鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その1

2008-12-07 08:16:16 | Weblog
 先月の取材旅行では、JR根岸駅から京急能見台駅までを歩きました。この「能見台」という駅名や地名は、おそらく「能見堂」にちなんで付けられたものであるのでしょう。かつて「能見堂」というのは、それほどに有名でした。なぜ有名であったかいえば、そのお堂から「金沢八景」の絶景を見晴るかすことができ、当時(江戸時代後半)、江戸や横浜の近郊における絶好のビューポイントの一つであったから。そのことは横浜に居住する外国人の間でも広く知れ渡っていました。前にも触れたことがありますが、幕末に作成された『横浜周辺外国人遊歩区域図』の「凡例」の末尾に星印があるのですが、この星印は「Beautiful Scenery」(美しい風景)を示していました。星印は、町屋の北あたりに一つ、鎌倉の由比ヶ浜のあたりに一つ、江の島に三つ、丹沢の宮ヶ瀬のあたりに二つ、蓑毛に一つ、計八つあるのですが、このうち「町屋の北」というのが「能見堂」をさしています。「町屋」というのは、現在の金沢区町屋町(まちやちょう)。金沢の称名寺(しょうみょうじ)から洲崎町へ向かう途中にある町。ここには東海道保土ヶ谷宿から金沢の瀬戸へ至る「金沢道」が通っており、この「金沢道」を町屋から保土ヶ谷の方へ向かって進んでいくと、山道を登っていったところに「能見堂」があったのです。あの幕末の写真家フェリーチェ・ベアトも、ここを訪れ、ここからの景色を銀板写真で撮っています。さらに彼は、宿泊した金沢の瀬戸周辺の風景も撮影しています。浮世絵などにおいては、江戸時代の「金沢八景」を描いたものは、歌川広重の作品をはじめとして数多く残されていますが、江戸時代(といっても幕末)の金沢を写した写真となるとほとんど残っておらず、おそらく、このベアトが写した写真がもっとも古いものであり、しかも数少ないものであるといっていいでしょう。「金沢八景」として有名であった「金沢」は、かつてはどういうところであったのか。そして現在はどうなっているのか。そういったことを確かめに、取材旅行に行ってきました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む