ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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二学期に向けて

2009-08-31 | 育児
 子どもたちが楽しみにしている2学期が始まる。どの子もそれなりに期待している新しい学期だ。
 ここで、いつも問題になるのが、夏休みとのかかわりだ。夏休みの課題が不十分だからといって、夏休みの取り組みを徹底にさせ、いつまでも前に進めない状態を作ることは子どももやる気を失う。これからがんばろうとする子どもたちに何を大切にして対応すればよいのだろう。
・夏休みのがんばりを2学期につなぐ。
・夏休みの取り組みを限定的に扱う。
・夏休みの至らなさは、2学期で挽回する。
・子どものやる気を受け入れる。
・2学期に向かう子どもたちの願いや思いを生かす。
 子どもだけを責めたくはない。夏休みの課題が夏休み中に終われないことが予想できる教師であれば、事前に手を打つことができる。どの子もできる内容だと思ってもひょっとしたらと心配する子への夏休み中の助言や支援ができるはずだ。それをしてきただろうか。また、与えた課題が本当にどの家庭にも適当な課題であったかどうかを確かめる機会を作ることも可能である。最近は夏休み中に登校日を設けている学校も増えている。夏休みの課題を夏休み中に点検ができるようにしているのだ。まだまだ、子どもたちのためにできることがある。
 それをしないで子どもだけを責めるとしたら、教師の傲慢さが見え隠れする。自分の願いだけがすべてではない。あくまでも家庭にお任せした夏休みだ。それぞれの家庭での願いが十分生かされる夏休みになった方が本当は、子どものためになる。学校の課題に縛られて、家庭でしたいことが十分できなかったとしたら、これは土足で家に入るのと同じことになる。家庭の教育を尊重しながらも、子どもの学習環境を整えていくという立場で協力を願うという姿勢でいたい。だから、無理をして夏休みの課題に取り組ませることに力を注ぎすぎないようにしたい。2学期に向けて、学級全員が一つにまとまって活動を始めた方がどれ程学級のためになるかわからない。この時期を夏休みの課題の処理について見直しをする機会にしたい。

努力が報われる時

2009-08-30 | 育児
 乗り越えるべき何かがあるとき、努力をして乗り越えようと頑張ることは多いと思う。しかし、その努力がなかなか認められないと「努力してもだめかもしれない。」「無駄な努力かもしれない。」等と気持ちが揺らいでしまうことがある。
 簡単に乗り越えられない事ほどその努力は、大変なものになる。
そういう時ほど、認められたいと思う気持ちは強くなる。「これだけ頑張っているのだから、認められてもいいはずだ。」と思う。
 この時、努力をどのように認められるかによって、その努力のし甲斐が変わってくる。
・努力するあなたが素晴らしい。
・努力しようとするあなたの考え方が素晴らしい。
・努力する力をもっている事が素晴らしい。
・努力することが素晴らしい。
・努力する時間があることが素晴らしい。
 さて、どの認め方が心をとらえるだろう。
自分自身を心から認めてもらえると思うか、それとも小手先のことを認められるかでは、「よし、頑張ろう。」につながるときとつながらないときがある。「この程度しか、認められないのか。」となっては大変だ。
 相手が何を求めているのか、何を認めてもらいたいと思っているのかということを会話の中から探る努力をしないと「努力に見合った認め」にはならない。相手の気持ちに合って認められたとき「頑張ってよかった。」という気持ちになる。
 子どもは教師の認めが本当に心から思っていることかどうかを敏感にキャッチする。これは真剣勝負だ。言葉を選び、本気で子どもに頑張りを認める姿勢が、子どもにやる気を促すことになる。子どもに負けてはいられない。子どもとじっくり話をし、子どもをつかむ努力をしたい。

