ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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褒め上手

2013-06-24 | 育児
 つい叱ってしまって、なかなかうまく褒められないという人の数は、かなり多いようです。

 それは、なぜでしょう。

 私たちは、課題解決型の学習に慣れていますから、現実にできていないことを目標にすることが多いのではないでしょうか。
 
 例えば、挨拶ができる子になって欲しいと思うことがあります。

 子どもに挨拶の意義だとか、挨拶の仕方だとか、挨拶に関わる気分だとか、挨拶ができるようになるための必要な内容を探り、指導の手だてを考えます。

 そして、その指導の結果、挨拶ができる子どもが増えていくと、挨拶ができない子への指導に焦点が集まります。

 そして、「なぜできないのだろう。」「どうすれば、できるようになるのだろう。」と考えます。

 その後、また新たな手を加え、できない子に対して指導します。

 私たちは、指導力を高めるとは、このできない子どもへの手だてを増やすことだと考えることが多いように思います。
 逆にできない子がいつまでもできない状態にあれば、指導力がないと思われます。
 子どものできる姿を増やすことと指導力を重ねて考えているとどうしても焦点は、できない子どもに当てることになります。

 こうなると、なかなか褒めることはできません。 

 

 「できる子が増えてよかった。」=指導力がある自分 

となるからです。

 つまり、できた姿が増えることが、自分自身の安心・安全につながるのです。(子どもができる=教師の指導力)

 指導の背景に自分の指導力があるとこのようになかなか褒められない姿になります。


 これは、子どもの成長を喜ぶ自分ではありません。

 子どもの成長を喜ぶ自分であれば、できた姿が気になります。

 「なぜできたのだろう。」「どういう過程を経てできるようになったのだろう。」とできた子に焦点が当たります。

 例えば、「一度指導しただけなのに、どうしてできるようになるのだろう。」「何がそうさせたのだろう。」などと探ります。
 
 それは、「~があると挨拶ができるようになる。」を発見することになります。ここには、発見の喜びがあります。

 これが、褒めることにつながります。

 できる要素を発見することでができれば、その要素をもっている子どもを見つけようと必死になります。また、その要素を広げようと試みることにもなります。また、別の要素はないかと探ることにもなります。

 「なぜできるようになったの?」「何がきっかけになったの?」と常にできた子どもに焦点が当たっています。

 ここには、子どもの変化を喜ぶ自分がいます。子どもの可能性を信じて疑わない自分がいます。

 これは、指導力とつないでいる自分はありません。

 ところが、実際のところ、この方が指導力のある教師であることの方が多いのです。
 
 それは、できた自分を承認されるため、子どもが自信をもち、やる気をもって取り組むことができるからです。

 変化するのは、子どもです。その子どもの変化を喜べる私たち教師であるはずなのに、

 できて当たり前=自分には指導力があるから

にしてしまってはいることはないでしょうか。
 
 子どもの成長を心から喜ぶ教師が、褒め上手になります。

 自分の指導力と切り離し、子どもの成長と共にいる教師です。

 このように褒め上手な人は、常に相手と共にいる人ではないでしょうか。

 子どもと共にいる私たちでいたいと思います。

本当に大事にしたいことは

2013-06-17 | 育児
 社会の中で生きていくために、社会のルールを守ったり、社会の中で自分を生かしたりすることは、とても大切です。
 学校教育は、その大切さを学ぶ大事な機会と考えることができます。

 家庭が基盤ですから、それぞれの家庭で、大事にしてきたことを身につけたことを子どもたちが、家庭ではない学校という世界に飛び込んで、試してみることになります。

 そのため、失敗したり、思い通りにならなかったりすることがあります。

 この時、子どもたちは、不安や不満をもちます。

  
 一番安心で安全な場である家庭は、居心地がよいため、子どもたちは、不安や不満を吐露することができるのです。

 この時の家庭の受け止め方によって、かなりその後の子どもの学校での暮らしぶりが違ってきます。

 不安や不満を生み出す学校が問題だと捉えると、子どもにとって逃げ道は、家庭になります。
 そして、子どもにとって、学校が居づらい場所となります。
 この場合は、家庭が居心地がよく、学校は居心地が悪いという状況を作り出します。

 

