ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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いつになれば

2009-09-30 | 育児
 子どもが学校へ行きたがらない。「いつになったら、学校に行けるようになるのだろう。」と不安に駆られる。登校を渋る子どもを前にどのように対応をしてよいのか戸惑っている。
 原因を探り、一つ一つ問題解決に全力を挙げる。一つ問題が解決すると、また新たな問題が出てくる。疲れ果てて、どのように手を打てばよいのかがわからず、悩み苦しむ毎日を送る。段々疲れてくる毎日を送る。この憂鬱な時は、いつ晴れるのだろう。
 しかし、確実に子どもとの関係は改善されていく。親が子どもを思い、その子どもの思いに応えようと必死になって取り組む関わりがある以上、子どもから離れることはない。
 一番辛いのは親以上に子どもだ。学校に行かなければならないという思いはあっても、体がそちらに向かない。原因が何か、はっきりすればよいが、なかなか自分では見つからない。これだと思って訴えて、解決してもなかなか体が思うように動かない。
 どっぷりと今の状況に漬かってしまうと、なかなかその場から逃れられない。親と子のどちらもがそんな状況にある。
 こんなとき、外からの手助けが必要となる。子どもを思う教師の姿勢がここで問われてくる。子どもや保護者の思いを受け止めながら、その辛さをどこまでわかって、無理のない対応ができるかが勝負だ。
 これは、先の見えないトンネルに一つの光を与えるほどの力になる。今まで以上に信頼関係を結びつける深い愛情がなせる業だ。今は、変わらなくても、必ず変わる。そう信じて関わりをもつ。人に頼ることなく、自分でできることはないか、必死になって見つけようとする。その関わりが信頼を生む。決して子どもが悪いとか親が悪いなどとは言わないで、今の状況を受け止めながら、その状況に合わせて対応する。喜んで楽しく学校生活が送れるように環境を整えて受け入れる準備をする。することは、いくらでもある。たった一人のためにそこまでするの?何て思ってはいけない。そこまで尽くせる教師だからこそ、どの子にも同じ状況のときに対応できるのだ。この時、子どもへの愛情がためされる機会でもある。

もう、しません。

2009-09-29 | 育児
 失敗し、強い衝撃があると「もう、二度としません。」と言う。これは、確かにその時は、そう思うのだ。これは、確かだ。しかし、時間が経つにつれてこの衝撃の強さは薄れていく。これは、誰もが経験することだ。しかし、この薄れる速さは、人によって異なる。子どもは特に早い。言ったすぐ後に同じ失敗をすることもある。「今、言ったばかりじゃないの。」と叱りたくなる。「何度失敗すればいいの?」などという気持ちにもなる。
 ただ、こんな時、「お前はうそつきだ。」と言う言い方は避けたい。うそをついたわけではない。言葉だけを捉えていれば、確かに言ったこととは違う行動になっている。行動が違っただけで、「うそつき」と人格を否定されてはたまったものではない。この言葉は、この失敗だけではすまない。一人歩きし始めるのだ。
・私は悪い人間だと思われている。
・何をしてもどうせ信用してもらえない。
・だめな私だ。
・何をしてもうまくいかない。できる気がしない。
 相手を傷つける言葉を子ども同士でも平気で使うことがある。「バカ」という言葉も同様だ。
 どうして、同じ失敗を繰り返すのか、その失敗しやすさに着目し、一緒に解決の道筋を辿ろうとする教師でいたい。
 失敗して一番苦しんでいるのは、失敗した本人だ。客観的に外からその姿を眺めて批評するのは、簡単だ。これは、教師のあるべき姿ではない。批評家になっては、子どもは育てられない。 
・強い衝撃が持続するように働きかけはできただろうか。
・少しの努力でも評価し、承認しただろうか。
・失敗を許し、共感し、支える気持ちでいただろうか。
 子どもを責める前に振り返ってみたい。
 失敗を乗り越えたときに自信がもてる。いかに自信をもたせて、失敗を乗り越えさせることができるかが、教師の力量だ。