壁を乗り越える

2009-08-29 | 育児
 新しいことに挑戦しなければならない時に、ちょっと待てよと止める自分はないだろうか。自信がなかったり、不安であったり、面倒だと感じたりする時には、挑戦しようとする自分を止めてしまう。
 新しいことは、いつも自分に取っては未知の体験となる。その未知の体験を乗り越えるにはそれだけのエネルギーが必要となる。誰でも知らないことやわからないことは避けたいと思う。それが壁になっている。
 新しいことに新たな意味づけをするとエネルギーが沸き、壁を乗り越えることができることがある。
 これには、新しいことと自分とをつなぐことから始まる。つまり、「自分にとって大切なことだ。」と感じると動きやすくなる。
 これは、夢を語ることになる。新しいことに挑戦することが将来の自分にとってプラスとなるからだ。
 見方を変えるだけで、そんな思いが生まれてくる。今の見方をちょっと視点を変えてみるだけで、違ってくる。
<例>
・新しい役を引き受けなければならない。
 →今よりもっと素敵な自分になりそうだ。
 →役をすることで新たな視点からものが見えそうだ。
 →役ができる自分なのか試されている。
 →役をすることで人間関係が広がる。
・人から仕事を頼まれた。
 →人の役に立つ自分なのだ。
 →仕事に対する見方や考え方が変わりそうだ。
 →その仕事ができる自分だと信じてもらった。
 →その人との関係を大切にする自分かどうか試されている。
 →時間をうまく使える自分かどうか試されている。
・新たな提案を要求された。
 →提案できる自分なのか試されている。 
 →期待に答えることで新たな見方が身に付く。
 →提案できる能力があると考えてもらった。
 →託されるだけの信頼関係がある。
 こんな可能性があっても、「ちょっと、一人では・・・。」と引いてしまうことがある。ちょっと手助けを求めることもある。自分にできるかどうかは別として、まずは、壁を乗り越える自分になろうとするところに自分を置いてみるとちょっと勇気が出てくる。

願いが大事

2009-08-28 | 育児
 いよいよ2学期が近づいてきた。日々の仕事に追われることなく、ゆとりをもって過ごしたいと誰もが考える。
 このゆとりはどのようにすると生まれるのだろう。時間的なゆとりもさることながら、精神的なゆとりが大事になる。
1つは、見通しをもつことだ。
 これは、準備不足があると、不足したことに振り回されて、すべきことができない焦りを感じてしまい、思うようにできないことが多くなる。そのために仕事に追われることになる。これは、休み中に準備をしておくことで解消できる。
 もう1つは、願いを立ち返ることだ。
 これは、事を進めていくときの判断の材料になる。事は計画通りに行かないことが多い。事前に考えた以上にいろいろな仕事が生まれてくることはいくらでもある。その時に、どの仕事をすべきか、それともしなくてもよいのか、また、どの順序ですべきなのか等迷うことはたくさん出てくる。その時の判断の材料が願いになる。願いが叶うことならば、した方がよいと判断できるし、どれをすべきかも判断できる。そして、願いとズレてくるようならば、後に回したり、しない方がよいと判断したりすることができる。
 この2つ目は、事を始めるというよりも事をしている時のことだから、動いているうちに忘れてしまうことが多い。いつもこの願いに立ち返る癖を付けておかないとすぐに忘れてしまう。夢中になって事を進めていると余計に忘れがちになる。願いの実現のためにいつも事を進めているのだという強い思いがないと忘れてしまう。
 願いをいつも意識するためには、常に振り返りをする。「これでよいのか。」「何のためにしているのか。」「これで願いが叶うのか。」等自問自答することがそれだ。
 生活科の授業で振り返りを大切にするのもそのためだ。常に目の前のすることに振り回されてしまうのが私たちなのだ。願いに立ち返る癖は、なかなかつかない。動いていると誰でも陥りやすい事なのだ。だから、小さいうちから繰り返し、何度も経験し、癖にする必要がある。
 今の自分に願いに立ち返る癖はついているのだろうか。
これは1つの仕事に当てはまることではない。すべての自分の行動に当てはめることができる。
・職業人としての自分を見つめる時
・社会人としての自分を見つめる時
・家庭人としての自分を見つめる時
 自分がもっているいろいろな顔について振り返る時に使える。その顔さえ忘れてしまうことが、願いが叶わないことの原因になっているのかもしれない。このように考えるとゆとりをもつためには、願いを大事にすることから生まれるようにも思えてくる。

