ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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どんな評価も受け入れる

2009-11-30 | 育児
 人にどのように見られているのか、気にならない人はいない。そして、その評価に踊らされている自分がある。
 これって本当に自分らしいの?と問いかけてみる。
例えば、子どもに注意をした後、子どもから「先生、それを言うと生徒から嫌われるよ。」と言われた時、何と答えるだろう。子どもに好かれたいと思っていると、ちょっと言い方を変えようかなと考えたり、何を言っているんだと思ったりする場合は、まさに子どものその言葉に踊らされていることになる。しかし、「へー、そうなんだ。」と言った子どもの見方がわかったと喜ぶ姿勢があれば、これはちがう。全く子どもの言葉に踊らされていない。私の指導で「嫌いだ。」と思う子どもがいてもいい。私が指導するのは、子どもに好かれたいからする指導なのではない。必要だと思っているからする指導なのだ。それよりも、大事なことは、その指導で子どもが変化したかどうかということだ。「痛いところをつかれた。」、「嫌だ。」と思っても受け入れる子どもであれば、指導が生きたことになる。「私は、あなたを愛しているから、きっとわかってくれるはずだ。」「あなたを絶対に不幸にはしないから。」と自分の指導に信念と誇りをもって子どもの指導に当たる。ただ、それだけのことだ。子どもとの信頼関係は、その1つの指導で変わるわけではない。日頃の信頼関係を作り出す営みがあっての1つの指導だ。だから、信頼関係が築けていない上でのこの言葉と受け止めれば、対応は異なる。子どもに行った指導よりも「そうか、相手との信頼関係が築けていないかもしれないな。」と思って、その信頼関係を築く営みをすることになる。子どもはその時々の指導に反応し続けているだけなのだ。その反応に振り回されないで信念に基づいた揺るぎない自分で臨みたい。
だから、指導に対する自分への問いかけが絶えず必要となる。
・この指導は、本当にその子のための指導なのか。(願う姿)
・この指導は、何のために必要なのか。(指導の意図)
・指導技術を磨く必要はないだろうか。(指導する能力)
・指導の仕方は、これでよいだろうか。(指導の方法)
・指導による周りへの影響を考えているだろうか。(指導の場)
 ここには、保身はない。ただ、子どものためなのだ。愛がこれらを支えている。足りないと気づけば、磨くだけだ。言葉に踊らされることではない。

なぜ教師を続けられるのか

2009-11-29 | 育児
 職業を決めるきっかけは、人それぞれ違う。自分に合った職業を人は、天職と呼ぶ。すべての人が天職についているとは限らない。教師も同じだ。この人が本当に教師をしていてもいいのだろうかと疑う教師も中にはいる。その違いは何だろう。教師として採用されたということは、ある面から見れば教師としての資格をもっているという判断があって教師になっている。ひょっとすると、その後の体験が、質を下げてしまったのかもしれない。壁にぶつかって自分の理想としていた教育の世界と現実のギャップに打ち砕かされて自分の夢を捨ててしまったのかもしれない。そして、本当はそうでないのにこの程度でも教師が続けられると勝手に判断してしまったのかもしれない。
 はじめから立派な教育観を誰もがもっているはずはない。長年の教師経験を経て、自分の教育観を確立していく。ただ、ある地点で自分で教育とはこれだと決めた瞬間が必ずある。その時の経験が今の自分を作り出している。教師としてふさわしい体験に恵まれた人は、それなりに教師としてふさわしい生活を送ることができる。逆にそうでない体験をすることで自信をなくしてしまうこともある。この瞬間に誰と出会うかが、大きい。
 その出会いは、子どもかもしれない。保護者かもしれない。教師として一緒に働く仲間かもしれない。誰とは決められないが、必ず出会う人によるものだ。授業がうまいとか下手だとかという問題ではない。人格者としての教師像なのだ。
・「先生のおかげで、子どもが~となりました。本当にありがとうございました。」
・「子どもがこんな姿になる。これが教育なのだ。」
・「それで、いいよ。それを大事にして頑張って。」
 この言葉は、教師を続ける自信につながる。
しかし、
・「先生なんか嫌いだ。」
・「どうして、~をしてもらえないのですか?」
・「教師なのに何をしているのだ。」
などと教師としてのあり方に疑問を投げかけられることで自信を失い、収入を得る手段としての教師に甘んじてしまう人になってしまうこともある。
 「いや、それでは。」と奮い立って頑張るだけの使命感があれば、こんな言葉に踊らさることはない。しかし、それほど強くなければ、この言葉で自分を苦しめてしまう。これではもったいない。
 完璧な人はいない。誰もが失敗を経験しながら、伸びていく。失敗を負としてとらえないで可能性が広がったと思えばまだチャンスはある。 これは、教師としての有り様というよりも人としての生き方そのものだ。複雑になったこの時代を生きぬく智恵をもっている人が教師としてふさわしい自分を作り上げていく。プラス思考で物事をとらえることこそ、その原動力となっている。ここには、可能性が広がっている。だから、よりよい姿を求めて生きていける。そして、天職と呼ばれるように自分を作り上げていく。
 誰もがその可能性を秘めている。それをうまく引き出してもらえた人は幸せなのだ。だから、出会いは大切だ。教師を育てる環境にどっぷりとつかっている人は幸せだ。そうでなければ、自らその環境を作り出す自分でいたい。面倒だと思う自分があるとすれば、その生き方がすでにできない教師としての自分の枠を作ってしまうことになる。今の自分を作る場は、同時に長い教員生活を続けていくためのきっかけを築く場でもある。
 学ぶ場は見つける気があれば、どこにでもある。情報を得る手段はどこにでもある。本であり、インターネットであっり、直接出会った人であり、それは様々だ。必要なのは構えだけだ。自分を教師として生かそうとする構えだけだ。

