ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

お子様の幸せを願って、メール、スカイプでの相談、面談を行っています。是非ご利用ください。

感謝の気持ちが出る時

2009-10-31 | 育児
 「ありがとうございました。」とお礼を言われる時に充実感を感じることはよくあることだ。きっと自分のしたことが相手にとって役に立ったのだろう。
 初めはそうでなくても、同じことが何度も続くと、この感謝の気持ちも次第に薄れ、当たり前になってしまうこともある。逆に、一度味をしめて何度でもすると、うっとうしと思われることもある。
 感謝をしてもらうためだとか、充実感を感じるためだとかというものでなければ、感謝があってもなくても、「あなたのためにできることはするよ。」という気持ちですることだから、それほど気を遣って対応を考えることはない。
 「これ以上すると嫌われないだろうか。」「これでは足りないだろうか。」と心を悩ませながらフォローしても気持ちが十分伝わらない。
 何も考えず、ただ「あなたの喜ぶ顔が見たい。」という思いであれば、困っている時というのは、いつも同じではないことがわかる。同じことをして感謝をもらおうとしている時には、もうすでに相手の困っている姿が見えなくなっていることがある。相手の姿ではなく、感謝された自分が充実感を味わっている姿を見ているのだ。相手が困っていることに合わせて、できることを精一杯広げていれば、いろいろな場面で手助けができる。
 教師のお手伝いを進んでしたがる子どもがいる。一度「ありがとう。」と言うと、そのお手伝いを何度でもしたがる。これは子どもならばいたって普通の姿だ。褒められたいという気持ちが強くてこんな姿になるとすれば、これは、褒められたい自分をイメージしていることに他ならない。
 認められることの少ない大人である我々であっても人から認められたいと思うことはある。本当に困っていることなのかとを発見するところから始まる。それが感謝の気持ちとなって返ってくる。

気づかないことの罪

2009-10-30 | 育児
 一生懸命に指導していてもなかなか指導の効果が現れないことは、よくあることだ。効果が上がらないからその指導が悪いということではない。効果を上げるために見落としていることがあることに気づいていないと考えたい。
・指導が全体に行き渡っていないで、一部の子どもの反応だけになっている。
・指導したことへの意欲をもたせるための手だてが不十分で、その気にさせていない。
・指導した後の見届けが不十分である。
 このことに気づいていないために指導の効果を上げていないとすれば、もったいない。そればかりか、子ども側からすると、指導されたことを一生懸命にしようとする子とそうでない子が混在するため、「しても、しなくてもいいのかな。」「せっかく真面目にやっているのに、馬鹿らしい。」「みんなしないからやらなくてもいいんだ。」などと教師の指導への不満が出てくる。これは罪だ。
 つまり、指導したことを徹底するということは、自分の言ったことに責任を取ることになるのだ。だから、「指導したのに、しない子どもが悪い。」というのは、教師のおごりと考えたい。指導しきれていないから子どもたちの中に矛盾を作り出しているのだ。効果がある指導かどうかを判断するのは、徹底した上で考えることだ。まずは、徹底しているかどうかが重要になる。一度言えば済むという問題ではない。
・指導したことを意識しているかどうか、何度確認しただろうか。
・指導したことの意味をどの子も説明できるだろうか。
・真面目にやった子を紹介したことが、他の子の意欲化につながったか確認しているだろうか。
・指導されたことが子どもの会話の中で話題になっているだろうか。
・指導したことについてできていない子がいることを訴える子どもはいるだろうか。
 それでも広がらなければ、子どもたちに問う必要がある。
「どうして、みんなで取り組めないのか?」と。
その答えを元に、指導したことを撤回したり、修正したりする手続きが必要だ。これが、自分の言ったことに責任を取ることになる。
 実態に合わない指導をしたからできなかったのだとすれば、子どもたちに謝ることもできる。指導した時期が悪ければ、時期を変えて指導し直すこともできる。自分の指導に限界を感じたり、不安を感じたりしたときこそ、徹底すべきだ。それをしないと自分の指導の問題点に気づくことはない。曖昧さが矛盾を作り出していることにもっと気づくべきだ。

