ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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癖をつかんで事を進める

2009-03-30 | 育児
 いよいよ新年度が始まる。次年度の自分の姿をイメージする一番いい時期になった。今年度やり残したことを悔やんだり、次年度に向けての願いや夢を掲げてやる気を高めたりしているところではないだろうか。新しい出会いもあり、自分なりに変化を求めている自分もある。
 その構えを生かし、具体的に動くためには、自分のあるべき姿を具体的にイメージするところから始まる。
・したいことを増やしている自分
・人との関わりをちょっと変えている自分
・周りの変化した姿に目を向けている自分
・ちょっと違った視点から情報を集めている自分
 変化している自分をイメージできたならば、
・いつそれを作り頃までに出すのか。
・どのように作り出せばよいのか。
・それをするにはどんな力が必要なのか。
・その姿になるには、誰と関わればよいのか。
・それにはどのような考え方をしたらよいのか。
・その姿になるのを止めているものはないだろうか。
・その姿になると周りにどのような影響があるのだろうか。
・まず、何をすべきなのだろうか。
など具体的になるように考えを巡らす。
 しかし、この考えを巡らす自分に癖がある。努力はするが、その努力の仕方に癖があることに気づいていない。例えば、「いつまでに」「周りへの影響は」などと考えないで目標を達成しようと努力し続けていることもある。逆に「すべきこと」だけでことを意識していて、大事な考え方や姿のイメージを忘れてしまうこともある。
 目標が達成しないのは、その癖に気づいていないことが多い。どんな癖をもっている自分なのかを知ることで、目標達成が可能になる。
 考えを巡らす今、自分の癖をつかみ、足りないところに焦点を当ててより具体的にしてみるとちょっと動きが変わる。
 さて、私の癖は、何だろう。「周りへの影響をもっと意識するべきだ。」ということになりそうだ。

受け入れる準備

2009-03-29 | 育児
 学校を去っていく子どもたちや先生方との別れを経て、いよいよ新しい出会いを待ち遠しく思う今日この頃。
 どんな出会いができるのか、第一印象がとても大切になる。印象ということは、感じることだ。自分が受け入れられるという感じをもったときに心を開き、安心して一緒に生活しようという気持ちになるだろう。
 まずは、環境作り。受け入れられると感じてもらえる環境を整えておくことだ。
・受け入れやすい場
 美しく、整っている。
 受け入れるメッセージが見える。
・不安を解消できたり、安心できたりする言葉かけ(構え)
 あなたを待っていました。
 あなたは大事な人です。
 あなたの願いが実現できるように応援します。
 あなたの力が必要です。
 あなたが何をされるのか楽しみです。
・身近に感じる対応(構え)
 「知っていますよ。」と集めた情報から話しかける。
 「困っていることはありませんか?」と質問する。
 「一緒に~しませんか?」と誘う。
 「これは、こうですよ。」と教える。
 「素晴らしいですね。」と承認する。
新年度まで、わずかとなったが、できる限りのことをしよう。