役割分担はエゴを生む

2009-11-28 | 育児
 誰かのために何かをしようと思ったことはあるだろうか。自分のために時間を使い、お金を使い、人を使うことと比べると人のためにこれらを使うことは少ないのが私たちかもしれない。人のためこれらを使うことを躊躇する時は、必ず自分が顔を出す。そのときに見えるのが損得というエゴ。誰もがもっている感覚だ。しかし、これが、徳となると違ってくる。損をしたと思ってもそれが、徳になることはいくらでもある。人のためにしたことが自分のためになることはいくらでもあるのだ。
 教師という職業は、子どものために何ができるかという問いかけを自分にしている仕事だ。
 無駄を省いて効果的に仕事を進めたい、もっと自分の時間を作りたいなどと思う時、自分の時間と子どもの時間を分けて考えている自分がいることに気づく。
 しかし、そうではない。自分のためにしていることが実は子どものためになっていることや逆に子どもにしていることが自分のためになることがある。これは、コインの裏表に似ている。
 分けて考えていると綱引きが始まる。できれば、自分の時間をたくさん作りたいと思えば、子どものための時間を少なくしようとする。こうなると、子どものための時間は、自分の時間を奪うものになっていく。
ここには、愛はない。エゴだけが残る。そうではない。
 自分の時間を過ごしているときに、ちらりと「これは、学校で使えそうだ。」「○○さんならきっと喜ぶだろうな。」などと学校の事や子どもの顔が浮かぶことがあるとすれば、これはまさに裏表だ。リフレッシュして、また頑張ろうという気持ちになるとすれば、これも裏表だ。豊かな自分になれば、それを子どもたちに還元できると考えれば、これも裏表だ。
 綱引きをしていれば、申し訳なさや後悔などが生まれる。これでは、自分の時間を十分に楽しむことはできない。自分のためにも子どもたちのためにもなると考えれば、申し訳なさも後悔も生まれない。
 人のための仕事は、自分のためにもなると考えれば人のために全力を尽くすことができる。自分の時間を奪われたと思えば、全力を尽くすことはできない。役割を分担することは仕事を単純にしてこなすことにはなるが、自分と他人を分けることになり、裏表にすることはできない。複雑になった世の中だからこそ知恵を働かせてこんな仕組みを作ってきたのだろう。しかし、本来裏表で考えなければならないはずのことなのだ。全体が見えなくなって自分の目の前のことしかできないのは、この役割分担になれてきたからだ。裏表で考えていれば、本当ならば自分がすべきことをしてもらったと考えることができ、感謝の気持ちも生まれてくる。ここには、他人と自分の区別はない。このように考えれば、誰もが幸せになれる。

