通りの発言が出てきて満足しているうちは、子どもの発言をよく観察していないと考えた方がよいでしょう。
1,教師の思い通りの発言をうまく引き出せない授業
2,教師の思い通りの発言を引き出すことのできる授業
3,思わぬ発言が出て、その発言をうまく生かせずに苦しむ授業
4,思わぬ発言が出ても、うまく授業の中で生かせる授業
発言だけを見ていくと授業の質は、この4つの段階を経て、高まっていくと考えることができます。
ただ、2と4は似ているため、自分の授業が2なのに、4だと錯覚している教師をかなり見かけることがあります。
この2と4の違いは、発言をした子どもの内容を他の子どもが受け止めることができているかどうかを探っているかどうかの違いになります。
常に学ぶ側は子どもです。教師の刺激に対する反応だけを観察していると2で満足してしまいます。
子どもの刺激に対して反応する子ども・・・つまり、聞き手となっている子どもの反応を意識しているかどうかがポイントとなります。
この場合の観察は言葉ではありません。話し合いの場合、一人ずつしか発言ができないため、言葉だけをとらえていると一部の子どもだけによる話し合いになってしまうことが懸念されます。ですから、言葉以外の反応にも注意を払う必要があります。
子どもは、仲間の発言に対して体全体で受け止め、反応しますから、全体の雰囲気をよく観察する必要があります。
ですから、「子どもの今の発言を子どもたちはどのように受け止めたのだろう。」と顔の表情や動き、態度などを一瞬のうちに受け止めなければなりません。
それは至難の業です。
ですから、私は、子どもたちに「わかったか、どうか、挙手で教えて。」と必ず挙手で反応するようにお願いします。(ここで挙手のルールが生まれます。発言のための挙手のルールではなく、発言に反応するためのルールという考えになります。例、わからない→グー、同じ→パー、意見がある→チョキなど)
子どもたちもわかりたいと思っていますから、仲間の発言に対して、わかった、わからないと判断し続けることは、授業への参加を前向きにする機会になります。どの子もわかるようにしたいという願いを教師はもっていますから、この反応をきちんと受け止めることが重要になります。
このように授業の質を上げることが、授業づくりには欠かせませんが、その基本は、子どもをよく見るということになります。
授業研究をしっかりしていても、子どもがどのようにそれを受け止めるかは、子ども次第です。わかるできると判断するのは、教師ではなく、子どもです。
子どもを見ずに授業が進むとすればとても恐いことです。一人一人が本当にわかっていこうとしているのか、授業から逃げていく子どもはいないか、子どもから目を離さない教師でいたいと思います。
まして、授業に参加しない子どもが悪いと子どもの責任に転嫁する教師は論外です。わかりたい、できるようになりたいと子どもは思っています。ただし、その表現は、人それぞれなのです。それも教師の子どもの観察力にかかっています。