感謝の気持ち

2009-03-27 | 育児
 離任式が行われた。今まで関わった人との別れはとても悲しいものだ。別れることの辛さは感じやすいが、感謝の気持ちをもつことは、なかなか難しい。別れの際に相手に対して感謝の気持ちが持てるとすれば、どんな心の動きがあるのだろう。
 自分を中心に考えてみると自分にとって相手が「役に立つか立たないか」「損か得か」「私のためになるかならないか」などという判断をすることができる。私のために役立った人、私に利益を与えてくれた人、私のことを大切にしてくれた人などという気持ちがあると、別れる人は、私にとって有り難い人ということになる。そこで、「ありがとう。」と感謝の気持ちが生まれてくる。自分との関わりがなければ感謝の気持ちは当然生まれてこない。自動的に別れる人に感謝の気持ちをもつことは少ない。相手との関係が密になっている子どもでも、別れの辛さが先に立ちなかなか感謝の気持ちをもつことはない。
 となると、子どもたちに「感謝の気持ちを伝えよう」ではなく、まず、関わりを想起させ、自分と別れる人との関わり方をイメージすることから始まる。イメージができれば、有り難い人だという思いに立たせることは容易となる。「あなたのためにいろいろしてくれた人だったんだよ。有り難いね。」と感謝の気持ちをもたせることができる。
 ただ、感謝の気持ちは、これだけではない。相手の存在そのものへの感謝がある。より深い関わりができあがっているときにそれが見えてくる。互いに信じ合う関係ができていると、互いに相手のために何かをすることが喜びとなる。子が親の喜ぶことをしようとするのもそのためだ。相手が喜ぶ姿を見て一緒に喜べるという姿は、自分の利にはない。相手がいること、相手と関われたことそのものが大事になる。
 だから、「私のそばにいてくれて、有り難い。」ということになる。「あなたが私のそばにいてくれたから、こんな楽しい時間を過ごすことができた。本当に有り難いことだ。もし、あなたがそばにいてくれなかったらそれはなかっただろう。あなたを失うことはとてもつらいことだ。」となる。
 有り難うの言葉が単に言葉だけになっているのか、心から有り難いと思っているのかがとても重要になる。相手の心に伝わる「ありがとう。」は、関わりを深くイメージさせることなしには生まれてこない。 別れの辛さをこらえている子どもたちの中どんな思いをもたせることができただろう。失うことの辛さを感じられる子どもに育てたかどうかが今までの関わり方なのだろうなと強く感じた。

どの学年でも

2009-03-26 | 育児
 新年度が近づくと次の担当する学年はどこになるのだろうと気になるところである。希望した学年になれるかどうかわからないが、構えとして、どの学年でも持てる教師でいたい。
 持ちやすいとか持ちにくいと思う判断の基準の多くは、子どもの実態のようだ。落ち着いた学級なら持ちやすいが、問題行動が多い学級は持ちにくいとよく話される。当然問題行動が多い学級での指導は苦労することはわかる。もし、持ちにくいと考えているのならば、それは、自分の力量が子どもの姿を変えるに至らない力量だと自分で決めていることになる。本当はその実態を変化させる力があるにも関わらず、自分で自分の力量を過小評価しているところはないだろうか。
 教師の力が伸びるのは、壁に当たったときだ。その壁を乗り越えるだけの力があるかどうかを見極めるためには壁を避けられない。
 今までに経験したことのない実態に出会ったときに自分の指導の幅を広げることができる。特に問題行動が多い学級は、必ずその問題が生まれてくる背景があるはずだ。自信をなくしていたり、仲間関係が希薄であったり、実態に合った指導がなされていなかったりと問題が生まれる背景がわかるとそれに合った手だてを講じることで問題が解消されていくことは多い。
 子どもは育てられたようにしか育たない。問題行動が多いとすると、必ず、どこかに育て足りないところがあるはずだ。何が足りないのか、目の前の今の子どもの姿を見るだけではわからない。過去に戻るとその育てられ方がわかる。子どもの発達に合った指導になっていれば、多くの問題は解消される。育てたりないことに目を向けたり、子どもが育とうとする方向に目を向けたりすることで、発達に合った子どもの育ちが期待できる。
 様々な学年を経験することは、その子どもの発達の過程を体験的につかむことができるということだ。経験することで指導の幅も広がる。
 低学年の子どもたちと高学年の子どもたちと同じように指導はできない。同様に中学年の子どもたちと同じようにも指導はできない。
 それぞれの学年の発達に合わせた指導が重要になる。それを体験するチャンスが新たな学年への挑戦となる。
 低学年では、自己中心的で「僕は」「私は」という子どもが多い。
 中学年では、集団を作り始め、集団とうまく関わることに慣れ始める子どもが多い。
 高学年では、自我が目覚め始め、対等に扱われないと不満をもつ子どもが多い。
 それぞれの子どもの学年発達に目を向けて、それぞれの学年の子どもに合った指導のできる自分にすると、実は、子どもの行動が本当は問題行動ではなく、発達からみて当然の行動だったとみることもできることがある。そうなれば、指導にゆとりももてる。知らないために、余分な問題を作っていることもある。
○人の話を聞かない→実は、興味がない(わからない)から聞か(け)ない。
○友達とよくけんかをする→実は、友達との関わり方を知らない。
○暴力を振るう→実は、うまく自分の言葉で説明できない。
 指導不足によって問題が引き起こされていることに気づかないでいると問題がさらに別の問題を起こすことにもなる。
 さて、次年度はどの学年に挑戦しようとしているのだろう。