複雑さを簡単に

2009-11-26 | 育児
 日頃からやっていると癖になって、あまり気にしないでできることが、初めてとなるとなかなかできないことがある。癖となって身につけるまでには相当の繰り返しが必要となる。複雑になれば、なるほど身につけるまでの繰り返しが重要となる。
 授業はまさにこれだ。授業には、資料の提示(順番、タイミング、時間)、机間指導(時間、対応の仕方、対応の内容、評価)、発言への対応(内容の取り上げ方、時間、評価)、ノート指導(記述の仕方、内容、時間)、板書(内容、構成、時間)など多くの内容が含まれている。
 これを私たちは、短い時間の流れの中でやっている。短い時間の中で順番に行っていく。癖になっていれば、多くの内容をやり切ることができる。ただこれが、授業に対する考え方の違いによって、1時間に扱う内容に違いが生じる。
・資料を提示せずに、教科書で済ませることもできる。
・子どもの発言を取り上げる時間を短くし、教師が説明をする時間にすることもできる。
・書かせるだけにして評価しなくても授業は進む。
・板書をせず、発言を聞くだけでも授業は進む。
 いくらでも手抜きができる。(知っていれば手抜きだが、必要だと気づいていなければ、少ない内容でも平気で授業を進めていく。)
 多くの場合、知らないでしていることが多い。また、それをすると時間がかかるからやらないでいることも多い。
 例えば、評価だ。授業の内容を進めていけば、評価はテストを通して行えばよいと考えれば、授業内での評価をせずに授業を進めることもできる。(これが一番授業の質を下げてしまうことに気づいていない。)
陥りやすいのが次の考え方だ。
・評価をしながら、進めると思い通りに進まない。
 (子どもの反応に合わせると時間が読めなくなる。)
・評価そのものに時間がかかり、内容をおさえることができない。
・評価が記録として残らないので、効果が薄い。など
実際には、
・評価をしながら進めると、子どもにとってわかる授業になる。
・授業中に評価をしようとすれば、評価の仕方を工夫する視点がもてる。
・子どもは評価されることで自信をもつことができる。この積み上げは大きな力となる。
・評価することで学び方が身に付く。
 子どもに力を付けるのが本来の仕事であるにも関わらず、授業の中で力を付けずに、評価を後回しにして授業の内容を押さえることにしている。これでは、子どもに力が付かない。評価も毎日の繰り返しをすることで短い時間でできるようになっていく。
 例えば、○○さんの発言として板書に位置づけるために氏名カードを利用することがある。(これは発言の有無の評価、発言内容の質の評価、他者からの評価などいろいろな評価に利用できる。)
 氏名カードを黒板に貼ろうとすると、氏名カードの位置がわからなければ、探すことに時間を費やす。一見時間がかかるように思えるが、慣れてくるとすぐに氏名カードを探し出し、短い時間で貼ることができる。
 また、子どもの発言への評価も同じだ。子どもの発言の後にオウム返しをしている教師も多い。この時間にオウム返しをしなければ、評価に当てることができるし、「今の意見についてどう思う?」「そうだね。」「この点からはどう思う?」などの問い返す発問そのものを発言の質によって使い分ければ、評価として使うこともできる。
 机間指導も同様だ。指導に入る内容を明確にし、指導する順番を決めることで効果的に指導を行うこともできる。場当たり的に指導をしていても効率が悪くなるだけだ。無駄な動きも多くなる。
 短い時間の中でいかに多くのことができるようにするかは、一つ一つ癖になるまで、繰り返すことだ。できないと初めから取り入れないでいると質の低い授業しか作り出すことはできない。質を高めるためには、授業に行う内容をできる限り、多く取り入れ、癖になるまで繰り返すことだ。綿密に仕組まれた授業はまさに芸術だ。
 研究授業だからできるものでもない。日頃の授業から癖にしていなければ、見せる授業で見せることはできない。複雑なことでも簡単にできるようになるまで根気強くやり続ける努力をしたい。授業は複雑だからこそ、やり甲斐がある。授業を磨くということは、複雑さを簡単にやってのけることだ。

教育は人なり

2009-11-25 | 育児
 どんな学級であれ、1年間を一緒に過ごしていると担任に似てくる。これは、考え方だけではく、状態もそうだ。いつも穏やかで安定していれば、学級も穏やかで安定した学級になっていく。まさに、教師そのものだ。
 子どもは、言ったことよりもしたことで育つ。それは、教師の態度がそのまま映っているということだ。
 学級が乱れているのは、教師の姿勢に乱れがあるからだ。迷いがあったり、指導に一貫性がなかったりするから、子どもも乱れていく。子どもはただ、反応しているだけだ。子どもの責任にしているとその子どもに反応している教師になってしまう。すると、いろいろな子どもへの対応に一貫性がなくなり、指導が乱れてくる。子どもは十人十色だ。その子ども一人ひとりの責任にしているから、乱れてしまう。まずは、教師の構えが大事だ。「いつもこの先生は、・・・・」と子どもに言わせる教師だから、乱れない。例外はない。
<構えとして大切にしたいこと>
・子どもの乱れに合わせないで、大切にしていることとつないで関わる。
・子どもとの約束は、学級全員とした約束。例外を作らない。
・子どもよりも先手を打って出る。
・完璧を求めない。失敗から学べることを身をもって体験していると考える。
・できるまでに時間がかかるもので、教師のペースでは子どもが動けないと考える。
・威厳を保つことではない。「ごめんね。」「ありがとう。」と素直に言う。
・目の前の子どもだけで判断することなく、背景も考える。
・子どもとの約束は、一人とするわけではない。学級全員の子どもと約束することになる。
・自分の仕事よりも目の前の子どもに起きていることへの対応を優先する。
 笑顔で穏やかでいるのは、努力ではない。子どもへの愛情がなせる技だ。目の前の現象にこだわり過ぎないで、子どもたちと出会った時の新鮮さと子どもたちへのまなざしを意識しながら、子どもたちと関わり続けたい。