甘えたいときに甘えられる

2009-09-28 | 育児
 我慢を強いられているうちは、なかなか甘えることはできない。緊張して、いつも見ていないといけない思うと辛くなる。たまには、よそ見をしてもいいじゃない?と言いたくなる。子どもが教師に対してこんな気持ちでいたとしたら、信頼関係ができていると言えるだろうか。子どもが、言う通りに動くからこれでいいと安心していると、この落とし穴にはまってしまう。子どもは緊張して、我慢をしていることはないだろうか。
 心が開かれている状態であれば、こんな緊張感はない。言いたいことが言え、甘えたい時に甘えられる事ができる。この心が開かれた状態を作り出すためにできることは、何だろう。
・子どもを観察する。
・子どもの思いを探る。
・子どもの考えを聞く。
・子どもに「どうしたいのか。」を尋ねる。
・子どもの姿を承認する。
 ここまで書くと、子どもの言いなりになるのかという問いが返ってきそうだ。そうではない。
子どもの状態を知ることから事が始まるということなのだ。
子どもの状態をよしとし、子どもに合わせないと子どもは安心できないからだ。
 これは、出発点であって、到着点ではない。ここから始まるということだ。十分安心できる場を作っていないうちは、こちらの意図は伝わらない。逆に、リラックスした状態の中では一番自分らしさを発揮することができる。緊張して、余分な力が入っているときは、私たちでも力を十分出せないことは経験していることだ。ここが問題なのだ。子どもが甘えたいと思ったときに甘えられる関係を築くことができているだろうか。
 ただ、授業中には多少の緊張感が必要となる。これは集団で取り組むための緊張感だ。
授業中は、
・自分勝手な行動はできない。
・みんなで協力して作り上げなければならない。
・自分の主張を勝手にすることはできない。
・決めた授業のルールを守らなければならない。
などと縛られることがある。
 これらが緊張感を生み出すことになる。これがないと授業が思うように進まない。
だから、授業と休み時間のけじめをつけることが重要となる。
 休み時間と授業中とのけじめをつけるには、
・休み時間と授業中の言葉を変える。
・授業中は、子どもを育てることに集中する。
・休み時間と授業中との顔を変える。(笑顔と真剣さ)
 どちらにしても、子どもから目を離したら、子どもが見えなくなってしまう。いつも傍にいてくれるという存在そのものが、子どもの安心につながっていることは言うまでもない。

押し付けていないか?

2009-09-27 | 育児
 このことは、あなたにとってとても大切なことだと思うと、「どうして、このことをわかってくれないの?」と言いたくなることがある。
 わからない(わかろうとしない)理由には、いろいろある。
・他にしたいことがある。
・それよりも大切にしたいと思うことがある。
・それを大切にするとよいという実感がもてない。
・聞きたくない。(言われたくない。)
・何度も言われて聞き飽きた。うんざり。うるさい。
この状態にある子どもに「こうあるべきだ。」と正論を訴えても通じない。
 意図が通らないと次第にストレスがたまっていく。その結果、自分に自信をなくしたり、子どもへの愛情が薄れていったりする教師がいる。
 もっている能力や子どもへの愛情とは別のことであるにも関わらず、それを関連つけて、自分を責めていく。この状態がひどくなると、病気になってしまうこともある。ストレスを少しでもためないでいたい。こんなときには、視点を変える次の言葉を自分に問いかけてみるとよい。
「わかってくれていない子ばかりなのだろうか。」・・・わかっているこもいるはずだ。
「今、大切にしなくてはならないことなのだろうか。」・・・他に大切なことはないのだろうか。
「子どもへの愛情をなくすほど、このことが重要なことなのだろうか。」・・・そうではないかもしれない。
「コミュニケーションがうまく取れないことだけなのではないだろうか。」・・・もっている能力とは関係ない。
 見え方が変わると見えるものが変わって少し楽になる。
・見ている子どもが変わる。
・私の大切にしたいことをわかってくれている子がいることに気づく。
・長い目で見て、少しずつ変わればよしとする気持ちのゆとりが生まれる。
・とても重要だと思ったことが、それほど重要ではないかもしれないと思えるようになる。
・別の取り組み方をしてみると変わるかもしれないと思えるようになる。
・できない子どもの気持ちがわかるようになる。
 子どもの状況を一変するほど強烈な刺激を与えることはできないにしても、愛情に支えられていれば、必ずわかってもらえると信じることができる。
 どうしても今しかないと思ったことが、どれほど自分を苦しめていることになっているかに気づけば、楽になる。
 だから、いつでも抜け出さるように視点を変える言葉を自分に問いかけ、柔軟に対応できるようにしたい。子どもはすぐには変わらない。焦らず、じっくりと構えたい。