大切な存在として認める

2009-03-25 | 育児
 子どもが好きでなければ、教師は務まらない。当たり前のことだけれど、なぜ好きでなければならないのか?
 人間であれば、誰でも好き嫌いがある。だから、嫌いな子がいても自然ではないかと思う人がいるかもしれないが、好き嫌いは、私たちが体験した人との関わりの中で作り上げてきた価値観でしかない。それは思い込みであって、真実ではない。私が嫌いな人は誰にとっても嫌いな人なのだろうか?そんなことはない。つまり、ある視点から私が見ているから嫌いだということであって、その人そのものねうちではない。あくまでも私がある視点で見たときの好き嫌いなのだ。
 子どもが好きだということは、個人的な私の好き嫌いとは違う次元の話になる。ここがとても重要だ。わがままでなかなかこちらの意図が伝わっていかない子であっても、好きだと言える自分かどうかなのだ。
 子どものもつ純粋性や可能性は、私たち以上のものだ。そして、子どもは、私たち以上に変化しやすい存在であり、守ってあげなければならない存在だ。そんな子どもが私の傍にいてくれるのだ。純粋性を失い欠けている私であったり、変化を嫌って今を大切にしようとしている私であったりする・・・・そんな私の傍にいて、刺激をくれるのが子どもだ。その刺激のおかげで自分を高めることができるし、自分自身を認めることもできる。また、思いやりをもったり、自分の至らなさに気づいたりすることもできる。これも子どもが傍いいてくれるからだ。
 欠くことができない存在として子どもが見えたとき、どの子も大切にしたい大事な存在となる。大事な存在だからこそ、好きになれる。(人を好きになるのは、その人が自分にとって大切な存在だと感じるからだ。反対に、自分にとって邪魔な存在ならば、排斥しようとするか、避けようとする。これは、日常的に自然に私たちがしていることだ。)
 好きな子や嫌いな子がいては、どの子にも同じように接することはできない。だからこそ、教師ならば子どもが好きでなければならないのだ。
 どの子も私にとって大切な存在として認めることができれば、子どもは大切にされる。逆もしかり。本当に子どもが好きな自分なのか見つめてみたい。そして、ここで大事にしたいことは、好きというのは、理屈ではなく、あくまで感情ということだ。感じることなのだ。子どもの前で立つと自然と微笑んでしまうのは、子どもが好きだからだ。子どもがそんな先生を見れば、好かれていると感じる。子どもに教師の好きだという感情が伝わるのだ。子どもそのものの存在を認め、子どもが好きだと心から言えるそんな教師でありたい。

子どものために

2009-03-24 | 育児
 完璧な仕事をしているつもりでも、他から見ると至らないことがある。そんな時、任せた仕事だからと言って至らない点に気づいていながら助けないで見ている仲間では、寂しい。
 これには、相手との信頼関係が欠かせないが、見方を変えることで手助けすることができる。
 つまり、「任せて見守ることよりも、今、手助けをすることの方が子どものためになる。」と判断することで手助けができる。手助けすることが迷惑だととらえられないかと躊躇していて、事が済んでしまっては、手遅れになる。子どもにとってそれはよくないことだ。そして、子どものためになるとわかっていながら、動かないで見過ごしてしまうとすれば、子どもを大切にしている自分とは言えない。
 子どものためだから、我慢をすることもあるし、子どものためだから、差し出がましいことをするのかもしれない。助ける相手からどう思われようと、子どものためだからと思えば、動くことができる。
 私たちが協同して仕事ができるのもこのためだ。だから、「子どものために」と言い出せば、歩調がそろうことが増えてくる。「本当に子どものために動いているのだろうか。」という目で見てみると、必ずしもそうでない仕事をしていることがある。習慣というものは、怖いもので、「いつもしていることだから。」「みんなしていることだから。」と言って、子どもをないがしろにして仕事をしていることに気づかないでいることがある。そんな仕事をしているときに「子どものために」と気づかせてくれる仲間がいれば、その方がありがたい。仕事に対する考え方も深まってくる。互いにいい仕事をするために足りないことを補い合えるのも「子どものために」が合言葉になっている。
 卒業式を成功させようと、互いに補い合い、自分の持ち場を超えて助け合えるのも「子どものために」があるからだ。