 何とか学校でも頑張らせたいと思っていると、不満や不安を受け取りながらも、その後の対処の仕方を考えることになります。
 今までのやり方ではうまく行かないということを学ぶことになります。そして、子どもも本当はうまく行かず、苦しんでいることに気づくことができます。

 うまく行かないから、どうすればよいのか・・・・・

 これを家庭で学ぶこととなります。どのように対処すればよいのかを伝えることのできる家庭であれば、子どもは、家庭で学んだ事を元に新たな挑戦をし、学校で対処しようと頑張ります。なぜならば、いつでも支えてくれる安心できる家庭があるからです。


 子どもの思いに同調して、学校を排斥するよりも、学びが多く、子どもとの関係も深くなります。
 不満や不安があっても、必ず支えてくれる家庭があるという安心感が学校での頑張りを支えることになります。

 子どもたちが、将来生きていくであろう世界は、何が起きるのかわかりません。私たちにとっても、予測不可能です。その時にその社会が悪いと批判しても何の解決になりません。その世界の中で生き抜くしかないのです。

 今、学校で、失敗しながらでも、学び続ける子どもであれば、必ず自分が生きる社会の中で果敢に挑戦する子どもになっていきます。


 本当に大事にしなければならないのは、今の学びです。将来に生きる学びの機会を奪うことなく、不安や不満をうまく受け取り、対処の仕方を一緒に考える家庭であってほしいと思います。

 子どもにとって、家庭が基盤であることは確かです。どんな考え方をするかによって、子どもの将来も決まってしまうということになります。

 学校に任せればよいという時代ではありません。それぞれの家庭の力が問われる時代にもなっているということです。

 そして、学校も同様に、子どものために精一杯頑張る家庭をバックアップできる力をもっているかどうかが問われる時代でもあります。

 両親が子どもを挟んで3人で手をつないで歩くように、学校と家庭が連携することで、その間にいる子どもは、安心して生活できるのではないでしょうか。

 子どものために力を合わせて頑張りましょう。

他人のせいにしたがる

2013-06-10 | 育児
 私たちの周りには、様々な問題が起きます。その問題をどのように捉えるかは、受け取った人次第です。

 例を挙げて説明しましょう。
 遅刻した人がいたとします。その遅刻したことについて、「遅刻は、絶対に許されない。」と捉える人もいれば、「遅刻することは、誰にでもあるから仕方ない。」と捉える人もいます。
 きっと遅刻した理由を聞くでしょうが、その理由への思いが異なってきます。
「絶対に許されない。」と考えている人であれば、その理由が遅刻する理由として納得できない点を探したり、もっと努力すべき点を探したり、遅刻しないための努力や対応の至らなさを探し回ります。そして、それができない人だから、遅刻するのだと相手を否定することが多いでしょう。

 でも、「遅刻することは、誰にでもあるから仕方ない。」と考えている人は、理由を聞くだけで、その後、前者のように強く追求することはしないと思います。
 
 このように遅刻に対する重要度の違いが、問題の大きさになってしまいます。
 
 つまり、誰が問題を重要にしたかと言えば、「遅刻は絶対に許されない。」と捉えた人になります。

 このことは、遅刻に限らず、すべての価値観につながります。きれい好きの人、完璧主義の人、正義感の強い人等・・・すべての価値観を強くもっている人が問題の需要性を強調します。

 このことが悪いと言っているわけではありません。問題は、自分次第で問題になるということです。

 この時、問題にしたのは、自分なのですが、問題にした自分を責めることなく、原因を他人のせいにしたくなるのが、私たち人間です。

 これは、脳のはたらきと大きく関わっています。

 自分の安心・安全のために働く脳が、自分を守るために、様々な知恵を使います。他人のせいにしたくなるのもそのためです。

 自分が被害に遭わないように、自分の外のものに責任を転嫁するように働きます。

 「時間がなかった。」
 「お金がないから。」
 「○○さんが、言ったから。」
 「みんな、そうしているから。」
 「場が悪いから。」
 「そうする時期ではないから。」