共感する

2009-08-27 | 育児
 同じ思いになるってわくわくしたり、どきどきしたり、胸が熱くなったりすることがある。嬉しいことばかりではなく、悲しいことでも同じだ。
 この感覚は、相手を深く理解する上でとても大切にしたいものだ。また、そういう感覚がもてる自分をすごいと褒めてやりたい。
 「助け合おう。」「力になりたい。」「何かしてあげたい。」などと思う時は、この感覚に動かされている。
 年齢を重ねると体験や経験も多くなる。その分、いろいろな場面でいろいろ感じてきている。だから、人の気持ちをわかって、感じることが多くなる。そのため、今という時間だけでなく将来起こるであろうことへも思いを馳せ、感じることができる。
 これが躾にも役立っている。こんな感じ方をしてほしいとか、こんな感じ方になるはずだと言う思いが、子どもの行動への働きかけとなっている。
 「美しさを感じてほしい。」・・・・整理整頓、掃除等
 「善や正や礼を感じてほしい。」・・マナー、ルール、礼儀等
 「仁や義を感じてほしい。」・・・・人との関わり方等
 「知を創を感じてほしい。」・・・・習い事、技能、学習等
 「健やさを感じてほしい。」・・・・運動、食事、生活のリズム等
 「徳を感じてほしい。」・・・・・・奉仕、協働等
 「信を感じてほしい。」・・・・・・自分、家族、友人、地域の人等
 逆に、子どもに嫌な思いを感じさせたくないという気持ちから、子どもへの口数が多くなることがある。
 子どもを躾るということは、目の前の子どもではなく、近い未来の子どもを見ていることになる。
 未来の自分が見えない子どもだから、今の自分で勝負したがる。そのため、躾る側の思いとズレが生じて、トラブルとなる。
 今の自分を否定しているわけではない。しかし、今しか見えない以上否定されていると感じてしまうのが子どもだ。この解決のためには、今の自分から未来の自分へと橋渡しが必要となる。
 今していることを認め、その今の自分に何を付け加えると未来の自分になるのか。ここが知恵の出し所。子どもの今をじっくりと見つめないと橋渡しはできない。
 私たちが既に通ってきた道だから、同じようにその道を歩ませることになる。ゴールは道を歩いた先にある。いきなりゴールを見せられてもどのように歩いて行けばよいのか見えなければ迷ってしまう。
 子どもへの言葉かけは、これでいいだろうか。きちんと歩む道にそっているだろうか。(ここには、失敗も含まれる。失敗しなくて学んだ私たちだろうか。それとも失敗して学んだ私たちだろうか。できなかった自分だからと言って子どもに無理を押しつけていることはないだろうか。)これは、分からせることではない。一緒に歩みを作ることだ。焦らずじっくりと子どもに寄り添っていきたい。ここには、今の子どもへの共感がある。

気を配る

2009-08-26 | 育児
 「きっとこれをすると喜ぶだろうな。」と気を配って動くことができる人を見るととても温かくなる。その動きには、感謝の気持ちも沸いてくる。
 思いやりとお節介とは紙一重であるが、どこが違うのだろう。
 どちらも相手を思う気持ちはきっとある。しかし、一方は喜ばれ、一方はうっとうしがられる。
 はっきりしているのは、受け取る側の気持ちの違いだ。相手の受け取り方が違うということは、受け止める側の反応を見ると思いやりになるのか、お節介になるかが分かるということだ。
 喜んでいる時には、顔には笑顔が見えたり、体に緊張感がなく緩んでいたり、優しい言葉が返ってきたりする。逆に、うっとうしいと思っていると、ぎこちない笑顔であったり、言葉に刺があったり、体に緊張感があり、何となく壁を感じたりする。
 この相手の表情を読み取る観察力の差が思いやりとお節介の違いとなるのではないだろうか。
 相手の表情を読み取ることなく、自分の思いだけで動いてしまうとお節介となることがある。相手の表情が硬く、喜んでいないと思えば、途中でも行動を変えることができるのが思いやりにつながる。この場合は、押しつけないという構えをもっているから相手が見える。
 子どもたちに「思いやりのある人になってほしい。」と教師であれば、誰もが思う。しかし、具体的にどんなことをすれば、そんな子が育つのかは明らかになっていない。育てる側の感覚で捉えていることが多い。
 最近では、人と関わろうとしない人が多くなったため、この「相手の表情を読み取ること」がうまくできない人が多いように感じる。相手から悪く思われたくなくて、関わろうとしない人も増えている。そして、対人関係がうまくできなくて心に病気をもつ人も増えている。
 だから、幼いうちに人と関わる体験を十分させ、人との関わり方を学ぶことはとても大切なことだ。
 しかし、意図的に関わる場を作らない限り、子どもの力だけでは限界がある。育てる側が場を設定しないとできないことが多い。学校生活では、ペアやグループ、学級と色々な集団を使って活動する事が多い。自分の好みとは無関係に人と関わる場が用意されている。これは、自分とは違う感じ方をする相手の存在を知るよい機会であり、これをうまく利用することで思いやりのある子を育てることができる。
 相手の気持ちを知ったり、自分の気持ちを伝え合ったりする中で相手が喜ぶ姿に出会う体験をする。この体験を繰り返し行う中で、思いやりやお節介を体験する。
 「喜んでいるよ。」「やってよかったね。」などという言葉や「有り難うね。」「嬉しいよ。」などと感謝の言葉を伝えることで思いやりを体で感じることができる。また、相手の表情を見て、「ここはちょっと静かに見ていようね。」「今、一人にしておいた方がよさそうだよ。」などと言葉かけをしたり、「やりすぎると嫌がっているでしょ。」などと相手の表情を見させたりし、控えることを教えることでお節介にならない対応をつかませることができる。
 この場合の思いやりやお節介の判断や指導は、教師が持ち合わせている感覚で磨かれることになる。ということは、思いやりのある子を育てるには、教師自身に思いやりの心が育っていないと育たないということになる。思いやりのある子を育てるためには、自分を磨くしかないのだ。