今年度も残りわずか

2009-03-23 | 育児
 次年度に向けての準備は終わっただろうか。成績処理に追われて、なかなか次年度の事に目が向かないかもしれない。
 4月に入ってからで十分と思っていると、取り組みが遅くなる。大事なことは、今、構えを作っておくことだ。異動の対象となっていれば、なかなか次年度をイメージすることはなかなか難しいと思われるかもしれない。しかし、今年度の取り組みと同じことを繰り返しても自らの成長は期待できない。今の自分よりもちょっと素敵な自分を作るための準備は職場が違っても同じである。職場が変われば逆に変えやすいかもしれない。
 つまり、目先の自分ではなく、長い人生を考えたときの新しいページを作るための構えだ。今年度の自分の取り組みを振り返り、至らぬ点を見つけたり、より高い自分を作り出すための視点をもったりすることが大切になる。
 いろいろな立場にいる自分を見つめ直して見ると新たな視点が見つかる。
・教科指導をする自分
・生活指導をする自分
・組織に影響を与える自分
・子どもや保護者との関係を築く自分
・教師としての自分
・地域の一人としての自分
・家庭の一員としての自分
・人としての自分 等
 自分一人で自分を立たせているわけではない。周りには、多くの人が自分と関わり、今の自分を生かしてくれていることを考えることで、もっと自分を大切にし、自分を生かすことの重要さに気づくことがある。見つめ直しには、周りとの関係を意図的に考えることが必要だ。
 教師は人なり。自分の人間性を磨く努力をすることが、教師としての自分を高めていくことにもなる。そのために、自分のもっている顔を全部登場させて、自分を振り返ってみることが必要となる。
 人としてのあり方や人として生きていく上で大切にしたいことなどを明らかにしてみると、それぞれの顔がこれでいいのかが見えてくる。
 私たちは常に変化している。その変化を作り出すのは自分。どんな変化を望むのかは自分でしか決められない。人が作ってくれるわけではない。自分が周りに影響を及ぼしている大切な存在としての自分。価値ある自分としてこれからどうあったらよいのかを今決める。この時期だからこそできることだ。

別れに思う

2009-03-21 | 育児
 いよいよ卒業式も間近となってきた。この時期になると、「やり残したことはないだろうか。」「このまま別れてしまっていいのだろうか。」「最後に何か言っておくことはないだろうか。」などといろいろ頭に浮かんでくる。
 どんな別れ方をするのがよいのかわからないが、納得ができる別れ方などないだろう。今までの思い入れが強ければ強いほど、何か足りなさを感じるのが人情だろう。
 若い頃はこれからも関わりを作っておこうといろいろ考えていたが、それでは、子どもたちにとって不幸なことだと思うようになった。私たちは、新しい出会いの妨げになってはいけない。離れた子どもが一人立ちをしていく姿を見守るだけでいいのだ。
 私たち教師は、子どもたちには、前を向いて歩いてほしいと願っている。過去にしがみつくのではなく、未来に向けて歩み出してほしいと思っている。そして、新しい出会いがあれば、その出会いを通して自分を精一杯生かしてほしいと願っている。
 今までの関わりの中で、培ってきた力がきっと新しい出会いがあっても役立つはずである。そういうものを培ってきたはずである。その力があれば、過去はすべて今別れようとしている子どもの中にある。だから、いつでも過去を取り出すことができる。あえて振り向かなくてもいい。自然に過去の経験が力となって出てくるのだ。そういう力を私たちは培ってきたはずなのだ。
 逆に、教師との関わりが消えたら消えてしまうような力だとしたら、子どもに役立つ本当の力を身につけることができなかったということになる。しばらく経ってから子どもの情報をもらったとき、「あの時は、あれだけ、がんばっていたのにどうして?」と、もし思ったとしたら、それは、関わっていたときに役立つ本当の力を身につけさせていなかったと考えたい。
 目の前のことさえうまくいけばよいのが教育ではない。子どもが生きていく上で役立つ力をつけるのが教育だ。教師の都合で子どもを変えただけだとしたら、それは長続きはしない。新しい環境の中でも力を発揮できる力を身につけて、別れたのだ。だから、別れた後の子どもの姿に私たち教師が培った力が本物かどうかが試されることになる。だから、別れた後の子どもの姿には、関心をもっていたい。それは、人情とは別に自分の力量を見極めるためにもなる。子どもたちが活躍していてくれれば、嬉しいものだ。誇らしく思うのもどこかで、自分が関わったことへの思いを感じるからだ。
 別れは、私たち教師にとって試練なのだ。手放した後は、子どもたちに託すしかない。いつまでも傍にいて助けることもできない。
 「安心してがんばりなさい。先生から離れても頑張れる力はついているからね。」と子どもたちに声をかけてあげられるだろうか、振り返ってみたい。

