ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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人は意味あることに動く

2013-08-04 | 育児
 夏休みも中盤に入り、現場の忙しさを忘れ、自分らしく過ごしている方が多いのではないでしょうか。
 そして、この機会に自分をじっくり見つめてみてはいかがでしょう。

 私たちは、他人から指示されたり、命令されたりすることをあまり好みません。できれば、自分がやりたいようにやれることが一番です。

 これも脳のはたらきによるものです。脳は、常に安心・安全を求めています。
 他人からの指示や命令は、今まで居た状況を変えることになり、不安を伴うことが多いものです。
 そのため、「なぜ、指示や命令を受けなければならないのか。」と理由を聞くことになります。

 理由を聞き、納得できれば、それを受け入れることになります。
以前扱ったニューロロジカルレベル(言葉の意識レベル)で考えると、理由というのは、信念・価値観レベルになります。
 これは、かなり深いレベルですから、ここが安心・安全になれば、動きやすくなります。

 つまり、私たち人間は、意味あることで動くことになります。

 「部屋をきれいにしなさい。」
 「お風呂に入るときには、必ずかけ湯をしなさい。」
 「早寝早起きをしなさい。」
 「遅くまで起きていてはだめです。」
 「ゲームは1時間以内にしなさい。」
 「毎日、勉強をしなさい。」

 このような生活習慣・学習習慣も同じです。
  なぜ、そうしなければならないのか・・・・その理由を自分なりに明確にして動きます。

 これが強制的にさせられても、必ず意味づけをします。

例えば、「お母さんが、怒るから」、「叱られたくないから」「叩かれたくないから」「言うことを聞かないと損をするから」「ご褒美がもらえるから」・・・・などです。

 これらは、決して指示や命令する側の願いとは一致しないことが多いと思いますが、この意味づけをすることで脳は安心・安全を確保できます。

 「交通ルールを守りなさい。」
 「人の物を取ってはいけません。」
 「人を傷つけてはいけません。」
 「嘘をついて、お金を取ってはいけません。」
 「人の家に黙って入ってはいけません。」

 法律に違反するようなことについても同様です。
例えば、「決まりだから守らなければならない。」「罰金を取られるから守らなければならない。」「牢屋に入れられるから守らなければならない。」などと言う意味づけで法律を守るのも安心・安全につながります。

 これらの意味づけは、ある意味強制的にさせられていると感じていることによるものです。
 ですから、「知られなければ、いいだろう。」「わからなければ、いいだろう。」と犯罪に手を染める人も現れます。

 人々が幸せな人生を送るために法律として作られたものでも、意味づけの仕方によっては、このように行動にブレが生じます。

 これは、個々の意味づけの違いによるものと考えることができます。

 子どもの世界でも同じです。「親や先生に見つからなければ、いいだろう。」ということになってしまいます。大人も子どもも同じです。

 さらに、
 
 「民主主義は守らなければならない。」「国の利益は守らねばならない。」「信じている宗教には、従わなければならない。」という人がいれば、それを固守するために枠を設けて、違いを明確にします。

 時には、テロや戦争に発展することにもなります。意味づけの違いが国全体を動かします。

 そして、その意味づけによっては、自分の命さえも差し出すことになってしまいます。

 「国を守るために」という前提がつくと、そのために自分を犠牲にすることになってしまいます。従わない者は、逆賊というレッテルを貼り、排斥することになります。これも意味づけをし、安心・安全を確保するために起こります。(みんな同じだと安心・安全につながります。)

 つまり、個人レベルであろうが、国家レベルであろうが、人は意味あることに動くということです。

 本当に大事にしなければならないことは、何なのでしょう。

 
 誰もが平和を願っています。

これは、国を超えたレベルです。

 平和を願わない人はいないにも関わらず、なぜ戦争が起きるのでしょう。
また、なぜ戦争がなくならないのでしょう。

 すべて、自分と他を区別するところから、これらの問題が起きているように思います。付けた意味によっては、人と人との間を裂くことにもなります。これは不幸な意味付けになります。

 誰もが平和に過ごせるためには、どのような意味づけをすればよいのでしょう。



 共感という言葉があります。

 相手と同じ気持ちがもてる時に、この言葉をつかいます。

 一人一人違っているのに同じ気持ちになれるということは、どういうことなのでしょう。

 私たちは、相手の中に自分を発見した時、決して相手を責めることはできません。
 「そうだ。そんな時は、私も同じように感じる。」
 「誰でも、そんな気持ちになるはずだ。」・・・等
 
 相手を理解しようと必死になっているとき、私たちは自分を見ていません。自分を主張することはありません。

 自分を主張する時を振り返ってみましょう。自分を主張する時に意味づけが、使われます。あたかも、自分=価値観(価値観は、自分に身に付いた意味づけ)のように(自分が正しいというように)使われます。
 「なぜ、これを主張するかと言えば・・・」
 「~だから、そうすべきだ。」・・・・等

 この2つのことの中にみんなが平和に過ごすヒントがあるように思います。

 つまり、自分に焦点を当てているのか、それとも相手に焦点を当てているのか、どちらに焦点が当たっているかによってかなり意味づけに違いが生まれてきているように思います。

 人生は、自分探しの旅だとよく言われます。

 私は、相手の中に自分を見つけることができたら、平和な世の中になるように思います。(理解と承認がある)

 子どもたちを育てる私たちには、ひょっとすると、子どもの中に自分を発見する営みが必要なのかもしれません。