ゆとりのある計画

2009-09-25 | 育児
 予想外の事が起きると、どのようにしてよいのか困ることがある。子どもたちの様子を見ていると
・無口になる。
・泣く。
・助けを求める。
・逃げ出す。
・似た経験を元に対応する。
・ごまかす。 等
と、様々な姿を示す。
 この姿を見て、「子どもたちにとって予想外な事だから当然の姿だ。」と思えば、対応に慌てることはないが、様々な姿に動揺して、もぐらたたきをするように個々の様子に合わせて対応していると学級全体としてばらばらになってしまう。
 こういうときは、まず、子どもたちの感情が落ち着くように手を打つ必要がある。
まずは、「わかった。困っているんだね。」と子どもたちの気持ちを受け止め、「少し静かにして。」と話す。深呼吸をしたり、目をつむったりするのも一つの方法だ。
 落ち着いたら、納得できるように予想外になった理由を説明したり、経過を説明したりする。ある程度納得できれば、次の行動も冷静に考えることができる。予想通りにならない状況を受け入れられない子どもがいれば、「どうすれば、よいのか?」と問い、予想通りにならないことを再度体験させる。この時は、周りの子どもたちは、冷静にその様子を見ているので、受け入れられない子どもをフォローすることができる。諦めて新しい行動を考えなければならないことになった時に、「どうしよう。」と考える場を設ける。ここでは、子どもの経験の差が出てくる。考えが浮かぶ子どもがいれば、その考えを認め、他の子どもたちの判断を仰ぐ。もし、思い浮かばないようならば、教師が新たな対応を示し、子どもたちに判断を仰ぐ。いずれにしても子どもたちが納得して新たな対応を自分たちで決めることが重要になる。それは、子ども自身が自らの考えで動くところに意義があるからだ。
 もし、この判断を教師がし、子どもに指示をし、子どもたちにさせる対応をするようならば、子どもは常に教師に頼る生き方しか身につかない。これでは、子ども自ら考えて行動することにはならない。予想外が起きたときにも自分で判断できる子どもにしなければならないのだ。
 しかし、こういう時に、時間がないから仕方がないという教師を見かける。教師が判断し、事を進めた方が当然すばやく対応できる。また、子どももそれに従って動けば、何の問題もないよう事がうまく進み、安心してしまう。だから、問題がないように感じてしまうのだ。しかし、これは子どもを育てるという視点に気づいていないのだ。事がうまく進めばよいと考えているうちは、子どもは育たない。失敗を乗り越えて初めて自分の力になる。教師が判断しても子どもの力にはならない。だから、教師には、見通しが必要なのだ。時間のゆとりを生み出すための見通しが必要なのだ。目一杯に活動を組むことは、失敗を許さない、許せない姿勢につながる。それでは、子どもは事をこなすだけになってしまう。自ら考えて行動するためには、考えるゆとりが必要だ。予想外の事が起きるかもしれないというゆとりをもった計画が必要なのだ。時間に追われるのは、予想外の事が起きた時に子どもの力で対応するゆとりを考えずに計画を立てた教師側に問題があるのだと考えたい。