強い衝撃

2009-03-20 | 育児
 一瞬にして雰囲気を変える強い衝撃が体育館に走る。子どもたちの浮いた気持ちを一括する厳しい声。普段とは違う緊張感が生まれた。
 子どもたちが行動を変えるきっかけにはいろいろある。強い衝撃を受けたときに行動が変わるのもその一つだ。叱られたときの強い衝撃は、かなり心に響く。
 自分の行動を振り返り、何が悪かったのか、どうして悪かったのか。何が欠けていたのか等自分の至らない考えや行動が今の姿を作り出していることに気づき、新たな自分作りに挑戦しようとする。
 そんな機会になれば、叱られたことは子どもにとってプラスとなる。しかし、叱られた内容を継続させることが本当は大切なことなのだ。叱られたその時の行動は変わるが、その後にも影響を与えるためには、叱られて変わった行動をよい行動だと認め、繰り返し褒め続けなければならない。そして、子ども自身がこの行動がよい行動だと言い切ることができたときに子どもから手を離すことができる。ここまでこだわるのは、叱ったことがそれほどねうちのあることなのだという思いが叱る側にあるからだ。
 日頃から叱れば動くという状況は、本当ならば避けたい。なぜならば、余程のことがないと叱らないという状況を作らないと、叱ることが強い衝撃にはならないからだ。いつも叱られていると叱られることに慣れてしまい、衝撃が弱くなる。これでは指導の効果は上がらない。たまに叱るから効果があるのだ。
 もし、叱らないと動かない状況を作り出していたとしたならば、それは、今までの指導の中に認め、励ましが少なく、子ども自身が自信をもって、行動を決めさせるまでの取り組みに甘さがあったと反省しなければならない。子ども自身が自分の行動に自信をもっていれば、教師が言わなくても子どもは勝手に行動するはずである。教師の目の色を伺って、行動しているから「先生、どうするの?」と尋ねるのは、自分の行動に自信がないためだ。聞かれたら「私を頼っていてくれる。」などと喜んで答えている場合ではない。自立を妨げている指導をしていたのだと強く反省をし、指導を見直してみたい。
 一年が終わろうとしている今、自立している子どもを本当に育ててきたのかどうかが問われている。