笑顔

2009-11-24 | 育児
 笑顔でいることは、なかなかできない。しかし、この笑顔がとても大きな力をもっていることを知るとびっくりする。
 笑顔で子どもを見る時の自分を見てみると、それがわかる。
「何と子どもは可愛いのだろう。」
「子どもは、何を言っても許される存在だ。」
「子どもは、新たな発見をさせてくれる存在なのだ。」
「そこにいてくれるだけでいい。」
「そばにいるだけで、優しい気持ちにさせてくれる。」
 なんて素敵なんだろう。理屈なしで可愛くてしかたない。まるで赤ちゃんを見ているようだ。
 こんな気持ちでいると、この笑顔を受け取る子どもたちにとって、安心で安全な存在になる。つまり、「何を言ってもいいんだ。」「何をしてもいいんだ。」そんな気持ちになってくる。笑顔は子どもたちに安心と安全を保障することになるのだ。
 笑顔の多い学級の子どもほど、縛られることが少なく、自由で心地よさがある。これは、教師の笑顔が作り出しているのだ。無心になって笑顔を子どもたちに捧げよう。そして、自分に問いかけられるように教師として言葉を書けてみよう。
「そうか、それがほしかったんだ。そして、これからもほしい幸せなの?」と、子どもの今を承認し、未来に何を求めているのかを問うてみたい。

子どもが可愛いと思わなくなった瞬間

2009-11-23 | 育児
 教師なら、子どもを可愛いと思うのが当たり前と思っているが、時として、子どもが憎くなったり、避けたくなったりすることはないだろうか。
 その時に、何が見えるだろう。
 反発する子どもが見えてくる。我慢をしている子どもの姿が見えてくる。笑顔はどこにも見当たらない。教師の厳しい顔が見えてくる。辛い姿しか映らない。これでは、何をしてもうまくいかない。
 辛い顔をせず、少しの変化を楽しむゆとりがあればと思うがなかなかもてるものではない。その状況に立たされると心の中で辛さがどんどん広がっていく。このとき、できないことにとらわれているから辛い顔になる自分があることを自覚したい。
 この子たちの今の状態ならば、こんな姿になっても当然だと思えば、腹も立たなくなる。諦めではない。事実を事実として受け入れることなのだ。そして、今ここだからできることだと許容したい。そして、そうしたくなる子どもの心に近づいてみよう。自分の我を捨て、子どもに寄り添ってみよう。必ず何かが見えてくる。何かに不満をもっているはずだ。子どもなりに葛藤はあるはずだ。反発するには何かの理由がある。力で押しのけようとしても教師にも子どもにも笑顔は浮かばない。理由が見つかれば、それも発見として喜ぶことができる。子どもから離れることなく、子どもから学び続けることが、子どもの心をつかむことになる。そして、この努力が新たな子どもとの関わりがうまくなる。
 笑顔を子どもに振りまきたい。「ちょっと変じゃない。」と思われてもいい。大事だと思うからこれは譲れない。子どもに振り回されるのではなく、教師として譲れないことは、譲れないのだ。笑顔で当たり前のように接することに抵抗があるとすれば、何だろう。
・自分に課せられた義務を果たしたい。
・こんな姿を見られたくないという見栄がある。
・思い通りに動かせない自分の能力を隠したい。
自分の中に問題が見えてくれば、それが子どもとの距離を作っていることにも気づくはずだ。エゴが問題を複雑にしている。

