鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その3

2008-12-09 05:59:11 | Weblog
『明治日本旅行案内 東京近郊編』によれば、関の先にある丘陵の頂きからは、背後に富士山を望む美しい風景が広がり、南方には江戸湾の一部を見ることができます。山道はその後しばらく稜線に沿って続き、少し離れた能見堂に向かって下っていきます。その能見堂の茶屋からは、金沢渓谷、六浦の入江、江戸湾の一部の美しい風景を望むことができました。その能見堂の茶屋から下を見れば、内側に引っ込んだ浜辺に沿って金沢の村が散在し、入江の入口にあたる部分には、樹木の繁った野島が突き出ていました。その左手に小さな烏帽子島(えぼしじま)と大きい夏島が見え、そのはるか先には猿島が見え、さらに左手の彼方には、観音崎や、江戸湾を隔てた対岸(すなわち房総半島)に、鋸山の頂きと二つの「双耳峰」を持つ安房の双子山が見えるという大パノラマが展開しました。また能見堂の少し上の方の左側にある「夏の小屋」からは、富士山の頂上を見ることができました。関から10町ほど進んだ、円海寺へと続く道が分岐する地点からすぐ先の丘からは、東海道沿いの平塚・大磯近辺の海(すなわち相模湾)や本牧岬をはじめとした根岸湾の風景、さらには上野(こうずけ)地方や伊豆半島の山々を見晴るかすことができましたが、この能見堂あたりからはそこまでの景色の広がりはありません。しかし足元(丘陵のふもと)には、浜辺に沿って金沢の村々が散在する美しい入江が広がっていました。そしてこの能見堂跡より先へ進むと、「道は急速に谷へと下っていき」、30分も進むと洲崎村のはずれにあった「村田屋」という旅宿にたどり着くことができました。橋(瀬戸橋)の手前には「吾妻屋」という旅宿がありましたが、その「主人は外国人の受け入れを喜ばない」人であったという。この「吾妻屋」というのは「東屋」のこと。後に触れることになります。当時、外国人の間では、夏島は「ウェブスター島」、猿島は「ペリー島」として知られていました。ちなみに、小柴沖は「アメリカ碇泊地」、横須賀湾は「サスケハナ湾」、根岸湾は「ミシシッピー湾」、走水岬は「ルビコン岬」、本牧岬は「条約岬」、伊豆大島は「フリーズ島」として知られていました。以上のうち江戸湾周辺の地名の多くは、ペリー(艦隊)により付けられたものでした。沖合いに小さく見える「猿島」を、外国人たちは「Perry Island」(ペリー島)として認識していたのです。 . . . 本文を読む