お礼

2009-09-24 | 育児
 感謝の気持ちを込めてお礼をするように子どもたちに伝えることがある。このとき、なぜお礼を言うのか、その理由を説明する。その説明がとても大事だ。
 時々、「そこまでお礼しなければならないの?」と思うことがある。ここにその人なりの価値観が現れてくる。当たり前のことで、お礼をするまでもないと考えれば、お礼をせずに済ませてしまうことがあるからだ。ここには、目には見えない事に関わる人の動きをイメージする想像力が働いている。
 「きっとこんな動きがあったはずだ。」 「この動きが生まれるには、こんな過程がなければ、生まれてこない。」などと人の動きをイメージしている。だから、その動きを作り出した人へのありがたさが感謝という気持ちとなって生まれてくる。
 見えない人の動きだから、気づかないことが多い。子どもならば、なおさらだ。経験が少なく、人の動きが想像できる範囲が限られている。その範囲を広げる営みが子どもに話す「説明」になるのだ。
 だから、「お礼をいいなさい。」だけでは済まされない。子どもがイメージしやすいように丁寧に説明することで、子どもなりに想像しやすくなり、感謝をしなければならないという気持ちも生まれてくる。
 特に、子どもとの関わりを説明しないと「なぜ、お礼をいうのかわからない。」という気持ちが、態度に表れ、無礼な対応になることがある。相手が大人ならば、「まあ、子どもだから仕方ない。」と許されてしまうこともある。しかし、子どもが今後出会うであろう同じような場面で、自ら「ありがとう。」を言えるのは、その説明に納得しているときにしかできない。納得していないと見過ごしてしまうことになる。
 うまくお礼ができなくても、必ずお礼をしなければという気持ちになっていれば、その心は相手に伝わる。ここが大切だ。感謝の気持ちを込めてのお礼だから、感謝の気持ちが伝わることが本意なのだ。うまくお礼をするかどうかということではない。
 守られている存在である子どもは、大人が守ってくれていることが当たり前として映っている。だから、当たり前という感覚があり、なかなか感謝につながらないことが多い。
・「あなたが安全に通学できるのも見守りのために通学路に立って、車の通行に気遣いをしてくれている方々のおかげだよ。」
・「あなたが、健康で元気に学校で生活できるのも、給食の調理員さんがおいしい給食を作ってくれているおかげだよ。」
 こんな言葉を子どもにかけることができる。子どもを育てるいい機会にも関わらず、地域で子どもを育てるのが当たり前だから当然だとか、給食費を払っているから当然だという考えであれば、感謝の気持ちは生まれず、子どもを育てる機会を逃してしまう。
 子どもの心を育てることは、育てる側の考えで決まってしまう。どんな子どもに育てようとしているのかが、この感謝を伝える「お礼」からも見えてくる。

導く

2009-09-22 | 育児
 自分の意思とは無関係に知らないうちに動かされていることがある。
 すべてを自分が決めて行動すれば、不安もなく過ごせるにもかかわらず、自分の意思ではどうしようもないことがある。その範囲は、大人よりも子どもの方が広い。
 体験が少ない子どもだから、どうしても大人の意見に動かされていく。
躾もその一つ。子ども自身がこうなりたいと思って自分を躾けるというよりも、親の考えにそって自分が決まってしまう。納得できなければ、反発すればよいのにと思うかもしれないが、それはなかなかできない。生活の自立ができていない以上、自分を守るためにも、親の言うことを聞かなければならない状況がこどもにはある。自我が目覚めはじめ、反発するようになるまでは、親の言いなりになることが一番安全で安心な生活が送れる。
 だから、導く側が子どもをどのようにどんなゴールに向かって導こうとしているのか、その影響は大きい。日々の生活に追われて、一つ一つの事について深く考えていられないという人がいるが、そうではない。物事の進め方がすでに自分の意思なのだ。導く側が日頃から意識していなくても、癖になってしまえば、意識せずに事が進んでいく。自分が長年かかって築き上げたものは、意識しなくても自動的に反応して動き出すのだ。だから、導く側が意識しようが、意識しまいが、していることや言っていることが子どもたちに伝わっていくのである。量で考えると意識するよりも無意識でしていることの方がどれほど多いかがわからない。
 このことを導く側が自覚することだ。無意識にしていることを意識し直してみることができれば、もっと素敵な躾になることもある。
 言葉遣いはどうだろう。汚い言葉でも平気で使ってしまう子どもたちにはびっくりさせられることがある。友達の影響もあるが、テレビの影響がかなり大きい。意識せず、無意識のうちに受け入れてしまうから怖い。番組を選んで見させればよいが、四六時中子どもの傍にいて見せることはできない。
 言葉に関して言えば、テレビ以外に大きな影響を与えるのが本だ。どんな本を読むかによってかなり言葉が変わり、質が違ってくる。どんな本を与えているかが大きな鍵となる。
 導く側が導いていることを自覚するところから始まる。子どもの置かれた環境への配慮が大きな影響を与えていることを考えると、導く側の環境についての構えによってその環境が変えられることがかなりありそうだ。自分がすること以上に環境を変えるには大きな力が必要だ。協力してくれる仲間の力を借りながら子どもをよりよい方向に導いていきたい。