夢中になると見えなくなる

2009-11-21 | 育児
 誰でも経験することだが、夢中になっていると他が目に入らなくなることがある。いつの間にか時間が過ぎていったとか、しなければならないことを忘れてしまったとか、どうやってここまで来たのかわからないとかその現れ方は様々だ。
 子どもは、我々大人よりもその傾向が強い。なぜなのだろう。
 我々大人は、1つの事が常に他との関わりの中で起きていることを知っているので、常にその関連も意識し、その関連を含めた1つの事としてとらえている。つまり、1つの事をしている時に、「これをしたら、誰がどんな顔をするだろう。」「これをした後はどんなことが起きるだろう。」などと頭の中では次に起きるであろうことの映像が映っている。それが今していることを見つめ直したり、方向を変えたりする力となって夢中になるのを止めているように思う。
 きっと子どもは経験が少ないので、その映像があまり映らないのではないだろうか。
 夢中になることは、1つの事を純粋に追求できる素晴らしさがある。だからいつも夢中になればよいというものでもない。他との関わりを考えて行動しなければならないこともある。そして、この区別をつけるところが躾となるのだろう。マナーだとか、規範と言われるものもこの部類だ。
 となると、躾をするためには、体験がとても重要だということがわかる。どんな体験であっても、映像となって関係つけるための素材となるのだ。失敗をさせないように努力することがあるが、果たしてそれがよいかどうかは疑問だ。失敗した時の自分の感情や周りの様子などを鮮明に残しておくことが次の取り組みの失敗をさけるための大きな力になると思えば、失敗の経験は無駄ではない。どんな体験でも関係つけることができるとすれば、どんなことでも体験させたくなる。大人の感覚で、先回りすることは子どもにとって不幸なことなのかもしれない。
 一つ一つの体験をどれだけ鮮明に子どもの記憶に残しておくかが重要な鍵となる。イメージを鮮明にするためには、その体験をできるだけ大げさにすることが強い衝撃となっていく。喜怒哀楽がわかりやすいことは、この衝撃の強さにつながる。
 「ここまで、喜んでくれることなんだ。」「こんなことまで起きるのだ。」と子ども自身の記憶に強く残すためにも、嬉しい時は嬉しさを思いっきり表現し、悲しい時は涙を流して悲しみ、悔しいときは体全体で悔しさを表したりする。これが、強い衝撃となって記憶に残る。教師が役者になるのもこのためだ。
 一つ一つの体験を強く残しておくことは、必ず次の活動の役に立つ。その意味から考えると、教師の笑顔は重要な働きをもっている。
 笑顔は受容を表し、子どもたちに安心と安全を与える。これを基軸に次の行動がしやすくい。つまり、子どもは笑顔からどんな顔に変化するかを判断すればよいからだ。
 笑顔がないとまず不安が先に出る。「どんな顔になるだろうか。」とまず、教師の顔色を探る。これでは、教師を最初に意識し、事に対して夢中にはなれない。事を始める時に何も考えないでできるのは、まずは安心安全があるからだ。笑顔はそれだけの力をもっている。
 苦しい時も始めは笑顔を作りたい。夢中になって見えなくなっている子どもたちを目の前にしているのだ。失敗をしてもそれが次の成功のための大事な映像として子どもに強く印象つける機会に恵まれたととらえ、許容できる自分になりたい。これは子どもと同じ目線に立って感情を表しているわけではない。俯瞰して感情を子どもの状態に合わせてぶつけることなのだ。

学級を一つにする

2009-11-20 | 育児
 子どもたちが一丸となって目標に向かって活動しているときは、互いに声を掛け合い、助け合う姿が多く見られる。それは、どんな目標でもよい。ただし、一度に2つのことをしたり、考えたりすることはできないので、1つの活動には1つの目標がよい。
・給食の配膳を○○分に終わる。
・全員が挙手する。
・全員が友達の方を向いて話をする。
・授業中に○○を使えるようにする。
・休み時間の学級遊びに全員が参加する。
 どんなことでもいい。できるだけ具体的にすると姿としてわかりやすい。
 みんなで決めた目標でも、それを忘れてしまってはもったいない。忘れないための掲示が必要となる。高学年に進むにつれて、自分たちで掲示を作ることができるようになるが、低学年のうちは、教師が主導して掲示物を作る。できるだけ、子どもにわかりやすい形で作ることが、その後の取り組みで子どもが使えるものになっていく。経験がなければ、子どもは使えない。
 そして、目標達成まで根気強く続ける。毎日意識することで、取り組みついての構えや考え方も変わってくる。それが行動となって現れ、助け合いもこの過程で生まれてくる。
 取り組みの過程で生まれた子どもの素敵な姿を発見すれば、嬉しくなる。「この子がこんな取り組みをしてくれたよ。」「すごいね。こんなことができるなんて。」「何て素敵な子だろう。」「何と素晴らしい仲間だろう。」と思わず笑顔になって子どもたちに話したくなる。
 そんな自分を想像しながら、1つの目標に向かって子どもたちへの働きかけをする。
 学校で子どもが育つということは、一人が育つことではない。集団として高まる過程で群れとなって育つのだ。だから、みんなで取り組む目標が重要になる。

