鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その4

2008-12-10 05:57:11 | Weblog
金沢区役所発行の『金沢の古道』によると、金沢区には五つの古道が走っています。①六浦道②浦賀道③金沢道(保土ヶ谷道)④白山道⑤野島道の五つ。このうち「六浦道」は、鶴岡八幡宮から平潟湾に臨む金沢の瀬戸神社前まで。「浦賀道」は、平潟湾に流れ込む侍従川(じじゅうがわ)から三艘を経て浦賀まで。「金沢道」は、東海道保土ヶ谷宿~蒔田~上大岡~松本~関~雑色~田中~栗本~中里~能見堂~谷津(やつ)~称名寺~瀬戸神社を結ぶ道。「野島道」は、町屋神社から野島まで。「六浦道」は鎌倉道でもあり、この平潟湾にある六浦津(港)は、中世都市鎌倉(幕府の所在地)の外港として極めて重要なものでした。この六浦港には、房総半島や伊豆半島をはじめとした関東一円を結ぶ船が出入りするばかりか、遠く中国の宋(南宋)や元とを結ぶ船が出入りしていました。現在の金沢警察署六浦交番のあたりがかつての海岸で、上行寺のあたりに船着場があったという。この平潟湾は塩の産地でもありました。いつごろから塩が生産されていたかはわかりませんが、ここで生産された塩は武相各地に販路を持っていました。ということは、「六浦道」は鎌倉方面に塩を運ぶ「塩の道」でもあったわけです。この六浦港の中心にあったのが瀬戸神社。この神社は、治承4年(1180年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆の三島神社を勧請(かんじょう)したもの。平潟湾に臨み、航海の安全を守る神さまでした。したがって鎌倉幕府以来、鎌倉公方足利氏や小田原北条氏といった歴代の権力者により厚く保護されてきました。さてベアトの写真に戻ります。ベアトが平潟湾を写した写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』のP44とP45、そして『F.ベアト写真集2』のP33に掲載されています。このうち瀬戸神社が写っているのはP44の写真のみ。この写真の前面に広がっているのが平潟湾で、その平潟湾に突き出ている突堤の先っちょにあるのが琵琶島弁天。この突堤の付け根のところ、木々がこんもりと繁る丘陵の中ほどに屋根が見えますが、これが瀬戸神社になります。この瀬戸神社の前には道が左右に延びており、これが「金沢道」(神社前から右手)と「六浦道」(神社前から左手)。画面右端中央に橋が見えますが、これが瀬戸橋。神社前から瀬戸橋へ至る道筋には、平潟湾に面して2軒の茶屋がありますが、それは左が「千代本」、そして右が「扇屋」でした。 . . . 本文を読む