などと自分から離れた対象としての時間、空間、もの、人などに責任を転嫁します。
 こうすることで自分を守ることができます。責任が自分にないとなると楽になります。

 ただし、この事が逆に生きづらくしていることにもなります。

 責められない自分でないと許されないのですから、価値観の強い人は、自分は、その価値観を大事にしない生き方は、絶対に避けようとします。

 時間厳守の人は、絶対に遅刻をしない自分にするために、様々な手を講じます。

 そして、万が一自分が遅刻をすると、自分を責めます。そして、自分を否定します。「こんな自分ではいけない。もっとその価値になった自分にしよう。」と強く願います。

 つまり、強い価値観は、人を裁くだけでなく、自分をも裁くことになります。これが、生きづらさになっていきます。

 もし、強い価値観で生きている自分に気づくことができたら、その価値観が自分を苦しめていることに気づくことができます。

 悩んだり、苦しんだりすることがあったとき、必ずそこには、自分の価値観があるはずです。

 この価値観が強すぎるために、悩んだり、苦しんだりしていないかを見つめてみることが問題解決の近道になります。
 
 実は、問題はないのです。ただ、気づきがあるだけです。問題は、自分が創り出している幻想に過ぎません。

 もし、今悩んだり、苦しんだりしているあなたがいたとしたら、自分の価値観を見つめる機会が今現れていると考えてみてはいかがでしょう。

 そこには、新たな気づきとともに新たな学びがあります。

特別に支援を要する子

2013-06-03 | 育児
 価値観が多様化し、保護者の子育ても昔よりも難しくなっています。昔は、今よりももっと学校への信頼感が強く、「学校の先生の言う事」をかなり価値あるものと受け止められ、家庭教育への影響は強かったように思います。
 また、私がまた若手教員だった頃は、「将来のある若い先生だから・・・・」と少々の失敗に対しても保護者の方々に大らかな対応をして頂いたように思います。

 学校と家庭との距離が生まれてきた今日、学校と家庭との距離を埋めるために、情報を共有したり、連携を強め、深めるための取り組みを考えたりすることが多くなっています。
 ただ、これらは、学校と家庭との信頼関係が成り立って初めて、意味のある事だと思います。
 その信頼関係が成立しない状況では、学校と家庭の間にいる子どもが犠牲になってしまいます。

 近年、特別支援教育への関心が高まり、年々特別に支援が必要な子どもの数が増えています。
 この状況に対して不安を感じています。

 例えば、他人との社会的関係の形成の困難さやこだわりの強さなどがあると発達障がいはないかと疑いをもちます。

 この状態のある子に対する指導や配慮の大変さから、通常学級で学習するよりも特別支援学級等での学習を考えることがあります。

 しかし、これらの状態が生まれてくるのは、必ずしも障がいによるものだとは限りません。

 子どもが置かれた環境によっては、障がいでなくても同じような状態のお子さんが育ってきます。

 例えば、人間関係づくりが不得手な両親の元、子どもの教育に余り関心がないという状況の中で育てられれば、同じような状態を表す子どもが育ってきます。
 そのような家庭であれば、教師から、子どもの状態を心配し、特別支援学級等を勧められたとすれば、安易にその誘いに乗ってしまうこともあります。
 障がいがあるか、ないかは、検査や診断などで決まりますが、医師への情報に片寄りがあれば、過った判断をしかねません。
 
 もしも、障がいがないにも関わらず障がい者として扱われることがあれば、子どもにとって悲劇でしかありません。

 環境による影響を受けやすいのが子どもです。子どもの生活・学習環境を整え、学校と家庭が手を取り合い、学校教育・家庭教育の両面から子どもの健全な発達を願わなければなりません。

 子どもの健全な発達のために何が必要なのか考えることは、互いの価値観を超えた子どもへの愛しかありません。

 目の前の子どもを愛するからこそ歩み寄れるのです。自分の価値観を押しつける事は、子どもが犠牲になります。

 子どもの障がいを疑う前に、子どもの置かれている環境に目を向けることが、子どもを健全に育てる第一歩だと思います。

 人間の脳は焦点を当てたものに目を向けやすくなる傾向があります。障がいを疑うとその障がいに合った状態を探し始めます。
 障がいではないかもしれないという視点を見失うことなく、子どもが健全に育つ環境にあるかどうか、広い視野から子どもを観察し、子どもの成長のために努力したいと思います。