休んだ子ども

2009-11-19 | 育児
 子どもが元気で学校生活を送ることができることをどれだけ幸せに感じているだろう。学校での生活は子どもにとって苦難の連続かもしれないが、学校へ来てくれることがどれ程有り難いと感じることができる自分なのだろう。
 休んだ分の遅れが気にならない子はいない。誰もがみんなと一緒に進みたいと思っている。
「学校の事は心配しなくていいよ。まず、体が大事だから、十分休養をとって体を治そうね。」と言われても、それで満足しているわけではない。遅れた分をどのように取り戻すのか、その補償はどのようにされるのか。ここが問題だ。
 何も配慮がなければ、遅れてしまうことは目に見えてわかる。それを休み時間や授業中にどれだけ支援をするかが、子どもとの信頼関係を築く上でも大切だ。そんな支えがあれば、教師の期待に応えようと、子ども自身も遅れを取り戻そうと努力する。何もしなければ、見捨てられた思いになるのは、当然だ。
 1時間1時間の授業が充実していれば、休めないと感じる。充実していなければ、何とかなると思ってしまう。中には、「塾で勉強しているからいいわ。」と授業を軽視する。これでは、やり甲斐がない。
 みんなと一緒に勉強する楽しさを十分味わわせることが、「休みたくない。」「授業に参加したい。」という気持ちにさせることになる。
 休んだ子どもが早くみんなと肩を並べて学習できるように最前の努力をしたい。授業だけしていれば、済む問題ではない。
・学習した内容の説明をしたり、補習をする時間を作ったりする。
・休んだ子を生かすための手だてを考える。
・休んだ子が授業で辛い思いをしないか見届ける。
 これだけでも大変なことだ。
子どもの不安を取り除くための努力は教師として当然しなければならないことだが、負担が増えることは確かだ。これを負担だと思う教師は少ないだろう。しなければならない当然の仕事だと思ってやっている。それができるのも子どもへの愛情があるからだ。
 ところが、最近見かけるようになったのは、家庭の都合で、平日に平気で子どもを連れて、旅行に出かける等の姿を見かける。申し訳ないとの一言もなく、当たり前のように学校を休ませる。そんな保護者の姿を見かける。休んだ子どもの不安を取り除く苦労を背負うのは、教師なのだ。子どもを第一に考えた時、様々な考えはあるだろうが、互いに連携を取り合うことで子どもは安心して生活できる。家庭生活と学校生活の狭間で揺れるのは、子ども自身だ。子どもに負担をかけることなく、家庭と連携をとり、互いに気持ちよく負担を補い合う関係を築きたい。

潜在的な年間指導計画

2009-11-18 | 育児
 毎日の活動に追われ、ついつい見落としがちなのが、年間指導計画。
子どもの実態に合わせていると、なかなか年間指導計画通りに進むことはない。だから、実態に合わせているからよいというものではない。見通しをもっていないと、後が詰まって一方的に教授する授業が多くなる。知識を詰め込むだけの授業になり、子どもに力を十分つけることはできない。
 年間指導計画は、いくつかの単元で構成されている。この単元をうまく利用することで見通しをもちながら、授業を進めたい。
 子どもの実態に応じるということは、今、身につけさせたい力をはっきりさせてその力を伸ばすために合う授業が組めないかを考えることになる。
 学び方を身につけることは、学習を進める上での基盤となるが、これを前提にして授業を組もうとしても学び方だけでもかなりの時間を要する。そこで、学び方と学習内容を平行して身につけていく授業を作りあげることが必要となる。
 どの学習にも必要な基盤となる「聞く」姿勢作りは、年間を通して続ける必要がある。ただ、聞くだけでなく、聴くまで高める姿勢を段階的に進められるだけの内容を指導する側がもっていれば、キメ細かくめあてを立てて毎日を過ごすことができる。
・話し手が話しやすい聞き方ができる。
・聞いた内容をそのまま話せる。
・聞いた内容について質問できる。
・聞いた内容と自分の考えを比べて聞くことができる。
・自他の生かし方を考えながら聞くことができる。
 どの子もいつでも使えるようにしようと指導すれば、これだけでもかなりの時間が必要だ。聞き方についてどの程度できる子どもたちなのかをつかんでいないと次のステップに向けての指導ができない。一見子どもの実態に合わせて指導するといいながら、実態も十分理解せず、使いやすい子どもを使って授業を進めているだけになってしまう。
 年間指導計画には、学習内容が示されていることが多く、このような聞く姿勢作りのための年間指導計画などというものは現実に示されることはない。これが、潜在的な年間指導計画なのだ。この潜在的な年間指導計画は、教師の経験から作り上げるものでこれを鍛えることが指導力の向上につながる。これは、「聞く」指導だけではない。「話す」「書く」指導も同様だ。国語の学習内容に「聞く」「話す」の指導内容があるからそれでよいというものではない。繰り返し指導して身につけさせなければならないのだ。授業で使わなければならないのだ。学習内容を扱ったらできるというものではない。日々に授業に必要な能力として身につけさせなければならないのだ。「学級作り」のための指導も同様だ。とにかく力をつけるための潜在的な指導計画を個々の教師が身につけることで子どもの力は伸び、学習内容の理解も高まっていく。