成功の喜び

2009-09-21 | 育児
 繰り返し挑戦してもなかなかうまくいかないことがある。あきらめてしまうか、それでも挑戦し続けるかは、挑戦することへの思いの違いにかかっている。
・支えてくれる人がいるからやり遂げたい。
・すばらしいものが手に入るからやり遂げたい。
・力がつくからやり遂げたい。
・挑戦できるのは、私しかいないからやり遂げたい。
・今よりすばらしい自分になれるからやり遂げたい。
 子どもが、「挑戦しよう」としたその思いを大事にしたい。もし、私が支える事ができるならば、あきらめずにすむかもしれないと思うと、何かできることはないかといろいろ考える。
「あなたが頑張る姿をしっかり見ているから、いつでも困ったら言ってね。」
「いつも傍にいるから。安心してやってごらん。」
「あなたには、やり遂げる力があるから大丈夫だよ。」
「今は、まだ条件が整っていないからできないだけ。安心していいよ。」
「やり遂げたら、一緒にお祝いしようね。」
「もう少しだよ。頑張って。」
「誰でも失敗することはあるよ。何度も繰り返して少しずつできるようになるんだ。」
「ちょっと休憩したら?必ずできるから心配しなくてもいいよ。」
「これだけ頑張ってもできないのは、何か別の原因があるかもしれないね。」
「苦労した分、できた喜びも大きいよ。楽しみにしているよ。」
「初めと比べると随分できるようになってきたよ。この調子だ。」
「何が足りないと思っている?・・・やっぱり気づいているんだ。それなら安心だ。」
「この程度で諦めるなんてもったいないよ。あなたらしく頑張ってみたら。」
 任せっきりにしないで、その時々の様子をとらえ、適切な声かけは何だろうと考え、いつも傍にいて一緒に歩む。時には近くへより、あるときには遠くから見守り、対応の仕方を工夫する。
「あなたの喜ぶ顔が見たいから。」といつも心の中で成功を祈っている。そんな教師の諦めさせない思いが伝わるから子どもは諦めないで挑戦し続ける。成功を一緒に喜べるのもいつもそばにいるからだ。

体調はいかが?

2009-09-18 | 育児
 「先生、体調はいかが?大丈夫」などと仲間の体をいたわる言葉は、何とも大きな力となる。自分のことを思って心配をしてくれている人がいるということでつながりが強くなる。
 「ええ、実は・・・・」「ありがとうございます。・・・・」などと返事が返ってくると、会話の中から新たな発見をしたり、深い思いを知ったりと関わりが深くなる。
 自分のことで精一杯になっているときは、人の体調まで気にすることはできない。しかし、教師として、自分のことしか考えられないようでは困る。こんな何気ない一言を子どもにも平気でかけられる教師だからこそ、子どもは、心を開いていくのだ。
 「ここまで心配してくれている先生なんだ。」「私のことをよく見てくれている。」という思いにさせるのは、この何気ない一言なのだ。
・「大丈夫?」
・「調子はどう?」
・「何か変わったことは?」
・「最近、ちょっとおかしいよ。」
・「元気ないね。困ったことでもあるの?」
・「今日は、ちょっと違うね。何かいいことあるの?」
 子どもから離れず、絶えず子どもを観察していると、少しの変化でも見えるようになる。子どもの心が姿から見えるようになる。逆に観察を怠ると、子どもの心が段々見えなくなっていく。人によって表現の仕方が違う。その違いを感じながら、一人ひとりに声をかけてみたい。新たな発見があるはずだ。