ゴールを意識して

2009-03-19 | 育児
 場当たり的な指導は、効果を上げないばかりか、すべきことを増やしていく。目的をもって計画的に事を進めていくことが体に染み込み自然とできていくことが先生の力量を上げていくということを痛感している。
 ある面、子育ては目の前の状況に合わせて臨機応変に事を進めていくことは大事であるが、どこを目指しているのかがはっきりしていないと共同で子育てはできない。
 つまり、ゴールが明確でないと、それぞれが勝手なゴールに向かって歩み出す。一緒に関わっているから、それは言わなくてもわかるだろうと思うのは大きな誤解だ。話してみるとよくわかるが、それぞれのゴールのイメージは全く違っている。それも、具体的になればなるほど違っている。だから、揃えるためには意思の疎通を欠くことはできない。
 共通理解、共通行動と言われるが、まさにこれは、ゴールのイメージを揃えて、一緒に子育てをしようとする構えになっている。
 このことは、子どもへの指導も同様になる。教師が進む方向をきちんと具体的に決めることで子どもも安心して進む方向に向くことができる。具体的にどの子にもわかるように示されていれば、いるほど進む方向が揃ってくる。そして、目指す方向からずれていなければ、歩みが遅くても、めざし方の違いはそれほど問題にはならない。試行錯誤でもゴールを目指すのであれば応援できる。ゴールを目指す道は1本だとは限らないし、ゴールまでの道のりは人によって違うと誰もが納得できる。
 だから、ゴールを意識することはとても重要なことだとわかる。この重要さが体に染みこむまで身に付いているのがベテランなのだろう。
 どんな些細な場面でも、必ずゴールを示してから事を進めることができる。そして、ゴールを明確にして取り組んでいる子どもかどうか見分けることもできる。また、集団をみて、その集団の目指すゴールがそろっているかどうかもわかる。わかるというより感じると言った方がよいかもしれない。ゴールを意識しながら、一緒に子育てができる仲間にしよう。

事前の構え作り

2009-03-18 | 育児
 子どもたちが段々育っていくと、落ち着きが増していく。それは、ただ、姿だけが変わったわけではない。意識の変化がその姿を支えている。
 例えば、集会で歌を歌うことがある。歌を歌い終わるとすぐに近くの子と話し出す姿は、年度当初はかなり多くみられるが、会を重ねるに従って、歌い終わっても静かに次の活動を待つことができる姿に変わっていく。それは、子どもたちが、会を重ねるうちに、その集会の全体の流れをつかんだり、どこでどのような動きをすることがねうちがあることなのかということを学んだりしながら、自分のあり方を見つめ、自分の姿を変えていったからだ。単に静かにしなさいという指示があるから静かになるわけではない。それは、歌の後の姿だけでなく、次の活動への移行に時間がかからなくなることからもよくわかる。ここまでの姿になっていると集会に対する意識ができたと考えることができる。
 何回も同じ内容が繰り返し行われる集会の場合は、指導も丁寧に行われていくので、どの子にもわかりやすく丁寧に指導して、会を通して意識を育てることができる。しかし、いつもそういう集会ばかりではない。一度で終わるというものもある。
 そんな場合は、特に、事前の構え作りが重要になる。つまり、事前に意識を作り上げ、その意識に合った行動をすることがねうちがあるということを子どもたちに教えておく。
<例>卒業式の練習
 卒業式に最高の姿を作り上げるための大事な練習の機会だ。この機会のために多くの先生や他学年の仲間が私たちをバックアップしてくださっている。そんな方々にどんな姿を見せたらいいだろう?卒業する私たちを誇りに思っていただけるように最高の姿を見せ、効率よく練習が進むように自分の力をどの場面でも十分発揮できるようにしたい。
 歩く姿、声の大きさ、立ったり座ったりする動きの早さ、聞く姿など見ていただく場面はたくさんある。どれ一つおろそかにはできない。この練習の時間中すべて見られているのだ。気を引き締め、自分に今の姿が最高の姿だろうかと問い続けてみよう。そして、練習が終わったときに、6年生と一緒に参加してよかったと思っていただけるようがんばろう。
 この構え作りをしてから練習に臨むだけで、かなり子どもたちの取り組みは変わってくる。教師自身も練習中の子どもの姿をこの構えの視点から見ることで、事後の指導を効果的に行うことができる。
 また、事後ばかりでなく、活動中に必ず構えを事前に示すことでがんばろうとする子も数多く現れるため、活動中によさを紹介し、子どものやる気を高め、意欲的な取り組みを引き出すこともできる。
 もしかすると、活動中に叱ることの多くの原因は、この構えを事前に作っていないことによるものではないだろうか。指導が後手後手に回らないように、構えを作ってから活動させたい。