癖に気づく

2009-11-17 | 育児
 自分の癖を知っているようで、知らない自分がいる。そして、その癖のおかげで今の自分が自分でいられることもある。逆に、その癖のために悩んだり、苦しんだりしていることもある。
 自分の癖を知るには、刺激を与えてどんな反応をしている自分なのか観察する。観察する視点は、感情だ。つまり、どんな感情になるのかを知ることだ。
・嫌な感じ
・心地よい感じ
・すっきりした感じ
・不安な感じ
・怖い感じ
・落ち着いた感じ
・胸が躍る感じ
・胸が熱くなる感じ
・背筋が寒くなる感じ 等
感じ方はいろいろある。そして、その感じ方は人によって異なる。だから、癖なのだ。
 新しいことを始めようとするとき、新しい人と出会うとき、新しいものに出会うとき、新しいものやことを耳にしたときなどは、特にわかりやすい。
 毎日の生活では、それほど新しいことは期待できない。しかし、感情の動きは、日々つかんでいる。ここがポイントだ。
・どの子にも同じ感情で接している自分だろうか。
・どの保護者にも同じ感情で接している自分だろうか。
・どの教科でも同じ感情で向き合っている自分だろうか。
・どの職員とも同じ感情で接している自分だろうか。
・どの状況でも同じ感情で対応している自分だろうか。
・どの時間でも同じ感情でいる自分だろうか。
必ず違いがある。その違いが自分の癖だ。
 教師として、どんな自分がいいと考えているのだろう。そして、その自分になることを止めているものは何だろう。
・「わかっていてもできない。」と、行き詰っているかもしれない。
・「この方が楽だ。」と、安易に済ませているかもしれない。
・「どうしようもない」と、諦めているかもしれない。
 自分の癖を知ることは、新たな自分を作るきっかけになる。自分を変えようとして新しいことに挑戦するよりも、この方が効果を上げる。だって、すでにある自分だから不安はない。ちょっと見方を変えるだけなのだ。そして、それができとき、自分自身が変われたことへの喜びを得ることもできる。新しいことに挑戦する前にまず、気になる癖を見つけることから始めたい。この努力は、必ず周りに変化を及ぼすことになる。

仲間の一人として

2009-11-16 | 育児
 組織で仕事を進めていくときには、自分の好き嫌いを通すことはできない。仕事を始める前に十分に練らず、安易に始めるとツケが必ずやってくる。活動に矛盾がおきたり、時間が余分にかかったりする。
 納得し、イメージを膨らませて仕事を始めることが、仕事を円滑に進めるこつになる。至らない点や欠けている点にあらかじめ気づけば、仕事がうまく回っていく。仲間との連携もスムーズに進めることができる。
 この時、自分の仕事だけを見ているだけでは不十分だ。仕事全体を眺め、その中での自分の役割を十分自覚し、全体の中での仕事のあり方を考える。仕事がうまくできなかった時に、「私は精一杯やったんだけど、○○さんが・・・・・。」等とできなかった原因が自分とは無関係だと考えているうちは、うまく仕事はできない。自分の仕事がうまくいくためにも他人に何ができるのか、つねに周りへの配慮が必要になる。 一緒に仕事をするということは、必ず自分と関わりがある。自分らしい仕事をするためにも配慮が必要だ。それを欠くと常に他人に影響されて仕事をしなければならない。満足のいかない仕事をし続けているとすれば、それは、他への配慮が欠けているからだ。

