鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その6

2008-12-12 06:33:55 | Weblog
 眺望を楽しんだ後、八角堂広場を12:00ちょうどに出発。道を戻り北条実時の墓のところで右折。釈迦堂の前に戻ったのが12:10でした。

 称名寺境内を金沢文庫方面へ進むと、右手丘陵の下に「中世の隧道(すいどう)」がありました。案内によると、このトンネルの向こう側が鎌倉時代の金沢文庫の遺跡の有力な候補地だという。このトンネルは現在はフェンスがあって通り抜けることはできません。称名寺と金沢文庫をつなぐ丘陵の下部に掘られたトンネル(中世の)です。

 その右隣りに新しいトンネルがあって、称名寺から金沢文庫に行く人はここを通ります。その新しいトンネルの壁には、広重の8枚連作の『金沢八景』の浮世絵があって、鑑賞できるようになっていました。27年前、私が新任者研修でここに訪れた時は、おそらくこのようなトンネルではなかったように思われます。

 「野島夕照」では、網を引いている漁師が一人乗った舟や荷物を運ぶ船が描かれています。「称名晩鐘」では、櫂を操る息子とその母が描かれています。「洲崎晴嵐」に描かれているのは塩田と塩焼き小屋。「平潟落雁」では、手前の瀬で子どもが4人と母親が7人、むこうの瀬では男たち4人と女1人がやはり貝かなにかを採っています。これが「瀬踏み」というもので、エビやシャコや小さいカレイ、ハゼなどを採っているのです。「内川暮雪」にも塩田と塩焼き小屋が描かれています。天秤棒で男が運ぶ荷物には何が入っているのでしょうか。

 この広重の『金沢八景』を見て気が付くのは、塩田が多く描かれていること。

 平潟湾には昔から塩田が各所にあり、それが実は「金沢八景」の原風景の一つでした。瀬戸橋の北側には広大な入江が広がり、それは「瀬戸内海」「瀬戸入海」、江戸期には「内川入江」と言われ、潮の干満が大きく、たとえば明治時代になっても、野島に別荘を構えた伊藤博文は野島から夏島まで干潮の時は歩いて渡ったという。この干満を利用して、塩田が開かれ、塩が生産されたのです。

 『F.ベアト幕末日本写真集』の「金沢」のキャプションにも、「金沢は以前は鎌倉の在にあった村で、塩田があることと、近くでいろいろなおいしい魚が獲れることで有名である」と書かれていたのは、前に触れた通りです。

 ここで生産された塩は、大消費地である江戸やその周辺に運ばれていきましたし、また近傍の町や村々にも、「塩売り」がいて塩を売りに歩いていたのです。

 江戸時代後期に、遠浅の入江は干拓され新田が造られましたが、幕末・明治になっても、ベアトの写真に見るように「広大な入江」はまだまだその美しい姿を留めていました。

 『かねざわの歴史事典』によると、塩は、平潟湾の金沢塩田(金沢新田とも)、三艘あたりの六浦塩田、小泉下や谷津の大沢あたりの塩田で生産されていました。

 この塩田は、大正時代後期に耕地化されていったようです。

 広重の8枚の絵の中に「小泉夜行」がありますが、それにもたしかに塩田が描かれています。「小泉下」にあった塩田でしょう。

 描かれている舟は、「ベカ舟」や「押送舟(おしょくりぶね)」などであるに違いない。

 「ベカ舟」は、海苔養殖業において海苔の採集に使用したもの。全長4mほどで一人乗りでした。

 「押送舟」は、獲った鮮魚類を一大消費都市である江戸の市場などに急送するための舟。金沢でも使用されていました。生産された塩なども、これで江戸に運ばれたのかも知れない。

 野島あたりではアサリがたくさん採れたという。アサリは味噌汁に入れたり、また殻を剥いてショウガを入れ、佃煮にして、それを持って商いに出た(アサリの佃煮売り)とも。

 「金沢文庫」には入らず、ふたたび参道に戻って、赤門を潜り(12:28)、門の前から洲崎方面に延びる道(赤門通り)を直進しました。


 続く


○参考文献
・『明治日本旅行案内 東京近郊編』アーネスト・サトウ編著/庄田元男訳(東洋文庫/平凡社)
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『幕末明治 横浜写真館』斎藤多喜夫(吉川弘文館)
・『金沢今昔地図』
・『かねざわの歴史事典』(金沢区生涯学習“わ”の会)
・『私の語る金沢─町の古老に聞く─』


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