鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その5

2008-12-11 06:10:42 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』のキャプションによれば、金沢は、塩田があることと、近くでいろいろなおいしい魚が獲れることで有名でした。また1万石の大名である米倉丹後守の陣屋がある、とも書かれています。ここには六浦藩というのがあって、藩主は米倉氏でした。このあたりの唯一の大名で、したがって参勤交代で江戸への行き返りに利用した道(参勤交代路)は「金沢道」でした。あの泥岩が露出した「切り通し」のある山道を、大名を乗せた駕籠(乗物)を中心とした大名行列が通過していたということになります。同じくキャプションには、「横浜を訪れた人が数時間しかなければ、12マイルほど離れた景勝地、金沢へ馬で行くとよい」とあります。そこへは「外国人観光客がしばしば訪れることから開業した、居心地のよい茶屋」があり、その茶屋は「水辺にあるので平潟湾の美しい干潟がよく見える」という。その茶屋が写っている写真が3枚あります。『F.ベアト幕末日本写真集』のP44と、P45の上の写真、そして『F.ベアト写真集2』のP33の下の写真。『幕末日本写真集』P44のは瀬戸にある金龍院というお寺の境内にある「九覧亭」という展望台から琵琶島弁財天を中央に見たもので、その視点をやや右手に移したものが、『写真集2』のP33下の写真。しかし同じ時期に写されたものではありません。ということは、ベアトは少なくとも2回は金沢の「九覧亭」を訪れていることになります。2枚の写真を較べてみて、どこが違っているのか。まず平潟湾の様相が変わっています。後者の方は干潟が露出しています。これは引潮の時に写せばこうなるのかも知れない。二つ目は、瀬戸橋左手の茶屋の数が増えています。前者では、「千代本」と「扇屋」の2軒ですが、後者の写真では「扇屋」の右隣りにもう1軒、やや擬似洋風2階建ての茶屋が写っています。後者の写真の右端中央に茶店が見えていますが、これが「東屋」。これは前者の写真にはアングルの関係で写っていないだけで、安政5年(1858年)にここへ新築・移転したもの。三つ目は、瀬戸橋向こうに延びる堰堤の上に植えられている木の大きさが違う。後者の方が一回り大きく成長しているのです。以上から、『写真集2』のP33下の写真は、幕末のものではなく、明治に入ってから金沢にふたたび(?)訪れたベアトが撮ったものだと推定することができるでしょう。 . . . 本文を読む