鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その10

2008-12-16 06:49:25 | Weblog
「瀬戸町やぐら群・横穴墓」は、ガイドパネルによると、中世の墳墓であるやぐら5基が現道路面の高さから発掘され、さらに標高9m前後の急斜面からやぐら4基が発見されたという。少なくとも9基のやぐらがこの丘陵斜面にはあったということになります。

 このやぐら内部の平面の形は方形で、幅・奥行きとも約4.6m。床から天井までの高さは約2.5m。中には埋葬施設・五輪塔・宝篋印塔などが置かれていました。

 第5号やぐらからは人骨を納めた常滑焼(とこなめやき)の甕が見つかりました。下段やぐら群のひとつ第3号やぐらは、戦時中には防空壕に利用されていたという。たしかに高さが2m以上もあり、防空壕としては最適であったと思われる。

 やぐらは、丘陵の斜面に掘り込まれた横穴状の墓所で、13世紀後半頃に、中国の墓所の影響を受けて出現したと考えられている、とありました。

 この斜面は、「九覧亭」のある金龍院の裏手の丘陵の斜面および下部、すなわち平潟湾の美しい風景を見晴るかすところにあり、墓所に埋葬された人々は、そこから見える平潟湾の風景にかなりの愛着ないし関わりを持った人々であったに違いない。

 その「九覧亭」のある丘陵の裾をぐるっと一周すると、もとの金龍院の門前へ戻りました(14:53)。

 そこから国道16号線に戻ります。

 金沢区六浦陸橋のところを右折すると、「環状4号」であり、鎌倉方面へ至ります。この鎌倉へと至る道を確認しながら陸橋を渡り、金沢八景駅方面へ戻り、瀬戸神社前を通過。瀬戸神社前陸橋で国道を渡って、ふたたび瀬戸橋を渡りました(15:08)。

 「一之瀬丸」というお店があって、「本日の釣物」として、アジ・シロギス・カワハギ・マダイ・スルメイカ・アジが書かれています。これが平潟湾や野島水道や、あるいは東京湾で、今の時期に釣れる魚なのです。

 左にふたたび「憲法草案之処」の碑を見て、洲崎町交差点を直進。行く手には野島が見えます。その野島に向かって歩を進めました。

 通り右手には、8階建ての高層マンションが連なっていますが、これが琵琶島弁才天から左側に見えた白い建物で、「金沢八景ハイム」という。

 シーサイドラインの高架線の下、帰帆橋の信号のところで左折して通りを渡り、野島運河に架かる帰帆橋を渡ります。

 左手前方に野島が見えます。帰帆橋を渡って左手へ下り、野島運河に沿って乙舳町(おつともちょう)を進みます。運河べりには漁船が碇泊しています。

 野島橋の手前を右折して直進すると、野島公園の入口に到着しました(15:25)。

 広重の「金沢八景」のひとつ、「乙艫帰帆」(おつとものきはん)は、野島から柴まで一望のもとに広がっていた海岸が描かれています。そこには帆舟の群れ(7隻)が浮かび、海岸の道には旅人が2人いて何か立ち話をしています。「平潟落雁」には、野島山麓の内湾で、潮干狩り(「瀬踏み」)をしている人たちの姿が描かれています。「野島夕照」には網を引っ張っている漁師(一人乗りの舟)と荷を運ぶ船(押送船)が描かれています。

 またあの「空とぶ絵師」五雲亭(橋本)貞秀は、「乙艫の帰帆之図」という絵を描いていますが、そこには帆を広げた大きな船が描き込まれています。

 野島のふもとの海岸には塩田が広がり、また干潮になると現れる干潟があり、そして漁船が浮かび、さらに大型の帆船も出入りしていたということになります。

 野島は、能見堂から見える景色においても、九覧亭から見える景色においても、大きなポイントとなる島(実は陸続きの丘陵)でした。


 続く


○参考文献
・『金沢八景』(神奈川県立金沢文庫)
・『図説かなざわの歴史』(金沢区制五十周年記念事業実行委員会)


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