行くか来るのを待つか

2009-08-22 | 育児
 子どもが活動をしている時に教師が自ら子どもの側に行くか、それとも子どもが来るのを待つかによって子どもとの距離が変わる。
 困ったときに自ら動く子は、放っておいても教師の側に来る。しかし、行こうと思っていても教師の側に行けない子がいる。教師との信頼関係が十分築けていない子であったり、困ったことを何とか自分で解決しようと努力し続けている子であったり、理由はいろいろある。こんな子どもたちは、いくら時間をかけても教師の側に来ることはない。
 どの子も困らずに安心して活動できるために、困っている子を早く見つけ、安心させる。待っていては、そんな子どもを発見することもできないし、手助けすることもできない。
 「大丈夫」「困っていることはない?」と声をかけるだけでも、安心する。この時、「私は守られているんだ。」と子どもが感じたとき、教師としての役割が一つ終わる。安心した後にどんな支えをするかは、教師の力量によって差が出てくる。しかし、これも繰り返し子どもと関わることで、伸びていく。今、十分な支えができないからと言って諦めることはない。常に教師として成長している自分だ。失敗を何度も繰り返しながら成長している自分だ。子どもに安心を与えようと思い続ける限り、必ず力はついていく。焦ることはない。ただ、子どもの側に行くだけでいい。

立場を変えて

2009-08-20 | 育児
 いつも自分が立っている立場は、担任の立場。しかし、立場を別の立場に変えてみると見えるものが違ってくる。
 子どもの立場に立つ。
 親の立場に立つ。
 学年主任の立場に立つ。
 校長の立場に立つ。
 地域の人の立場に立つ。
立場が変わると見えてくるものも違ってくる。
 今、自分がしていることは、これでいいのだろうか。少し配慮しなくてはならないことはないだろうか。そんな思いをもつことができる。
 それでは、いつその立場に立てばよいのだろう。常にいろいろな人の立場に立とうとすることは、なかなか難しいものだ。それならば、どの立場に立っても大事にしたいことを考えてはどうだろう。それならば、取り組みやすい。
 子どもをよりよくしたいと誰もが思っている。これならどうだろう。そう考えると、今していることが本当に子どもをよくすることなのか自分に問うことになる。
 「将来にわたって大切にしたいことなのか。」それとも、「今だから大切にしたいことなのか。」・・・立場ではなく、子どもの人生を考える立場が大切なことが見えてくる。教師の都合でしていることはないだろうか。教師の思いこみでしていることはないだろうか。本当に子どもを大切にしている立場で考えてしていることなのだろうか。それも、個々の子どもにとって今の状態が違うにも関わらず、一律にしていることが本当によいのだろうか。深く考えれば考える程、今の自分のしていることに問題を見つけることができる。もっと子どもを見つめ、自分のあり方を考えることはとても大切なことだと気が付く。

