ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

お子様の幸せを願って、メール、スカイプでの相談、面談を行っています。是非ご利用ください。

いじめや差別の芽を作っているのは、誰?

2012-11-26 | 育児
 私たちは、子どもを健やかに育てたいと願って日々の指導を行っています。
素晴らしいと思うことは、どんどん褒め、至らないと思うと叱ったり、諭したりしながら、あるべき姿へと導くように指導します。

 集団の中でこの取り組みをしたとき、指導を受ける子どもたちがすべて、意に添った思いをもつかと言えば、そうとばかり言えません。
 人が褒められる姿を見たとき、「うらやましいな。」「何であの子が?」「なぜ、私は認められないの?」「私を見て!」などと思う子どもがいたとしたら、褒めることが罪になってしまいます。
 
 それならば、全体の前で褒めない方が良いかと言えば、そうではありません。

 目指す方向が明確にならなければ、子どもは目指そうとはしません。

 それでは、何が問題なのでしょう。

 素直に相手の良さを認め、一緒に賞賛できないその子の問題だと言ってもこの問題の解決にはなりません。

 誰もが安心・安全を求めています。そして、誰もが承認されたいと思っています。

 このことを前提にして、子どもを育てているかがとても重要だと思います。

 いじめや差別は、安心・安全や承認が欠けているために歪な形で、自分の安心・安全や承認を作り出そうとしているところから生まれます。

 いじめや差別の裏には、相手との違いを作り、自分を優位にしたいという思いがあります。

 この違いを生み出すことに教師が荷担しているとは思いませんか?

 よい事をした子を褒めることは、その子と他の子の違いを浮き彫りにします。
 逆もあります。悪い事をした子を叱ることは、その子と他の子の違いを浮き彫りにします。

 子どもは、教師から認められる安全は方を選ぼうとします。もしも、いくら頑張っても認められないとすれば、教師から認められることを放棄します。
 教師のそばにいるとだめな自分が浮き彫りにされ、安心・安全は確保できないからです。

 そうなると教師から離れたり、教師に近い仲間と対立したりする道を選びます。それが自分を活かすことになるからです。

 「みんな違っていい。」と言いながら、認められるのは、よい事をする子どもだけです。

 教師が区別していることが子どもには差別となって映るとすれば、差別の芽を教師が作っていると考えることができます。

 教師自身が心から「どの子も価値ある存在だ。」「どの子も独特で素晴らしい。」という思いをもち、その思いに合った行動を取らない限り、差別やいじめの芽を作っていると言わざるを得ません。

 認められない自分があるから、許せないと思うのです。逃げたくなるのです。反発したくなるのです。ごまかそうとするのです。
 
 どの子も平等に認められる機会があり、どの子も「私は認められている。」という感触を日々味わっているとすれば、他人が褒められても自分を卑下したり、相手を嫉妬したりすることは少なくなるはずです。

 教師が価値観に焦点を当てているうちは、子どもは、その価値観に照らし合わせて、人を区別します。そして、差別につなぐ子も出てきます。

 価値観ではなく、その子の存在に焦点を当てることが重要です。

 褒めている時に褒められる子だけでなく、褒められない子にも目を向けられることが存在に焦点が当たっていることになります。

 褒められない子への配慮を考えた褒め方ができる教師になります。

これは、叱ることにおいても同じです。

 誰もがよさと可能性をもっています。そのよさを紹介しただけなのです。
「そうだね。あなたにもちゃんと良さがあるよ。」
そして、叱った時
「そうだね。誰にも可能性があるね。その可能性を信じて、あなたの頑張りを期待したから叱ったんだよ。あなただけではない。誰にでもあることだから、落ち込まないでいいよ。」
などと他と比べて自分が優れているとか劣っているとかと感じないように人にはよさと可能性があるということを伝え、子どもの心に闇を作らないように配慮することができます。

 誰もが素晴らしいよさと可能性をもっています。

 このよさと可能性を信じて私たちは、日々指導をしているのです。そして、このことをどの子にも知らせたいのです。

 つまり、価値観を子どもの押しつけるのではなく、よさと可能性に焦点を当てながら、「人は、皆同じだ。」ということを伝え続ける必要があります。

 誰でもが、素敵な存在なのです。

 社会の中で誰もがよりよく生きたいと願っています。

 誰もがです。

 ただ、環境や状態が異なるために様々な姿となって現れているだけなのです。

 子どもは、自分が置かれた環境の中で精一杯自分の能力を発揮し、自分を活かそうと必死で生きています。


 「もし、今、子どもが置かれている立場に立つことができたとしたら、やっぱり同じように自分も子どもと同じように振る舞うかもしれないな。」と思うことができたら、きっと子どもは、「先生は、私を認めてくれている。」と思うでしょう。

 どの子も必死で生きています。自分を生かそうと必死なのです。
私たち以上に世の中の事は知りません。だから、必死なのです。知らないことが多くて、無意識は、危険なことばかりが目につくのです。