関われば、関わるほど

2009-10-29 | 育児
 一人の人でも本当に理解しようと思えば、かなりの時間を要する。時々違う顔を見せると、どれが本当の姿なのだろうと疑ってしまう。新しい顔を見つけると、そんな顔もあったのかと嬉しくなる。いろいろな顔を持っている。関われば関わるほどいろいろな顔が見えてくる。
 好きな顔、嫌いな顔・・・いろいろ見せてくれるようになると関わりが深くなってきたことになる。
 迷っているときの顔が一番面白い。どちらを選ぶか、その人の生き様が見えてくるからだ。苦しんでいる、悩んでいる時に、何それ?と思うかもしれないが、共感したり、同情したりする立場ではなく、生き方を見極めることが必要なことがあるときは、至って冷静に見なければならない。一緒になって苦しんだり、悩んだりする人を頼ろうとすることはない。光を出して輝いている人を頼りたくなるのが私たち人間だ。それは、不安定でいるときには、安心や安定を求めているから、安定している人の方が頼りになると感じるからだ。何かにすがろうとして、迷っているときは、必死になって生きている。その生き方を応援したくなるのも、その必死さに共感できるからだ。だから、どんな道を選ぼうと必ず支える覚悟はできている。その覚悟があるから、面白いと言うのだ。
 これは、愛かもしれない。相手次第だ。我はない。
・親の趣味で服を着せたり、パーマをかけたりする姿
・親の都合で、遅くまで起きていなくてはならない姿
・体裁を気にして、子どもの願いを無視する姿
・子どもは、子ども。私は私と割り切っている姿
 親の都合で使われている子どもを見ると可愛そうに思う。そこには、愛が見えてこない。見栄が見えたり、エゴが見えたりする。子どもが巣立つまで見届けるのが親の仕事だ。この姿からは、それが見えない。親ばかりではない。教師の中にもそれが見えてくる時がある。
・保護者の訴えに振り回されて、大切なことを伝えられないでいる姿
・意図もなく「決まっているから。」と平気で子どもに話す姿
・責任を取らず、上司が言ったからと説明する姿
 ここには、どんな道を選ぼうとも子どもを支える覚悟ができていない。関われば関わるほど愛おしくなる。そんな思いになるまで、子どもの傍にいていろいろな顔を見つけたい。教師ならば誰もが必ず教育愛をもっているはずだ。

使命感が自分を鍛える

2009-10-28 | 育児
 教師としての生活に慣れてくると、段々薄れてくるのが使命感。教師になった頃は、夢と希望に燃え、子どもへの願いも強く、使命感をもち、意欲的に無我夢中になって子どもたちに立ち向かっていた自分がある。経験を経る毎に夢と現実とのギャップの中で次第に教師になった頃のあのエネルギーが薄れていく。
 夢をあきらめたわけではない。ただ、経験をすることで多くの学びを経て自分なりに教師としての生き方が決まってきたからだ。
 したい仕事のためならば、余分に時間を使ってでもしようとする。これが、使命感をもっていれば、かなり強い力となって働く。忙しいからできないのではない。使命感の強さが事の順序を変えたり、事の重要性を判断したりすることになる。教師の仕事に限界はない。これは、職人の技に似ている。磨けば磨くほどよりよい指導ができるのだ。これに掛ける時間は、長ければ長いほど磨かれていく。しかし、自分の生活もあり、自分の力を磨くことだけに縛られることはない。ここが折り合いの付けどころとなる。
 ただ、見方を変えることで、時間をうまく利用することができる。自分の生活の中にも教育者として大切にしなければならないことや、教育に生かせる内容はたくさんある。
 つまり、仕事と自分の生活を分けて考えるのではなく、同じものとして考えることだ。自分の生活をどのように作っているのかを見直してみるとかなり生かせるところが見えてくる。教師の生き様がそのまま子どもの教育に反映するため、これを生かさない手はない。
・時間の使い方はどうか。
・人との関わり方はどうか。
・お金の使い方はどうか。
・身の回りのものの扱いはどうか。
・地域との関わりはどうか。
・趣味への取り組みはどうか。等
 これらを鍛えることで、無駄な動きは少なくなり、効果的な指導につながる。
 例えば、時間の使い方がうまくなれば、子どもの時間の使い方への指導が充実し、時間を無駄に使っている子どもの姿が気になってくる。
また、整理整頓でも同様だ。子どもと同様、美しいものをより美しくする感覚は、学校生活だけでは身に付かない。
 一見遠回りになるように思うが、長い教員生活をする上でとても大切なことになる。長年勤めていると「やっぱり、教育は人なりだ。」と強く感じることがある。つまり、子どもをよりよく育てたいと思いながら、自分の生活を豊かに生きている人が子どもを豊かに育てることができると感じる。

本当に子どもが好き?