見守られている自分を感じる

2009-08-18 | 育児
 「あなたは、多くの人に見守られています。」と言われた時、そんなはずはないと感じるだろうか、それともその通りだと感じるだろうか。どちらだろう。
 子どもは、守られている分当たり前となって感じることは少ないかもしれない。ただ、最近は登下校での見守りをする地域の方々がいるため見守られていると感じている子どももいるかもしれない。しかし、「私を見守っていてくれる。」という感覚があるかどうかは疑問だ。親や教師の愛は、当然という感じだから見守られていると思うことは少ないかもしれない。気づく場面がある時に初め気づくと言った感じだ。
 それよりも大人である我々はどうだろう。見守る側に立っている自分は見ているが、見守られている側で自分を見ることは少ない。
 理屈としては、わかっていても実際に見守られていると感じているだろう。
 事がうまくいく時には、必ず応援があったと、あとから感じることがある。しかし、いつも見守っていてくれるという感覚はないかもしれない。いざというときに支えになってもらえる人はいても、いつも見守っていてくれる人は、肉親ぐらいだろうと思う。
 しかし、何かに守られている感覚を感じることはないだろうか。また、何となく自分を生かしてくれていると感じることはないだろうか。そして、自分が生きやすい方向に導かれていくという感覚はないだろうか。
 何かに包まれていて、安心して任せられる見えない何かが働いていると感じることはないだろうか。それを感じるとき、ものごとには肯定的な意図があると思うことができる。これは、深いところでつながっている愛なのかもしれない。
 子どもたちへ、同僚へ、家族へ、地域の人々へと自分が振りまく愛が自分にも降り注がれているのかもしれない。この不思議な感覚がある限り、夢は必ず叶うと信じて生きていける。

残り2週間

2009-08-17 | 育児
 早いもので夏休みも残すところ2週間余りとなってきた。少しずつ助走を始める時期だ。夏休みに得たものを形にして、2学期からの自分に生かしてみたい。
 これまでの夏休みの生活は、決して休養だけではない。必ず得たものがある。それを子どもたちに還元するようにする。無理にでもつなぐことが力となる。
 一番わかりやすいのが、自分の感覚だ。
・焦りがなく、ゆったりとして生活している自分に落ち着きを感じる。
・少し先を見ながら構想を練っている自分に熱いものを感じる。
・子どもと一緒にいたいと思う自分にキュンと切なさを感じる。
・子どもと出会った時に何をしようかと考える自分に前向きさを感じる。
 様々な感じを持ち出してみると子どもたちと早く会いたくなってくる。
子どもたちもきっと同じ思いでいてくれるはずだ。
・友達との再会を楽しみにしている。
・新しい学習を楽しみにしている。
・自分の頑張りを認めてもらう機会を楽しみにしている。
 こんな子どもたちと出会うためにも、そろそろ2学期の準備を始めたい。
 夏休みの頑張りを認め励ますための準備
 2学期の学習内容をわかりやすくするための準備
 2学期の学級作りのための準備
 早く学校生活のリズムをつかむための準備
 2学期初めに子どもに話す内容の準備
 2学期の評価のための準備
 職員との関係を改善するための準備
 まだまだありそうだ。ちょっと1学期とは違う出会いを作りたい。
そこで、笑顔一杯の自分、相手を思いやる自分、時間を守る自分、どんな自分でもいい。何か1つ新しい自分作りに挑戦してみよう。

挑戦に失敗はつきもの

2009-08-15 | 育児
 新しいことに挑戦する時には、不安は付きものだ。経験がないことが一番の原因である。しかし、よく考えてみると不安があるから、その不安を取り除くためにいろいろな努力をする。不安を解消するためにどれだけきめ細かく準備をするかが、失敗と成功の分かれ道となる。準備不足が失敗につながることは間違いない。大人である我々は、経験が豊富であるため、ある程度予測ができる。しかし、子どもは、未経験が多く。我々以上に新しいことに挑戦することには、不安を感じる。
 挑戦しようと決めた時に、十分な支えをすることが子どもの取り組みの後の自信につながる。「失敗も経験のうちだ。だから、子どもに任せることも必要だ。」と言って任せてしまうのは、賭けである。教育者である以上は、これは避けたい。子どもの失敗にも責任を取るだけの構えをもちたい。自分事としたとき、これ以上の失敗はさせられないという判断をもっていることが大切だ。失敗が次の成功につながるための失敗となり、立ち上がることのできる失敗にするか、立ち上がることができない程、挫折させてしまうかは、この失敗に関わる見通しをどれだけ持ち合わせているかになる。失敗させないで、すべてフォローすること以上に難しい。子どもの心の問題をもしっかりとつかんでいなければ、取り返しのつかない失敗につながることも予想される。
 ここには、深い愛情が必要となる。それが、失敗した後のフォローに生きてくる。フォローがあれば、「だって先生が言ったから。」などという言葉は返ってこない。自分の何が失敗につながったのかを見つさせることができる。「どのように考えればよかったのだろう。」「どんな自分だったらよかったのだろう。」などと一緒になって考えられるように導く。失敗をしたときの子どもの中に次の成功につながる生き方や考え方を見つけ出そうとするから、子どもは逃げない。自分にもう少し、こんな力があったらよかったと言えるのは、可能性を見つけ出したからだ。子ども自身が可能性を見つけ出せるまで子どもの側にいて付き合うことで子どもも安心できる。考えが及ばないときには、的確な指摘ができる。まさに愛情がなせる技だ。子どもを信じて最後まで見捨てないで付き合う姿勢が子ども自身に自信と誇りをもたせることになる。
 失敗したときに「だから言ったでしょ。」「先生の言う通りにしないからいけないのよ。」などと突き放していては、子どもは見捨てられた思いしかもてない。自分の中には成功する芽がないとしか考えられなくなってしまう。これは教育ではない。
 子どもが失敗したときこそ、力になれる教師が子どもから信頼される教師だ。辛さをわかる教師だからこそ側にいたくなる。そんな心ある教師でいたい。