 「いいえ、安心していいよ。みんな同じだよ。」


 子どもを褒める時、叱る時、自分の感情の赴くまま、子どもに接していることはないでしょうか。

 本当に一人の素晴らしい価値ある存在として子どもに接しているでしょうか。

 私自身も、まだまだ至らないことが多いと感じる今日この頃です。

一人じゃない

2012-11-19 | 育児
 自分の周りに起きることに一つ一つ対応しながら私たちは、より良い生活を送ろうと毎日、を過ごしています。出来事についていつも自分で判断し、自分で決定し、自分で行動しています。
時には、その判断に困って、人に相談する時もあります。相談して、よい知恵をいただいても、最後にそれを取り入れるかどうかの判断をしているのは、自分です。
決して他人が決めることはできません。常に決定権は自分です。
組織の中でも同じです。組織の約束に縛られると言いますが、その組織を選んだのも自分です。
教師の仕事は、かなり自由度が高く、縛られることよりも、個々に任されていることの方がかなり多いと思います。
職人のように自らの力を磨くことに魅力を感じるのもそのためです。
努力によって、子どもが変わる。・・・・・そんな楽しみがあります。
直接子どもと関わる担任は、それを肌で感じることができます。
担任から離れると次第にその感覚が薄れてきます。
これは、判断ミスを起こしやすくなる原因でもあります。
つねに担任でいる感覚をもちながら、でも離れた立場で子どもを見ているという感じでしょうか。
学校の中には、そんな立場で子どもを育てようとしている仲間がいると言うことです。
こどもを中心に組織が動いているうちは、トラブルが、少ないと思います。
しかし、子どもから離れて、教員の質の問題、環境の問題、防災の問題などと、様々な方向にエネルギーを使い始めると子どもにかけるエネルギーが、少なくなってしまいます。
学校には、力のある先生ばかりでは、ありません。ベテランの先生ばかりでもありません。いろいろな先生がいて、それぞれの先生のよさを生かしながら総力として、取り組むしかありません。
もし、あなたが一人で問題を抱えたとしたらそれは、問題解決を遅らせることになるかもしれません。
一人では、ありません。周りにいる人とうまく関わりを作りながら、効率よく問題解決の当たることでは、ないでしょうか。
そのためにも職場の人間関係が重要になります。
まずは、自分から心を開くところから始めましょう。
無理をせず、背伸びをしすぎず、自分の力に合わせて物事に取り組みたいと思います。
子どもは、1年で育つわけでは、ありません。時間をかけ、熟成するのではないでしょうか。
目の前に起きた出来事に失敗はありません。ただ、こどもにとって、学びがあるだけです。
子どもの学びの機会を奪っていることは、ないでしょうか。自分だけの立場で、判断せず、仲間と一緒にいることを念頭に起きながら、判断することが、判断ミスを少なくすることになるのでは、ないでしょうか。
共通の目指す方向性を持っている仲間です。互いに信じ合い、支え合い、補い合って生活したいものです。

意識はどこに

2012-11-12 | 学校教育
 私たちは、学校という組織の中で生きています。目の前の子どもを育てるために目標を立て、目標の実現のために日々、子どもたちと関わっています。
 この目指す方向(ゴール)が教師の意識の違いによって育ち方が変わってきます。

 これを、意識レベルで説明することができます。

家庭学習を例に考えてみます。

 ①目の前の目標に意識が向いている時・・・ミクロレベル
  宿題をしたかどうかを問題にする。

 ②学校教育に意識が向いている時・・・・・マクロレベル
  学力が身に付くかどうかを問題にする。

 ③その子の人生に意識が向いている時・・・メタレベル
  生涯学習につながるかどうかを問題にする。

 この意識レベルの違いが対応の違いになります。

宿題を忘れた子に対して
①「忘れないでね。宿題はやらなきゃだめだよ。」
②「勉強は、繰り返しが大事だよ。だからおうちでも勉強してね。」
③「何事も振り返りが大事だよ。できることが増えると楽しいよ。」

 教師の意識の違いが言動の違いとなって現れます。

 宿題だけではありません。
すべての言動の源がこの意識レベルによって決まります。

 目の前の目標にこだわりすぎると、視野が狭くなります。
少し長い目で見てみると、視野が広がってきます。

 これは、日頃の自分の生活と同じです。

 どこを目指して日々の生活をしているのかがとても重要だということになります。

 教師としての自分は、目の前の子どもたちの幸せを願うのは当然ですが、それだけでいいのでしょうか。

 もっと先に教師としての自分の夢があるはずです。

 それを思えば、今の苦労は苦労でなくなるかもしれません。

 人は価値あると思ったことに動きます。
 物事に価値を付けます。それが意味づけです。

 目標はまさにその意味づけそのものです。

 意識レベルを①ミクロレベル②マクロレベル③メタレベルのどのレベルに置いて見つめることが多い自分なのでしょう。

 生きる意味さえも、意識レベルで決まってしまいます。

 人として生きる自分、教師として生きる自分・・・・様々なレベルで自分を見つめることができます。

 目の前にいる子どもたちの将来を築くための手助けをする私たちです。子どもたちが夢を語ることができるのは、まさに私たちが夢を語る私たちでなければなりません。

体験を通して

2012-11-05 | 育児
 教えているのになかなか力がつかないと感じたことはないでしょうか。
教材研究に力を注ぎ、きめ細かく指導をしているのになぜ子どもの力にならないのだろうと、自分の力のなさに悲観することはないでしょうか。