2009-10-27 | 育児
 教師として、子どもが好きであることは前提となる。しかし、本当に子どもが好きなのかなと疑問を感じる姿を発見することがある。
・自分のしたいことを先にして、子どもの要求を後回しにする。
 「ちょっと待って。」「これが済んでからにして。」「今忙しいから。」等の声かけが多い。
・子どもの思いを聞かないで、自分の思いを貫く。
 「わかった?これが大事なんだ。」「こうすべきだ。」
・目の前の子どもに気を取られ、いない子の存在を忘れる。
 「○○さんがいないけど。」等と子どもに言われる。
・子どもとの会話を楽しめない。
 「うるさい。」「面倒だ。」などと感じる表情を見せる。
・困っている子どもを見つけられない。
 「先生、○○くんが・・」といつも子どもから言われる。
 「どうしたの?」「大丈夫?」などの声がかけられない。
・子どものつまずきに付き合えない。
 じっくり子どもの話を聞くよりも、自分の思いを説明をする。
・子どもの好き嫌いが会話の中に現れる。
 教師同士の会話で子どもの好き嫌いを平気で使う。
・子どもの大事な時間を奪う。
 休み時間を保障しないで、平気で延長授業をする。
 授業中に物を取りに行かせる。
 授業の始まりに平気で遅れる。
・きまりや時間を優先して、子どものつまずきや遅れを無視する。
 「きまりだから、守るのが当然。」「あなたが悪いからだ。」「早くしなさい。」等と子どもの都合や事情を無視する。
 「子どもに申し訳ないな。」「子どもたちはどう思うだろう。」「困っている子はいないだろうか。」「つまずくことはないだろうか。」等と子どもをいつも目の前において物事を考える姿勢は、教師をしていれば自然と芽生えてくるものではなさそうだ。「あれを」「これを」とすることを仕事にしていると子どもが目の前から消えていく。
 そして、効率よくできなければ、仕事の邪魔を子どもするように見えてくる。これでは、子どもが育たない。どんな仕事であっても、子どもを育てるための仕事だ。「この仕事をしたらどんな素敵な子どもになるのだろう。」「この仕事をすると子どもにどんな影響を与えられるだろう。」と子どもを目の前にしている自分を忘れたくない。子どもがいつも輝いている姿をイメージしながら仕事をしたい。子どもが好きだと素敵な子どもが浮かんでくる。目の前から子どもが消えたら、教師の仕事にはならない。

仲間と共に

2009-10-26 | 育児
 インフルエンザの影響で、学校を休む子どもが増えている。子どもだけではない。教師も休むことがある。
 教師が休むとそのカバーを全職員でする。空き時間がある教師が代わる代わる学級に入って指導をする。当然授業の内容は、担任の指導と比べると遅々たる歩みとなる。子どもの宿題や提出物も見る機会が不十分となる。休み時間まで子どもにつくことは、なかなかできない。こんな時、子どもたちにどんな声をかけるだろう。
「先生がいない時が、君たちの本当の力が試される時だ。」と、子どもたちに声をかける。学級で作った決まりやみんなで取り組んでいることを大切にしながら、その取り組みが切れないようにフォローする。そして、先生がいなくても頑張る姿を褒める。
「すごいね。きっと先生も喜ぶよ。この頑張りを先生に伝えておくからね。」と担任とのつながりを作る。休んでいても子どもたちに影響を与える力があるのが担任だ。
 困ったときには、「いつも先生は、こんな時どうしてるの?」と尋ねる。よく教師の願いや行動を見ている子どもが必ず学級にはいる。だから「いつも、こうするよ。」と答えが返ってくる。こんな時、教師の考えや思いを知る機会にもなる。わかれば、それを使ってできる限り取り組んでみる。
 子どもたちにとって担任の教師以外に授業を教えてもらうことは、ある意味新鮮だ。また、担任との比較をする機会にもなる。いつもよりも張り切って授業に向かう子どももいる。しかし、どんな担任であっても、担任をフォローする立場でいたい。子どもとの信頼関係が教育の根幹にある。それを崩すようなことをすれば、子どもが犠牲になる。いくら力がある教師であってもフォローに入る時は、子どもと担任との関係を崩すことは許されない。子どもたちを主役にして、フォローに入る気持ちを持ち続けたい。
 そして、子どもたちの頑張りを担任に伝える仲間でいたい。「先生、留守の間、子どもたちはよく頑張っていましたよ。○○さんは、こんな姿でした。素晴らしですね。」などと話をする。休んだ事で負担をかけたと思っている担任が、子どもの頑張りを褒めてもらえることほど嬉しいことはない。互いに助け合って、学校の子どもたちを育てようとする構えが、この姿を作る。いずれは我が身だ。自分が休んだ時に誰かにフォローしてもらうことになる。助けてもらったり、助けたりしながら仲良く子どもを育てる雰囲気は、必ず子どもたちにも伝わる。仲間が休んだときこそ、職場の仲間としての本当の力が試されるときなのだ。

