鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その7

2008-12-13 06:46:33 | Weblog
「金沢八景」とは、野島水道から入り込んだひょうたん形の入り江(平潟湾・内川入江)を中心に選ばれた八つの景色のこと。この「金沢八景」を楽しむために、江戸から数多くの人々が訪れるようになったのは江戸中期の元禄年間(1688~1704)頃からだという。この「金沢八景」を描いた風景画や絵地図は大量に刊行され、その量としては「金沢八景」の右に出るところは少ないとされています。この「金沢八景」を見るために金沢に足を運んだ人々の中には、広重もいれば、五雲亭貞秀もいれば、フェリーチェ・ベアトもいる。またアーネスト・サトウもここを訪れています。広重や貞秀は浮世絵を描き、ベアトは銀板写真を撮り、サトウは旅日記を書き、後に『明治日本旅行案内』をまとめました。この「金沢八景」を望む絶好のビュー・ポイントとして、二つの地点が知られていました。一つは能見堂。ここは「金沢道」の沿道にあって丘陵の上であり、「金沢八景」の全体を遠望することができました。「八景ハすべて能見堂にあり」(鎌倉志)と言われました。もう一つは九覧亭。瀬戸の金龍院という禅宗のお寺の境内にあった展望台のことで、ここからは真下に平潟湾を望むことができました。瀬戸橋・琵琶島弁天・瀬戸明神(神社)・野島などを間近に見ることができ、何よりも瀬戸の旅宿や茶屋から散歩感覚で手軽に行ける。金沢随一の展望台として賑わったところでした。広重もベアトも、おそらく貞秀もサトウも、この両方を訪れているはずです。サトウ編著の『明治日本旅行案内』には、次のように記されています。「金沢という地名は十三の村落を一つにまとめた総称であり、洲崎はその一つである。村田屋のすぐ先に小さな瀬戸の神社があるが、これは東海道沿いの宏大な三島神社の祭神を祀っているもので、頼朝が創設したといわれている。さらに少し先へ進むと左側に小さな仏寺があり、六浦の入江の有名な風景を望むことができる。」この「小さな仏寺」というのが金龍院で、「六浦の入江の有名な風景(金沢八景のこと─鮎川)を望」める地点が、その境内にあった九覧亭でした。さてここに出てくる「村田屋」というのは、どこにあったのか。「洲崎村のはずれ」にあり、外国人を宿泊させることに難色を示さず、さらに「すぐ先に小さな瀬戸の神社がある」。となると、瀬戸橋と扇屋の間に新しく建てられていたあの擬似洋風の2階建ての旅宿ではなかったか。 . . . 本文を読む