 そのたびに、努力したことがすぐに結果に結びつくような効率の良い指導はないかと考えてしまいます。

 そこで、考えたいことが、脳のはたらきを十分に理解して取り組むと無駄が少なくなることは確かだということです。

 学習は、4つの段階を経ています。

無意識的無能・・・・知らないからできない段階

意識的無能・・・・・わかっていてもできない段階

意識的有能・・・・・意識すれば、できる段階

無意識的有能・・・・意識しなくても、できる段階

 教えたからわかるというものでもありません。もちろん教えたからできるということは、かなり無理があります。

 人は、インパクトと繰り返しをしながら、この4つの段階を経て、わかったり、できたりしていきます。

 この時、教師が言葉だけを駆使して教えても、言葉を理解する子どもにとって知らない言葉であっては、当然わかるはずもありません。
 実感している言葉ならば、わかりやすく、子どもも理解することができます。
 実感がなければ、わかりません。

ということは、まずは実感が前提になっているということです。

 聞いたり、書いたり、体験したり五感をフル活用して得た情報であれば、子どもは実感してとらえることができます。

 算数においても、算数的活動が重視されているのもそのためです。
式や言葉だけを使っても、なかなか子どもには理解できないことがあります。
 具体から抽象へと対象を変えながら情報を得ていきます。また、具体と抽象がつながることがわかりやすさになります。

 形のあるものは、イメージになります。
 具体というのは、そのイメージを作り上げることに役立ちます。 
 つまり、言葉を自分なりにイメージできるのは、取り上げた言葉に関わる体験をもっているからわかるのです。

 私たちが教材研究をするとき、どんな順序で授業を作り上げるかをイメージしますが、それも具体的な場面をイメージした方がより実践的になっていきます。

 それを子どものレベルでイメージすることができれば、より子どもにわかりやすい授業を作ることができます。

 このことから授業づくりのコツが見えてきます。

 子どもが体験を通して、五感情報を得、イメージし、言語で表現する。その過程で実感できる・・・・そんな流れを大事にすることが脳のはたらきに合っていることになります。

 授業づくりを脳のはたらきの視点から留意するポイントを整理すると次のようになる。
 
・五感情報を駆使しているかどうか。
 教師の話だけでは、聴覚情報のみとなる。
 見せたり、体験させたりする場面を用意してあるかどうかがポイント

・具体から抽象への流れを考えているか。
 子どもに任せても具体と抽象をつなげるとは限らない。
 得た情報を言葉やイメージにつながるような手だてを用意しているかがポイント

・感情を見る視点をもっているかどうか。
 子どもがわかった、困った、わからない。などという表情を何らかの形で表現する。
 そのサインを見落としてしまうと力がつかない。
 言葉だけでなく、表情や態度から子どもの感情をつかむことができるかがポイント

もちろん、教える側に教える内容についての体験がなければ、教えることはできません。どんな感覚になるのかがわからないため、子どもの反応を受け取れません。
 
 教材研究は、ただ教えるということよりも、どんな感情がわき上がるのかを実感する教材研究になっているかどうかがとても重要になります。

 初めてわかった、できたときのあの感覚が蘇ってくれば、子どもにわかりやすく教える教師となって子どもの前に立つことができます。

 わからない(できない)子どもの気持ちを理解し、子どもがわかっていく道筋を作ることができます。

 わか(でき)れば、子どもは自然とそれを使いたくなります。そして、自慢したくなります。それが次につながる意欲になります。

 「ねえ、おかあさん、これ見て!」「これは、こういうことなんだよう。」
 と子どもが声を出して、語りかけるようになれば、わかった(できた)証拠です。

 これを当たり前ととらえず、「すごいね。」「よくがんばったね。」の褒め言葉があると、子どもは自信をもち、繰り返し学習に向かっていきます。

 これが繰り返しです。例えば、計算ドリルをたくさんさせることではないのです。その過程が重要です。
 つまり、やった→褒められる→やるという繰り返しの中で子どもが能力を身につけていきます。

 低学年ほど、きめ細かく「褒める」を介入させる必要があります。

・説明の過程で褒める必要があるかもしれません。
・一つできたときに褒める必要があるかもしれません。
・毎日繰り返し褒める必要があるかもしれません。
・努力をしている時に褒める必要があるかもしれません。

 子どものやる気が持続するように褒め続けます。自分一人ではなく、褒めてもらえる対象も様々です。多くの人に認められる体験は自信につながります。

 体験は、学習内容だけでなく、学習に向かう姿勢や態度までも含みます。
すべて子どもの自信につなげるための体験です。すべて繰り返しが必要になります。

 可能性を秘めている子どもたちに体験を十分させながら、脳のはたらきをうまく利用して、子どもに力をつけたいものです。