どんな自分を目指すのか

2009-09-17 | 育児
 授業中に気になる姿を見つけたとき、どんな気持ちでその子を見ているのだろう?
「なかなか授業が進まない。困った子だ。」
「授業の妨害をする邪魔な子だ。」
「あの子をこちらに向かせるよい方法はないだろうか。」
「何とか授業に参加させたい。」
「参加しない自分が悪い。後から後悔するのは、自分だ。」
「可愛そうに、これでは力をつけられない子だ。」
「授業に向かう構えができていない子だ。」
「友達の事を考えない自分勝手な子だ。」
「何か問題(悩み)でも抱えている子なのだろうか。」
「悲しいな。一緒に学習をしたい私の気持ちを分かってくれない。」
 どの気持ちを自分の中に発見したのだろう。
 「子どもが悪い」と思えば、自分を変える努力はしない。「本当に子どもが悪いのだろうか。」と疑えば、自分を変えるきっかけができる。
<見つめてみたい>
・子どもたちに授業に向かう構えは教えたのだろうか。
・もし、教えたとしてその内容はよかったのだろうか。
その上で、
・子どもに納得できる教え方が出来たのだろうか。
・教えたことに取り組むための意欲付けはできたのだろうか。
・できるまでの見届けは確かだろうか。見落としはないだろうか。
 考えれば、できることがまだまだあることが見つかる。
これは、一朝一夕に見えてくるものでもない。日々の問題発見と問題解決の努力があってこそ、見えてくるものだ。
 子どもたちに目指す姿を具体的に示す前に、教師自身も自分の目指す姿を明らかにして授業に向かうことが授業を変えることになる。

話をよく聞く

2009-09-16 | 育児
 毎日多くの言葉を子どもから受け取る。悩み事や質問・自慢話・世間話・情報提供など様々である。それも多くの子どもから受け取ることになる。一度に複数の子どもの声に対応することもある。そして、私たち教師は、どの子どものどの言葉に対して、忠実に受け取り、対応しようと努力をしている。
 言葉の洪水の中で、大切にしたいことを見失うことなく、丁寧に対応するために、ルールを作り、言葉が溢れることなく、うまく流れるように整理をする。
 すると、作ったルールに乗って言葉を投げかける子どもが増え、それを受け取る。そして、また投げかける。そんな繰り返しをしながら、子どもとのやりとりがうまくできるようになっていく。
 子どもとのやりとりがうまくできるようになると、子どもとの信頼関係ができているという錯覚に陥ってしまうことがある。
 子どもの言葉に真摯に応えていて何が問題なのだろう。
 実は、子どもが発する言葉は、子どもの心のほんの一部しか表現されていないことを見逃し、言葉がすべてのように対応している自分に気づかないでいるのだ。
 子どもの言葉の背景に気を配り、「本当に何を伝えたいと思っているのだろうか。」「この言葉をそのまま受け止めていいのだろうか。」と言葉の裏に隠されている子どもの思いを読まないと本当の子どもの心を受け止めたことにはならない。これには、言葉だけを受け取るのでなく、子どもが置かれている状況や状態をもつかむ必要がある。ここまで分かった上での対応があって信頼関係が生まれてくる。子どもは、背景をわかって話してくれるからこそ信頼できると思うのだ。一般論を聞きたいわけではない。今の私に合った対応を求めているのだ。子どもの心がわかった上での言葉ならば、心に響く。子どもの話をよく聞くことは言葉を受け取ることだけではない。背景も受け取ることになる。 

怪我を避ける

2009-09-15 | 育児
 子ども自身、怪我をして学ぶことは多い。次から怪我をしない自分を作り上げる学びがあるからだ。しかし、怪我の程度や頻度を見逃してはならない。取り返しのつかない怪我をすることで子どもの可能性を奪うことになってしまってはいけない。また、繰り返し同じような失敗をするのは、学びがない証拠だからこれも見過ごすわけにはいかない。
 教師として、どこまで怪我をしない状況を作り上げて、事を進めるかは教師次第となる。
 ただ、危険予知する力がなければ、危険を回避することはできない。となると、一人よりも複数で事を考えることが重要となる。出来る限りの予防策を練ることで事の進み具合はことなってくる。
・怪我をすると事が中断する。
・怪我の治療に関わる時間が使われる。
・怪我をした子の心に影響を及ぼす。
・怪我をした子と関わる周りの人へ影響を及ぼす。
・怪我をすることで事の見直しが行われる。
 さまざまな影響を考えることをふまえると、目の前の事だけでは済まなくなる。
 このことを考えると、いくらベテランであっても、怪我をさせない準備が重要なことは見えてくる。
 体が動くうちはよいが、なかなか体が動かなくなると、口先だけで、子どもに「怪我の注意」をすることになりかねない。教師の言う事よりも教師のする事をするのが子どもである。怪我を避ける努力は、姿で示したい。体に染みついた癖はなかなか消えないものだ。
・時間がないから
・自分の仕事ではないから
などと言い訳をしていても怪我の回避にはつながらない。自分の危険予知の能力を高めるためにも、怪我を避ける努力を続けたい。