子どもが育つ地域

2009-08-11 | 育児
 夏休み中は、学校に頼って子どもを育てることはできない。地域で子どもを育てる構えを地域がもっていないと不満ばかりが残る。
「学校で、どんな指導をしているのだ。」「もっと地域の活動に先生も参加してほしい。」などの声が地域から出るのでは、地域が育っていないからだ。
 開放感で一杯の子どもたち。学校での顔とは違う。どの子も安心して生活できるから学校に縛られない自由な雰囲気を醸し出している。しかし、その中にも一緒に生活するために必要なルールがあることは、当たり前という感覚を身につけなければならない。それを意識している人がどれ程地域にいるのかが、まずは大事になる。学校を頼りにしているうちは、なかなかその芽が育たない。自らの取り組みでできることから始める構えが必要だ。学校に責任を転嫁しても子どもは育たない。
 また、学校は常に変化をしている。職員の出入りがある。少しずつ学校の雰囲気も変わっていく。そんな不安定な学校に頼ることが本当に地域の子どもを育てる上で重要なのだろうかと問うてみる。やっぱり変化のすくない地域の人が時間をかけてじっくりと子どもを見ていく必要がある。
・行事をするときに、子どもを守って育てる視点があるだろうか。
・子どもを守って育てる組織になっているだろうか。
・子どもを守って育てる人を育てる啓発活動はしているだろうか。
などとまだまだ不十分な点が一杯ある。どうしても、行事をこなすことで精一杯になっている。それぞれの立場でできることがある。これをまとめたらとても素晴らしい力になるはずだ。
 子どもを地域の宝だ。学校生活よりも長い年月を送っている。ビジョンを掲げ、地域の一人として子どもを見守る人をどんどん増やしたい。

生き方につながる行動

2009-08-10 | 育児
 子どもと同様に、私たちも一つの事にのめり込むと他が見えなくなってしまう。その一つの事でも、人によって見えるものが違う。
 よくそこまで気づくなあと思うくらいに気を配り、支えることができる人がいる。これは経験の違いなのだろうと思うが、感心してしまう。
そして、当たり前のように平気でやってのけるその人がうらやましく思う。
 しかし、憧れに終わらせないで人のために何かできることはないかと自分でも探してみる。同じ気持ちでいようと構えを作ると不思議と自分なりに見えるものがあることに気づく。
 これは、自分にしか気づけないことだと思うとちょっと自信にもつながる。それで、周りが変化すると一層自信を深めることになる。
 どんなことでもよりよく生きたいと思う自分があれば、それができる可能性が広がっていく。大人になったから、もうこれでいいと自分を決めてしまうにはもったいない。長い人生常に前向きに生きていたい。その方が楽しいことがどんどん増えてくる。失敗を恐れるのは、自分にではない。人の目を気にしたり、人の言葉に踊らされたりしている自分がある。もっと自分を大切にし、自分らしくよりよいものを見つけようとすれば、どれほど年をとっていようが関係はない。青春は年齢ではない。生き方だ。子どもたちにも伝えてやりたい。