みんな仲良し

2009-10-25 | 育児
 子ども同士が仲良く生活できるようにしたいと思いながらも、なかなか難しい。
 子どもを見ていると親しくなればなるほど、相手を独占したい気持ちになり他の子と区別をしたくなる。そのため、他の子とはちょっと違った扱いをし、それが助長すると「好き嫌い」ができる。
 誰にでも好き嫌いはあるから、それは自然なことだと言えばそうだ。しかし、これを放っておくと仲のよい学級は作れない。
 子どもが互いに相手を大切にし、認め合える関わりをもっていると子どもは安心して生活ができる。 
 一番嬉しいのは好きだと言われることだ。逆に嫌いだと言われると落ち込んでしまう。例えば「そんなことをしていると嫌われるよ。」などという言葉は子どもには、かなりきつい言葉だ。自分の行動に制約が生まれて、安心した生活はできない。また、相手にされず無視されている状況でも同じで、安心した生活は送れない。
 人の好き嫌いを作り出すと、この感覚が学級に蔓延し、自分の居場所が不安定になる。グループができ、そのグループに入れるか入れないかという思いにさせてしまう。遊びのような趣味が合う、合わないということならば、自分の意志で入る、入らないを決めることができるが、人の好き嫌いで作られたグループでは、そうはいかない。自分では決められない。決定権は相手にあり、好かれるために相手に合わせる生活となり、次第に自信が失せていく。
 誰にでも長所や短所はある。「あんな所は好きだ。」「嫌いだ。」ということならば、誰にでも当てはまる。この場合は、どの子も対等でいられる。しかし、「あの子は好きだ。」「嫌いだ。」となると、扱いに違いを生むことになる。そのため、対等ではいられなくなる。つまり、人の好き嫌いが差別を生むのだ。これでは、仲のよい学級ができるはずがない。
 誰もが安心できるためには、人の好き嫌いで判断させるような取り組みを見逃さない鋭い観察と指導が必要になる。少しでもそれを見逃していると知らぬ間に「好きな子、嫌いな子」が生まれていく。
<こんな姿は見落としていないだろうか。>
・消しゴム忘れをした時、隣の子でなく、親しい子に借りる。
・机を微妙に離して座っている。
・隣の子を避け、後ろを見て質問している。
・話しやすい子を見つけて話をしている。
・指名に偏りがあり、同じ子が何度も指名される。
・黙々と活動をし、関わりを作ろうとしないでいる。
・仲間のよさを紹介できずにいる。
 「仲良ししなさい。」と言って仲良くできるものでもない。仲良くするための行動の仕方や仲良くするための考え方を教えないと子どもはできるようにはならない。
「こうすることが仲良しなんだ。」
「仲良しだからできることだ。」
「仲良しだとこんなこともできるようになる。」
「こう考えることが仲良しだ。」
「こんな言い方ができるのも仲のよい証拠だ。」
「仲良しの学級は、こんな姿になれるよ。」
などと日頃から仲良しを広げる声かけを続けたい。
 そして、「この子は、誰にでも平気で話しかけられる子だろうか。」「この子は誰とでも仲良く遊べる子だろうか。」「この子は、誰とでも一緒に活動できる子だろうか。」等と誰とも区別なく関わりをもてるかどうか考えながら、一人の子どもを見つめてみたい。
 手を打たなければ、子ども同士で作る好き嫌いで学級が動いていく。力の強いものが支配する学級になっていく。
 「関わり方を教えること。」「関わる機会が増やすこと。」「同じ人(仲間)との見方や考え方にすること。」は、教師の力でどれだけでも指導できることだ。子ども任せにすることではない。もし、仲のよいクラスになっていないとすれば、それは、仲をよくするための手だてが足りないだけだ。

楽しい職場

2009-10-23 | 育児
 今勤めている職場についてどんな思いでいるのだろう?楽しい?それとも辛い?それとも何も感じない?
 楽しい職場には、一緒に仕事をしたい仲間がいる。そして、支え合う仲間がいる。辛くても一緒にがんばろうという仲間がいる。
 「この仕事、手伝おうか?」「大変だね。大丈夫?」「このことをどう考えたらいいと思う?」などという声が飛び交う。
 「この仕事、私がやっておくからいいよ。あなたはあれをしたら。」と声をかけられたり、しようと思った時既にその仕事がしてあったりした時、「有り難いなあ。」と感謝の気持ちで一杯になる。誰だろう?こんな事をしてくれる人は?などと嬉しくなることもある。
 居心地がいいと、自分からも動き出すことができる。程度には差があるが、人それぞれ悩みをもったり、辛い思いをもったりして生活をしている仲間だと感じる。そして、その辛さを共感できる仲間になろうとしている自分を感じる。そして、一緒に頑張っている仲間がいることを感じる。これは言葉ではない。口にしないで黙々と働く仲間の姿から感じるのだ。
 愚痴が多い職場では、常に誰かを悪者にしている。だから、ぎすぎすした感じがあり、仲間への思いやりも少なくなる。自分を守る事が大事であり、仲間の事まで考えない。どんな職場にするかは、自分次第だ。
 どうせ働くならば、楽しい職場にしたい。子どもの笑い声が飛び交う楽しい職場にしたい。そんな思いでいると、子どものために支え合う仲間ができる。一緒に子どもを育てようという気持ちが益々わいてくる。
 環境は自らの力で作り出すことだ。待っていても作り出せるものではない。待っているから人のせいにしたくなる。互いの頑張りを認め合い、「○○さん、最近すごいね。」「○○さん、がんばっているね。」などと子どもの頑張りを認め合う職場にしたい。自らの指導で育った子どもの姿を褒められて、嬉しくない教師はいない。それが、遅々たる歩みであっても関係ない。力量の差など関係ない。壁を乗り越えようとする仲間であればいいのだ。その姿勢があるから、助け合う気持ちにもなれるのだ。
 子どもの事や保護者の事、そして、同僚の事等で愚痴を言う姿からは、楽しさは生まれない。物事を人のせいにしているうちは変わらない。自分と関わりをもつから変わるのだ。まずは、愚痴を言わないでその代わりに、頑張りを見つけ言葉に出す自分を作りたい。