登校を渋る

2009-09-14 | 育児
 登校渋りは、誰にでも起こりうる心の問題だ。子どもが学校へ行きたがらないということは、学校が嫌いだからではない。行きたいけれど、行けないという所に子どもが立っている。その原因は様々であるが、教師側に原因があるとすれば、大変なことだ。
 子どもにとって、学校はある意味で戦場だ。家庭のように自分を丸ごと受け入れてくれる愛情に満ちた場所ではない。自分とは違う価値観や違う行動があり、いつも自分が生かされることにはならない。その中でうまく人と関わりながら、自分を生かそうと精一杯努力している。うまく行くときもあれば、失敗することもある。逃げ出したくなるときもある。その学級の雰囲気は、教師の力でどのようにでも作りあげている。仲間作りを大切にする教師がいれば、仲間作りよりも自分の力を伸ばすことに力を注ぐ教師もいる。逃げ場所や受け皿が学級にない場合、学級にいることが辛くなる。
 自分をうまく生かせない弱い子どもがいることを前提に学級を作る教師であれば、子どもは救われる。しかし、これに気づかず、自分の思いだけを強く子どもに要求する教師であれば、子どもは強いられることになる。
 耐えられる子どももいれば、耐えられない子どももいる。仲間がいれば、支え合うこともできるが、仲間作りができない子どももいる。様々な子どもが指導の裏で生まれている。
 逃げ場所や受け皿が必要なのは、そのためだ。
逃げ場所は、保健室であったり、休み時間に自分の落ち着く場所であったり、親しい友達の側であったりとこれも様々だ。
 受け皿は、認められる場であったり、悩みや辛さを受け入れられる場であったりする。
 どの子にもそんな場が必要であり、そういう場を設けることが、教師のゆとりにつながり、幅をもって子どもを育てることができる。教育である以上、辛いと感じることを強いることはある。その場合に、逃げ場所や受け皿を用意しておいてから、辛さを与えるのと、それを用意せずに辛さを与えるのでは、子どもの辛さに向かう構えが違ってくる。
 これしかないと追い込まれてしまうと、学級にいられなくなってしまう。せめて教師側に登校渋りの原因はないと言い切れるだけの努力はしたい。
 そのためには、指導した後の子どもの動きをよく見ることだ。弱い立場になっている子どもの次の行動を見ることだ。反発してでも反応がある子どもであればまだ安心だが、反発もせず、我慢だけしている子どもが心配だ。
 辛さや苦しみをうまくはき出せないことが自分を追い込んでいくことになる。子どもの休み時間の動きや仲間関係をとらえるアンテナを高く張り、子どもからの情報が入ってくるようにし、子どもが危険な状態になっていないか絶えず気を配りたい。