子どもに愛情を注ぐ

2009-03-17 | 育児
 子どもに愛情を注ぐことは、当たり前だ。子どもとのやり取りや子どもとの触れ合いのように直接子どもと関わる場合は、子どもの反応もわかりやすく、愛情を注いだという手応えを感じる。しかし、間接的に子どもと関わる場合はなかなか手応えを感じにくく、つい手を抜いてしまうことがある。しかし、子どもへの影響は直接関わる事以上にその影響は大きい。
 それは、意識していない分、無意識にしてしまい、当たり前のようになってしまうからだ。
<例>
・子どもに代わるもの
 名前(名簿、氏名カード、貼ってある名前など)がみんなと揃っているか、汚れや傷はないか、扱い方よいかなどと、気配りをする。
・子どもが作ったもの
 教科等の作品の扱いを丁寧にする。効果のあるコメントや掲示をし、よい時期に返却する。
・子どもが使うもの
 子どものもちもの(筆記用具やノート、道具など)の扱われ方に気を配る。背景に保護者の愛情を感じながら、保護者になったつもりで扱う。
・子どもに影響を与えるもの
 環境としての教室(机、椅子の並びから綺麗な黒板、整ったロッカーなど)を整え、子どもが安心して過ごせる空間を作る。
・子どもに影響を与える人
 子どもの人間関係にアンテナを張り、よりよい関わりを深めるような情報の提供や支援を行う。
 反応が鈍い分だけじわじわと効果を上げてくるのがこれらの取り組みだ。直接子どもとの関係をうまく作れないという状況にある場合でも、こちらで勝負するすることができる。
 愛情には限りがない。気づかなければ、気づかずに過ぎてしまうのも愛情だ。その分、深い所まで入り込めるのも愛情だ。見えるか見えないかは、自分だけが知っている。子どもに「愛してるよ。」と伝えることではない。大事なことは、「私は、先生に愛されている。」と子どもが感じることであり、愛情を感じさせる手を打つことだ。

教師の指導力の評価

2009-03-16 | 育児
 学期末のこの時期になると子どもをじっくりと見つめ直すことが増えてくる。保護者に日頃の子どもの姿を的確に表現して示そうと努力する。その整理する事にかなりの時間が取られ、忙しい毎日を過ごしている。
 現在行われている絶対評価という観点から考えると、他と比較することなくある視点からみてそのでき具合を学級全体で見たとき、学習意欲の高い学級であれば、全体的に基準よりも高い子どもが増え、逆に学習意欲の低い学級であれば、全体的に基準よりも低い子どもが増える。これは、技能面であっても同様だ。ここに教師の力量が現れてくる。力のある先生の学級だと学習意欲も高まっていく。他の学級と共通の基準であれば、学級差は歴然と現れてくる。ここまで考えていると、ちらっと外部による教師評価が気になってきた。
 これが、絶対評価の厳しいところである。このような教師の指導力の評価は外にはあまり出てこないが、今後外部評価が厳しくなっていくと、これらの姿も教師の力量を評価する窓として見られるようになっていく。
 ただ、実際の現場には、1年目の教師もいれば、ベテランの教師もおり、それぞれの力量にはすでに差があり、これを比較して力量差としてとらえられたら大変なことになる。あくまでも教師の指導力の評価は「前と比べてどの程度伸びたのか」という形成的評価でありたい。様々な先生がいて、学校が成り立っているのだ。組織として子どもたちを育てている。それぞれの先生の持ち味を生かしながら、また補いながら子どもを育てている。教師評価は教師一人一人がどの程度の力をもっているかという個別の評価で見るのではなく、学校全体としての評価で臨みたい。教師評価は、個々の教師の問題というよりも学校全体の経営に関わることである。教師一人一人を生かすのも殺すも経営する側の考え方にかかっている。一人一人の教師は、自分のもつ力が十分発揮できるように精一杯努力するしかない。評価される側になっても生き生きと教師が活躍できるためには、個別の能力を評価することも大事であるが、それよりも総力としての評価が重要な気がする。私自身としては、学校という組織の歯車の一つなって精一杯できる限りの努力をしたい。