話を聞くために

2009-11-15 | 育児
 話を聞くことは、それほど難しいことではないと考えているだろうか、それともなかなか難しいと考えているだろうか?
 人の話を聞いているとき、必ず感情が動く。その感情が動いていることに気づいていないことが問題だ。
 例えば、親身になって話を聞こうとすると、共感し、話し手は気持ちよく話ができる。わかってもらえたという実感を得ることができる。これは、聞き手の感情が動いた証拠なのだ。
 しかし、冷静に聞こうとすると、ある程度自分の感情を殺して聞かないと聞けないことがある。そのため、聞き手からは、「何て冷たいの?」などと思われることがある。すると、そんな自分ではいけないと思い、できる限り、相手の感情に合わせようと努力する。だから、この場合でも感情が動くことになる。
 感情が動くと、その感情をもとに話を捉えることになる。例えば、「かわいそうだ。」と感じると、「かわいそう。」という視点とつないで話を聞いてしまう。また、「許せない。」と感じるとすべて「許せない。」ことにつないでしまう。これは、自然と働いてしまう人の癖だ。
 これに加えて、話を聞いているうちに、同じ体験を見つけると今度は自分のことを語り出す。これが、また共感を呼び、相手との会話が弾む。自分を生かしたいと思うのも人の癖だ。
 そして、こうしてコミュニケーションをとっている。しかし、その話の背景を探らないと本当の所がわからないことはいくらでもある。感情を受け止めただけでは足りないのだ。感情が生まれた背景を探ることで、より理解を深め、深いところで受け止めることができる。話の本質を理解し、判断するためには、その努力をしなければならない。しかし、多くの場合、感情を受け止めただけで終わってしまっている。同情し、その場を終わらせてしまうのだ。井戸端会議等で扱われる話にこの種類の話が多い。
 相手を思い、大切にして聞くためには、
・話した話は体験のすべてではない。体験の一部でしかないこと
・感情は体験のすべてから受け止めたものになること
・受け止めた感情は、本当にそうなのか。疑ってみること
 と考え、できるだけ体験を詳しくわかるよう質問し、状況を詳しく捉えたり、疑ったりと質問する必要がある。
 そして、「そんなあなたなら、そんな感情になるのはわかる。」と自分と切り離して聞くことができれば、冷静に話を聞く姿だ。
 すると、話し手が何故話をしたいのか、何を伝えたいのかが見えてくる。
・気持ちをわかっててほしいと思っているのか。
・問題を見つけてほしいと思っているのか。
・助けてほしい、教えてほしいと思っているのか。
・ただ、そばにいてほしいとと思っているだけなのか。
 子どもは語彙がすくない。その分、感情で訴えてくる。感情に踊らされないで、質問したり、疑ってみたりしながら理解を深めたい。必ず感情の裏にある思いが見えてくる。

する前の指導よりもした後の指導

2009-11-12 | 育児
 綺麗な環境を作ろうと思った時、子どもたちにゴミ拾いをさせることがある。この時、子どもたちにどんな指導をしているか考えてみたい。
特にゴミ拾いをした後の指導について考えたい。
・ゴミがなくなったすがすがしさに気づかせたい。
・ゴミをした人の気持ちを考えてみたい。
・集めたゴミを観察し、ゴミについて考えてみたい。
・ゴミを拾う自分を見ている人を想像してみたい。
・ゴミがある場合とゴミがない場合の暮らしの様子の違いを想像してみたい。
・捨てられた物の気持ちになってみたい。
 ゴミ拾いをして「ご苦労様。」と終わってしまっては、子どもの心を育てたことにはならない。子どもがこれからもしてみようという気持ちをもたせるゴミ拾いにすることが教育だ。活動するだけでは、子ども一人一人のゴミ拾いについての受け止め方がバラバラになる。これでは、教育ではない。よりよい生き方を目指す方向を示すことが、教育するものとして重要なことだ。
 視点を変えてゴミ拾いを見たり、考えたりすることでゴミ拾いも様々なとらえ方ができる。子どもがゴミを拾おうという気持ちになったり、ゴミが落ちている様子に不快感を感じるようになったりすれば、ゴミを捨てることはない。
 自らゴミを拾うことができる子どもは、ゴミをしない。
要するに、体験する前の指導よりも体験した後の指導の方が、これからの生き方につなげる大事な指導になるということだ。
 これは、ゴミ拾いだけではない。体験を通して身につけさせたい生活習慣は、皆同じだ。
・下駄箱へ靴をしまうこと
・トイレのスリッパを揃えること
・挨拶をすること
・整理整頓をすること 等
 させて満足している教師ではなく、子どもの心を探りながら、子どもの心に響いたかどうかを見極められる教師になりたい。