見方を育てる

2009-09-13 | 育児
 一緒に生活をしていると、少しずつ相手の事が分かってくる。すると、一緒にいたいと思う人や一緒にいたくないと思う人が出てくる。
 相手との関わりを通して、自分に合っていると感じるか、自分に近いと感じる相手に対して好感がもて一緒にいたいと思う。逆になれば、一緒にいたくないと思う。
 しかし、考えてみれば誰一人として同じ人間はいない。違いがあるのは当然だ。同じと思っていてもどこか違うはずだ。それでも、いつの間にか、自分と合うとか合わないとかと決めてしまっている。いったん決めるとその思いから相手と関わるようになる。これが、思いこみの始まりだ。初めから違っていると思えば、こんなことにはならない。
 自分に合っていると思う人は、できるだけ近くに置いておきたいと思うし、逆に合っていないと思う人は、できるだけ遠くに置いておきたいと思う。そして、そのような行動を取る。この行動のため益々相手との距離を変えていくことになる。
 人間関係を築こうとすれば、この合う、合わないに焦点を当てなければ、改善されることはない。
 「本当に合わない人なの?」「他の面はないの?」「いつもその姿なの?」「本当にそういう人なの?」と自分の思いこみを疑ってみる。見ている所がいつも同じかもしれない。別の視点から相手を見てみることをしていないかもしれない。そんな思いをもちながら、関わりを見つめ直してみる。
 見方を広げることで違った側面が見えてくると相手に対する思いこみも違ってくる。
 特に、子ども同士の関係を作り上げるときには、この見方を広げることが大切だ。固定的に見ないで、様々な側面を見つけて紹介する。これが、子どもの見方になっていく。よさ見つけをよく学級ですることがある。子どもに任せていてはなかなか見る視点が広がらない。教師が率先してよさを紹介することで、子ども自身の見方を広げることにつながる。そして、頑張ろうとする子どもはそのよさを真似する。繰り返し行うことで、その目も広がっていく。
 帰りの会などで、友達の頑張りやよさ見つけをする学級があるが、一部の子どもの発言に偏っているとすれば、教師が視点を広げる努力をしていないからだ。そして、また、よさを本気でよさとして教師が認めていないからだ。子どもが見方を広げて豊かに生活していくためにも教師がもっと全面に出て、視点を広げる努力をする必要がある。これは、人を見る時の大事な視点であり、一生使えるものだ。本気になるだけの価値がある。

何を大切にすべきか

2009-09-12 | 育児
 新しい活動を考えなければならない時、過去の活動を参考にすることが多い。新しい活動が思い浮かばないと、過去の活動に似た活動を考えてしまうことがある。これは、年間行事についても同じ。昨年行ったから、今年も同じようにするという流れが多い。
 こうなると、「すること」に振り回されてしまう。会話は、「昨年は、こうだった。」「今年は、ここをこうしよう。」となる。本当に大切にしなければならないのは、この行事でどんな子どもを育てたいと思っているかということなのに、それがどこかへ言ってしまう。行事をこなすだけになってしまう。
 新しい企画を考える時に、過去を参考にするのはいいが、やはり、その企画でねらっている出口の子どもの姿のイメージを大切にしたい。
 「この企画で、どんな子が育つのか。」「どんな姿にしたいから、この企画をするのか。」という子どもの姿をイメージしていないと、活動している子どもの姿が浮かばない。
 活動中に助け合っている姿が浮かぶのか、それとも、黙々と取り組んでいる姿が浮かぶのか、どんな姿が浮かぶのだろう。ここが教師によって異なると、指導にズレが生じる。
 思いやりの視点から指導する教師と自主性を伸ばす視点から指導する教師とでは、具体的な言葉かけが違ってくる。時には、逆の指導をすることになる。例えば、もっと時間を与えたいと思っても、人に迷惑をかけるといけないからといって時間を与えない指導になる場合と、とにかく自分の力でやり遂げさせたいから時間を切ることはできないといって時間を十分に与える指導になる場合とある。どちらを選ぶかは、その時の教師の考え方によってきまってしまう。これでは、指導される子どもはどちらの指導を信じてついていけばよいのか迷ってしまう。
 どんな姿をイメージするかの違いがこのように指導の違いとなって現れてしまうのだ。だから、活動を考えるためには、まず、その時に活躍する子どもたちの姿をどのようにイメージするかを十分に話し合う必要がある。
 忙しいからとか時間がないからだとかというレベルの問題ではない。子どもの育ちが違ってくる。そして、指導する教師への信頼も違ってくる。
 同じ歩調で歩むことができるのは、この活動する子どものイメージが似ているからできるのだ。ここが似てこないと指導にズレが生じることをもっと自覚したい。活動のねらいを大切にし、具体化するのは、指導のズレを生じさせないためなのだ。