話の長さ

2009-10-22 | 育児
 子どもに話す話の長さはどのくらいがよいのだろう?長い話だと子どもは飽きてしまう。短い話では十分こちらの意図が伝わらない。
 伝えたいことが一杯あるとどうしても長くなる。また、子どもにわかりやすく話そうと思うと丁寧になり長くなる。どの程度がよいのか検討をつけるのが難しい。
 ただ、我々も同様であるが、一度にたくさんの話を聞いても、記憶に残らず、忘れてしまうことが多い。話の内容は多くて3つだ。それ以上は難しい。
話し方の工夫として
・話をする前に話す内容を整理しておく。
・結論から話す。
・1つ1つ確認をする。
・子どもの身近な話題とつないで話す。
・話の終わりに再度確認する。
・話題とするのにふさわしいタイミングで話す。
などが考えられる。
 この時とばかり、自分の思いをいくら子どもに話しても、受け取る側の器の大きさしか受け取れない。言いたいことを言えば、話す側は、すっきりするが、受け取る側からすると迷惑な話だ。感情をコントロールし、常に聞く側の立場になって話す努力が必要だ。
 子どもを叱るときでも同様だ。この時の方が難しい。どうしても感情が先に出てしまう。叱るときほど、話の内容を絞らないと何で叱られているのかがわからなくなる。「前にも同じことがあった。」「ついでにこんなこともあった。」などといくつも例を出してもくどくなるだけでわかり辛くなり、叱る効果は上がらない。叱られるとわかった時点から子どもは覚悟している。だからこそ、何が悪いのかをはっきりさせて、「このことで叱られた。」とわかるようにしたい。本質を突く適切な話ならば、例を挙げる必要はないし、同じような場面があった時に話をすればよい。だらだらとお説教をして1時間をつぶすようなことは避けたい。無限に時間があるわけでもない。他にしなければならない時間を割いて今この時間を使っているのだという思いを常にもっていることが必要だ。「それよりも今は、このことが大事だ。」というのは、ひょっとすると傲慢な考えかもしれない。「本当にそうなの?」と疑ってみたり、「それだけの時間をかけないとできない指導なの?」と自分の指導を見直してみたりしながら、より効果的な指導を考えてみたい。

校外学習

2009-10-21 | 育児
 日ごろの生活とは異なる校外での学習は、それだけで楽しみであり、意欲的になる。意欲をもっているから、指導もしやすい。そのため、逆に指導すべきことへの配慮が欠けてしまうことがある。活動への興味関心が強い分、逆に願いやねらいを忘れがちになる。
 この活動を通して、どんな自分になるのかが明らかになっていないと、楽しかった、面白かったという感想だけになり、こんな姿になったとか、これを頑張ったという思いにさせずに終わってしまうことがある。
 活動のイメージを事前にもたせるときに、日ごろの自分の行動からどんな取り組みができるのか、そして、新たに挑戦すべきことはないかをじっくりと考えさせ、あるべき姿を自分で決めることが重要となる。
こんな自分になりたい。
・そのためには、どこで、どんなことができるといいのだろう。
・そのためには、どんなことを考えて行動すればいいのだろう。
・みんなにどんな働きかけをし、どんな姿にしようとすればよいのだろう。
 一人では達成できなくても、仲間と一緒だから達成できることもある。校外学習は、今まで培った力が本物かどうかを確かめたり、本物にするために、郊外を挑戦したりする場となる。
校外学習でも、あいさつ、集団行動やグループ行動、話の聴き方等様々な視点で力を伸ばすことができる。また、本当にできているかどうかを評価することもできる。これは、日ごろの指導の成果を検証することになる。学習内容だけに目を向けていると学び方を育てることを忘れてしまう。校外学習は、教師の手から離れた時にどんな姿になっていればよいのかを教師自身が明らかにする大切な機会なのだ。