すべてが情熱

2009-03-15 | 育児
 ここ3日間、体調を崩し、寝込んでいた。熱、嘔吐、下痢、咳ともう体はぼろぼろ。しかし、体調が悪い中でも頭は常に働いていた。次年度に向けてしたいことの構想が少しずつ具体的に明らかになっていく。
 こんな風に自分を動かす原動力は、いったい何だろう。
それは、情熱だ。夢を実現したいという強い思い以外に浮かんでこない。こんな事ができたら、もっと幸せになれるだろうなあと思うと次から次へとすることが浮かんでくる。
 好きなことをしていると時間が経つのを忘れてしまう。夢中になっていると怪我したことにも気づかないでいる。一度に多くのことに焦点を当てることができないのが私たち人間。体調を崩している間、何もすることができない中で夢の実現だけを考えていた。ここに焦点を当てさせるのエネルギーが情熱だ。「体調がよくなったら、これをしよう。あれをしよう。」と浮かんでくると、何だか嬉しくなる。胸の当たりが熱くなる。まさにエネルギーが働いている感じだ。
 夢の実現には、まだまだ人を巻き込まなくてはならない。そのための準備が必要だと考えていた。何ができるのだろうか考えているとふとある場面の映像が映画のように浮かんでくる。協力を得ている映像が浮かぶのだ。これにも、知らぬうちにエネルギーが働いている。
 そして、早く体調が戻ってこれらのすべきことができるようにエネルギーが働いているようにも感じる。頭はすっきりしている。熱も下がってきた。いよいよ始動の用意ができた。きっとこの3日間は、熟考のための3日間だったに違いない。そう思うとまたまた情熱が沸いてきた。

指名カードの活用

2009-03-12 | 育児
 授業中に子どもが発言した時に、発表した内容をまとめて板書することは日常的に行っている。これをその子の考えとして大切に扱いたいという思いから、発言した内容とともに指名カードを板書に添付することがある。この指名カードの添付についてはいろいろ議論があるが、私はその子を生かしたいという教師の願いの表れとして大切にしたい。
 指名カードを使い続けると子どもたちの反応の変化がよくわかる。
4月当初、発表して自分の名前を黒板に貼ってもらいたという思いで一生懸命に発表する子が多くいる。そして、教師がどの子も位置づけたいと思えば思うほど、発表できない子への周りの風当たりは強くなる。発表できない子にとってはかなりのプレッシャーとなる。ここが、教師の力量が問われるところである。発表させることを目的に指名カードを使っていると強引に「発表しなさい。」と言っているように子どもに伝わってしまう。
 そうではなくて、「あなたの事が心配なんだよ。」、「どんな考えをしているのかわからないよ。」、「あなたの事が知りたいよ。」という気持ちを伝えながら、発言しなくても「○○さんは、どれかな?」などと選択肢を用意して選ばせ、板書に位置づけたり、「どの考えに近いか手を挙げて教えてね。」などと挙手して決めた時に、板書に位置づけたりする。
 そうすると、発表がうまくできるとかできないではなく、授業に参加していることが大事だという思いになり、黒板の中に自分の名前があることに誇りや自信がもているようになってくる。そのうちに、貼り忘れなどがあると、「先生、私の名前、貼って!」と言う子どもも出てくる。こうなれば、しめたもの。授業に参加することの楽しさがわかってきた証拠である。
 そして、そのうちに、発表するときに「私は○○さんと同じで・・。」などと名前を使って発表する子が増えてくる。子どもたちの中で仲間を大切にする構えが出てくるのだ。
 こうなれば、次は発言内容の質に着目させることができるようになる。
「今日の勉強が深めたのは、誰の発言かな?」とか「今日の勉強で大事なのは誰の考えかな?」とか「自分の考えが変わったのは誰のおかげなのかな?」などと子どもの発言した内容の質を話題にする。すると、名前を呼ばれた子どもは得意になっていく。益々自信をもつことになる。また、「私もあんな姿になりたい。」と憧れをもつ子も出てくる。
 できるだけ、仲間から認められる発言をしたいという思いから、発言の内容を考える子も増えてくる。
 この頃になると、黒板に自分の名前があるのは当然であり、自分の考えが変わったときに、「先生、私、考えが変わったので、カードの位置を変えて!」などと言う子も出てくる。
 子どもたちが板書の中で自分を動かし、楽しむ姿が出てくれば、もう授業は子どものものになる。教師が強引に進める授業はできなくなる。指名カードを4月から使い続けると3学期には、こんな姿が見られるようになる。