自分色がつく

2009-08-06 | 育児
 自分でしたいことを自分でしているうちは楽だ。したいことを人にしてもらうことは、自分でしているようには行かない。
・私のことを理解しなければ、動けない。
・私とのつながりを感じていなければ、動けない。
・したいことのねうちを感じていなければ動けない。
 しなさいと言ってもその気がなければ、相手はしない。
 例えば、挨拶だ。ラジオ体操で出会う子どもたちに「おはよう」と挨拶をしても必ずしも、相手から帰ってくるとは限らない。いつも子どもたちの前に立って指導をしているから、知らないはずはないし、関わりがないわけではない。私と挨拶をする対象としてのつながりを感じていないのだろう。こちらから話しかけると、ちょっと違う。次の時には、声を出さなくても会釈をする。関心を向けてくれるからだろう。笑顔で言葉をかける。感謝の気持ちが自然とわいてくる。
 つながりができるだけで、動きが違う。低学年の子どもの中には、自分から挨拶をし、話しかけてくる子がいる。親しみをもち、自分のことを一生懸命に話す。自分をわかってもらいたいという気持ちが伝わってくる。笑顔で話を聞き、対応をする。満足をして帰っていく。挨拶のねうちは、挨拶をする、しないではない。挨拶を交わした後のコミュニケーションが大事なのだ。話をするのが楽しいから挨拶も平気でできてしまう。挨拶のねうちを感じているからだ。これは理屈ではない。ただ、感じるのだ。
 互いに関わりを深めることで心地よくなることができれば、益々会話が弾んでくる。これは、誰とというわけではない。安心できる対象となれば、相手が誰であろうと関係がない。子どもが幼いうちほど、感覚が優れている。この幼いうちにこそ感覚を磨いてやりたい。これは、キャンバスに色を塗ることに似ている。真っ白はうちに素敵な色をつけてやりたい。すでに身につけた色を塗り替えることはかなりの苦労だ。鉄は熱いうちに打てとも言われる。作り出すときが肝心なのだ。

5年後を見る

2009-08-03 | 育児
 子どもたちを育てるときに、どこを見ているだろう。目の前の子どもをなんとかしたいという思いは誰もがもつ。しかし、その子どもの5年後を見て何とかしたいと思うことはあるだろうか。5年という歳月は、かなり現実に近い。しかし、ちょっと先で見ようとしても少し考えないと予想ができない。低学年の子どもであれば、高学年の姿、高学年であれば、中学生や高校生となる。そこを見て子どもを育てるとなるとちょっと考えることができる。私たち大人以上に子どもの周りで起きる環境の変化は大きい。この時代の変化に生きることが子どもにとって大変なことは、かなり創造できる。その時に生きていける子どもに育てるには、今何が必要なのだろうと考えると、今していることを見直すことができる。ひょっとするとこのままではいけないと感じることがある。そして、自分の取り組み方を変えなければならないと思うこともある。
 このことは、子どもにも同じことが言える。子どもたちに夢をもてというよりも、5年後を想像しようと話す方が現実的になる。どんな自分を想像するだろう。一度聞いてみたい。
 教えてばかりいられない。自分の力で動かなければならない。そんな子どもを育てなければ、5年後には生きていけない。まして担任から外れ、別の担任が子どもを育てている。あの1年間は何だったと子どもが振り返ったときに、子どもの血や肉になっているだけのことをしてやれただろうか。自分の都合で、子どもを育てているとしたら、子どもがかわいそうだ。教科の本質だけではない。学び方や生活の仕方も同じだ。事の本質に迫る教育を心掛けないといけない。骨になるものをきちんと伝えていかないと子どもは迷ってしまう。
 小中一貫教育の動きが加速的に進んでいる。中一ギャップといわれる変化に対応できない子どもたちを作りだしたのは、教師が子どもたちに本当に大切なこと、必要なことをきちんとその時々に子どもたちに伝えていないことが原因ではないだろうか。問題を作り出しては、その問題の解決に当たるのもよいが、問題が起こらないように必要な力をつけてやることが先だと思う。目の前の子どもだけを見ていると本質を見失うかもしれない。5年先を見据えることは、事の本質を見失わない自分を見つめることにもなりそうだ。
 自分への問いかけも同じだ。5年後には、次の学校で活躍している自分、立場が変わっている自分等を想像することができるだろうか。その時に本当に活躍している自分を想像できるだろうか。そのために今の自分でいいのだろうか。夢を実現するためには、中期的な視点をもつことが有効のように思える。