忙しさを感じる時

2009-10-19 | 育児
 毎日子どもたちにしていることが、子どもを育てるために大切なことだと信じて忙しいと感じながらもしていることは多い。しかし、成果が上がらないとこれでいいのだろうかと不安になることがある。そして、していることに疑問をもち、多忙感が増す。逆に成果が上がれば、充実感につながり、忙しさも消えていく。また、したいことであれば、時間をかけていても多忙感はなく、成果が上がるまで根気強く続けることができる。
 ということは、忙しさは、子どもの成長の現れと関わりがあり、仕事の量の多さではない。それは、子どもの成長を願う使命感に左右されていることがわかる。つまり、今している仕事を自分の使命感とつなぐことでやり甲斐が増していくことになる。
 答え合わせを例に考えてみる。
 よく子どもに渡した計算ドリルや漢字ドリルの答えを切り取り、子どもから取り上げて、答え合わせを教師がしている姿を見かける。
 それは、子どもがごまかし、答えを見ながら宿題をしてはいけないからという思いでいるからだ。
 これは、間違いだ。どんな子にしたいのかという使命感が見えてこない。子どもは誰でもできるようになりたいと思っている。ごまかして宿題をしようなどと思ってはいない。もし、ごまかすとすれば、それは、宿題をすることに価値があり、力をつけることに価値を持たせていない指導があるからだ。
 子どもに答えをもたせないということは、自分で答えを知ることはできないということになる。これでは、学習の自立はない。答えを知りたいと思ったときに答えがわかる方が学習の効率は上がる。答えがなければ、それはできない。効率が下がったところで間違いを指摘されても、言われたからするだけで、力をつけたいと思って間違いを直すことはない。それよりも、子どもが自分で答え合わせができるように答え合わせの仕方を指導する方が子どもの力になる。自分で答え合わせができないから、代わって教師がするのだというのならば、いつまでそれを続けるのかということになる。続けている間は子どもの自立はない。
 答え合わせの仕方を身につけることは、教師の力を借りないで、子ども自身で学習を進めることができる。だから、できるだけ早い時期に教師が答え合わせをする仕事を終えるように子ども自身に答え合わせができる力をつけてやりたい。
・○をつける頃合い
 1ページ全部やってから答え合わせをするか、1問ずつ答え合わせをするかは大きな違いだ。
・○のつけ方
 漢字ドリルならば、一字ずつ○をつけるか、一問で1つ○をつけるかでも違う。
 どこに気をつけて、○をつけるか指導するだけでもかなり違う。
・間違いの直し方
 間違えた問題の答えを書くのか、間違えた理由を書かせてから答えを書くのか、どちらが、間違いを考えることができるだろう。
・間違いの克服の仕方
 繰り返しの回数を何回すれば、身に付くのか子どもによって異なる。子ども自身に意識させたい。一律に何回ではない。
 繰り返しの意味を知らない。力がつくまで繰り返すこだわりがほしい。
 これだけでも点検すれば、かなり自分で答え合わせをする力が身につく。いい加減な答え合わせの仕方をしていれば、やり直しも必要だ。その点検の時間を費やした方が答え合わせをして間違いを指摘してやり直しをさせるよりも子どもの自学の力が身に付く。
 どんな子どもにしたいのかを常に意識し、使命感をもつことで、仕事の仕方や内容も変わってくる。今している仕事をこの視点から見直してみるのもよい。多忙感を感じる仕事から見直してみてはどうだろう。

よさ見つけ

2009-10-18 | 育児
 帰りの会などに「輝き見つけ」「今日の宝物」「よさ見つけ」等と仲間のよさを見つけて紹介する場を設けることがある。毎日続けているとマンネリ化し、発言する子が固定されたり、話す内容が限定されたりしてしまうことはないだろうか。
 これには、いろいろな原因が考えられる。
・よさ見つけをする理由が十分理解されていない。
・よさの視点がわからない。
・よさ見つけを他人事にしている。
・仲間関係が十分育っていない。
・よさを見つける意欲がない。
 よさ見つけをどれほど価値ある事ととらえているかによって指導が違ってくる。
<よさ見つけのねうち>
・自分の居場所を学級の中で作ることになる。
 仲間から認められることは学級の一員としての存在感を示すことになる。
・気づいていない仲間の一面を見ることになる。
 どの子もいろいろな面をもっているが、関わりがある子ばかりではない。「そんな面があるのか。」と気づくことになる。
・仲間関係を密にする。
 紹介した仲間に対して好感をもつため、人間関係がよくなる。
・人を見る視点を豊かにする。
 よさをよさとして気づいていない自分が見える。「それもよさなのか。」と発見がある。
・生活を豊かにする。
 よさは、学校生活のあらゆる場面で見つけることができる。その場面に互いを認め合える機会があるため、その場面が豊かになる。
 まだまだ、よさ見つけのよさはあるだろう。よさ見つけが価値あるものだと教師が自覚し、子どもにも意識させたいという強い願いがあれば、「どの子もよさ見つけができる子にしたい。」という強い願いをもつことになる。そして、これが学級を作る上でとても重要な取り組みであることに気づくはずだ。
<どの子もよさ見つけができるために>
・よさを教師が紹介する。
 生活の様々な場面で、教師がとらえるよさを子どもの姿で示す。そして、「よさ見つけ」につながることを子どもに話す。
・全員が参加できるようにする。
 全員が挙手する、全員が書くなど学級全員が参加しないと許さない姿勢を示す。
・全員で承認する。
 紹介された時に全員で拍手し、認め合う。
・紹介した子のよさを教師が認める。
 「よくこんなことを見つけられる。」「よく仲間を見ている。」などと見つけられることの素晴らしさを紹介し、見つける自信をもたせる。
・掲示に役立てる。
 よさ見つけの足跡を掲示として残し、いつでも振り返られるようにする。
・よさ見つけができる自分か、そうでない自分かをはっきりさせる。
 よさ見つけができない自分では、だめだと自覚できるようにできる子との違いを明確に示す。(視野の狭さ、自己中心性、生活上の問題の有無、参加意欲、生活の豊かさ等)
 誰もが認められたいと思っている。褒められれば笑顔が増える。明るくなる。学級の核ともなる活動にできる。教師のよさ見つけにかかっている。

全力を尽くす

2009-10-17 | 育児
 子どもたちに何とか力をつけたいと必死で頑張っている教師は多い。しかし、必死で頑張っているから力がつくというものでもない。荒れた学級の中で辛い生活に耐え続けたことが力となって働くこともある。仲のよいまとまりのある学級で仲間に支えられながら自信をつけ、力をつけることもある。厳しい教師の姿におどおどしながらも耐えてたくましくなることもある。優しい教師の期待に応えようと力をつけることもある。子どもにとって何が生きていく上で力になるのかはわからない。ただ、言えることは、子ども自身が環境に合わせて、自分を生かそうと努力した結果、生きる力を身につけることができるということだ。
 例えば、戦火を避け、避難民となって生活する子どもたちが難民キャンプで笑顔一杯の姿を見せるという。ゴミの山で生活する子どもたちが、ゴミの中から役立つものを作り出し、生活を楽しんでいるという。こんな話は、日本では到底考えることはできない。このことからもどの環境にいても子ども自身が自分を生かそうとその環境に合った生き方をしていることがわかる。これは、小さい子どもが何でも遊び道具にしてしまう姿にも似ている。
 つまり、子どもの構えによって力のつき具合は決まってしまうのだ。いかに子どもの生きようとする意欲を掻き立てるか、ここが重要な気がしている。
 力を入れすぎていると子どもが見えなくなる。自分の願いが強くなりすぎてしまうからだ。力を抜き、子どもの中に輝きを見つけるだけのゆとりをもつ程度の努力で子どもと接したい。
 自分を生かそうとしている子どもは、必ず輝いている。これは間違いない。その輝きが教師の投げかけた言葉によって一瞬で曇る場面を見ることもある。辛い瞬間だ。世の中楽しい事ばかりではない。辛いこともあると思いながらも辛いことを味わわせるだけでは、力にならない。その辛さを乗り越えようとする力をつけさせたい。
「あなただけが辛いわけではないよ。」
「必ず乗り越えれば、楽しくなるから。頑張ろう。」
「諦めないで耐えているのは、乗り越える力があるからだ。」
いろいろな励ましの言葉はある。子ども自身が自覚できるように前向きな言葉を浴びせてみる。一つでも子どもが受け取れば、それは乗り越える力になっていく。教師が浴びせる言葉の数ではない、子どもが受け取った言葉の数が、子どもには影響を与える。努力は、子どものためであり、教師としての自分の力を伸ばすためではない。結果として教師としての力となるだけだ。焦らずじっくりと子どもと向き合いたい。

見ていてほしい

2009-10-16 | 育児
 「先生、私を見て!」・・・こんな声をあげながら、近づいてくる子どもは、低学年に多い。しかし、これが、素直にできなくなった高学年の子どもたちでも私を見てほしいという気持ちをもっている。その姿は様々で、素直に「見てほしい。」という気持ちが見えないように見せている。
・見栄を張って自分を見せようとする。
・場当たり的で衣を着せないで率直に自分の気持ちを出す。
・他人の動きに自分を重ねて訴えようとする。
・人に隠れて自分を見せないようにする。
 「本当に見てほしいと思っているの?」と疑いたくなるが、見てほしいと思っているのは、確かだ。
 その証拠に、反発しながらも絶対に離れていかないで、ある程度の距離を保とうとしている姿、仲間と一緒ならば教師の思いに合わせて動く姿、時間はかかるが、遅れてついてくる姿などよく見ると必ずついてくる姿がある。
 教師が愛情を傾け、「あなたをもっと見たい。」と訴え、離れていかない子どもを見捨てない限り、離れていくことはない。
「どうせ、私なんか。」と吐き捨てる言葉は教師への最後の切り札だ。見ていてほしいと素直に言えない子どもだから、自分を責める。嫌われている自分を演ずることで、気持ちを整理する。
 ただ、厄介なのが、この姿への対応だ。小さいうちは率直にほめていればよかったが、高学年になるとそうはいかない。
・仲間への照れがある。
・褒め言葉を素直に認められないでいる。
・仲間からどう見られるかの不安を抱えている。
・自分への謙遜がある。
・仲間と同じように見られたくない。特別な自分として認められたい。
・褒められても自信につなげられない。
 だから、どの子に対しても同じ対応をすることはできない。一人ひとりの状態に合わせて対応するしかない。
 子どもに合わせようと努力していれば、子どもは必ず答えてくれる。
子どもが答えたとき、これでよかったのだと対応の仕方が見えてくるととても嬉しくなる。そして、子どもに感謝したくなる。
「先生の気持ちをわかってくれて、ありがとう。これからも努力をし続けるよ。」・・・ちょっと一回り大きくなった自分が見えてくる。

授業参観

2009-10-15 | 育児
 年数回の授業参観日は、特別な日だ。保護者に子どもたちの成長を見てもらう大事な日だ。よく普段の姿を見せればよいという人がいるが、普段通りにはいかない。子どもたちも見られることを意識する。保護者に少しでもいい姿を見せようと張り切っている。「先生、いつもと違う。」と子どもたちが言うこともある。それでいい。お客様を家に招くときと同じだ。普段の生活をそのまま見せることはない。少しでもいい姿を見せたくなるのは当然のことだ。
 この姿が普段と違うから、本当の姿ではないからだめだと考えるよりもこの姿に高められる可能性があると考えた方が得だ。そうすれば、子どもたちに「本当ならば、これだけできる力があるあなたたちなんだよ。」と自信をもたせる機会にすることができる。そして、「これだけ頑張れる力があるから、これからの授業でもその力を出そうね。」と次の授業からの取り組みに生かすこともできる。
 授業参観では、できるだけ多くの子どもが活動できる場を設けたり、子どもの頑張りが見られる状況を作ったりと保護者に子どもの頑張りが見えるように努力をする。これだけでもかなり保護者の印象もよくなる。また、この機会だからこそ、保護者に訴えたい取り組みをすることもできる。
 つまり、今こだわっていることを保護者にわかるように授業で示すのだ。例えば、「聞く姿勢」にこだわっているのならば、「聞く姿勢がいいね。」「聞く姿勢がいいとこんなに早く活動ができるね。」等と意図的に子どもの姿と結びつけて授業中に話す。学習姿勢作りへのこだわりが保護者にも見えるようにする。もし、学級懇談があれば、「あのときにこんな話をしたのは、今学級でこのことにこだわっているからです。」と説明することもできる。日頃からこだわっていることならば、必ず子どもはいつも以上に意識して取り組んでくれる。これを使うことで、質を高める教師の姿を保護者に見せることができる。
 また、保護者はわが子を見ているが、わが子と教師との関係も見ている。子どもとの日頃の人間関係を見せるのも参観授業だ。日頃の子どもとのやり取りが出てしまう。繕うことは難しいが、少しでも一人ひとりを大切にした言葉を投げかける努力をしたい。
 授業参観後には、子どもたちから参観後の感想を聞いたり、保護者からの感想を集めたりすることも大切になる。教師の一方的な思いを伝えるだけではなく、受ける側の子どもや観ている保護者の立場から見える授業は教師側とは違っている。これを受け入れる器をもっていることが大切だ。保護者が安心できるのは、この受け入れる器があることだ。保護者との壁を作ってしまうと、「どうせあの先生には言ってもわかってもらえない。」ということになる。これでは、大変。
 保護者から「安心して子どもを任せられる。」という声が聞こえれば、今後保護者が味方になって支えてもらえることも多くなる。授業を見れば、その答えが見えてくるのだ。だから、特別な日なのだ。