鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その8

2008-12-14 08:11:22 | Weblog
 瀬戸橋の手前を右折すると、「姫小島跡」があり、「姫小島水門」というのがありました。ガイドパネルによると、この姫子島水門は、天明年間(1780~1788)に永島段右衛門によって建設されたもので、両側の石柱は創建当時のものだという。高さは3mを超える。門扉は木製で、海水のために腐ってしまうことから、数年毎に村人総出で交換したのだという。新田開発のために造られたものですが、その遺構がこのように今でも残っているというのは貴重なこと。場所的には、東屋(瀬戸橋の洲崎村寄りに移転した)の裏手あたりになります。この水門の完成により「金沢入江新田」ができるのですが、しかしその数年後、洪水により新田は流失してしまうことになります。

 通り右側に、「横浜市金沢地区センター」があり、「金沢図書館」が併設されていたので、中に入ってみることに。

 『金沢の古道』(金沢区役所)、『図説かなざわの歴史』(金沢区制五十周年記念事業実行委員会)、『金沢道膝栗毛』片柳丈風(横浜歴史研究所)の3冊をチェックし、そのうち『金沢の古道』に目を通しました。

 東屋が、もともとは瀬戸橋の西側のたもとにあったものが、安政5年(1858年)の大火で類焼し、瀬戸橋を渡って、現在の第一生命金沢支店があるところに移転したということは、この本で知りました。『江戸名所図会』に載っている東屋は、移転前の瀬戸橋西詰めにあった時のものであったのです。

 14:02に金沢図書館を出て、瀬戸橋を渡る。

 幕末、この橋を渡ると、道(金沢道)の左手、平潟湾に面して手前に「扇屋」、その向こう隣(西隣)に「千代本」という、名の知れた旅宿が2軒並んでいました。安政5年(1858年)以前には、この橋を渡った右手に、やはり名の知れた旅宿である「東屋」がありましたが、その年以後に移転したのは先に触れた通り。

 しかし、横浜からの外国人旅行客が増えてくると、新たに「扇屋」の手前、瀬戸橋を渡ったすぐ左手の空き地に新しい旅宿が建てられました。その建物が写っているのが『F.ベアト写真集2』のP33下の写真。

 これがアーネスト・サトウが記す、外国人向けお薦めの宿「村田屋」ではないかと推測しましたが、実は、先ほどの「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」で検索すると、「金沢」と書かれた「瀬戸の料亭」を写した写真が出てくるのですが、その写真の説明には、「写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か」とあるのです。

 さて、『ケンブリッジ大学秘蔵 明治古写真─マーケーザ号の日本旅行』という本(写真集)があるのですが(小山騰・〔平凡社〕)、これに載っている写真は「写真師臼井秀三郎」が写したもの。

 このP32~33に、金沢を写した写真3枚が掲載されています。

 一枚は「能見堂跡」の写真。一枚は「金沢八景平潟湾にある茶屋」の写真。そしてもう一枚は、平潟の塩田を写した貴重な写真。

 そのうち、「茶屋」の写真が、「メタデータ・データベース」の「瀬戸の料亭」の写真と、ほぼアングルが同じで、写っている建物もまったく同じなのです。背後の丘陵は、瀬戸明神(神社)の背後にある山になる。違う点といえば、一方は2階の窓が開け放しになっているのに対して、一方は閉まっていて、1階の雨戸も閉まっているということぐらい。両方とも、ほぼ同じくして、瀬戸橋から撮影したものと言えるでしょう。

 「メタデータ・データベース」の「金沢の茶屋」を撮影したのはスチルフリード。

 この「スチルフリード」というのは、斎藤多喜夫さんの『幕末明治 横浜写真館物語』(吉川弘文館)によれば、ベアトの写真館を継承した人物で、ライムント・フォン・スティルフリートと言って、オーストリアの貴族出身。1871年(明治4年)の8月に、横浜で写真館を開設しています。来日してからベアトに写真を学んだらしい。1877年(明治10年)にスタジオが焼失。その直後に、ベアトの写真館を譲り受けたという。しかし1881年(明治14年)5月4日に離日し、帰国の途についています。

 臼井秀三郎が、「金沢八景平潟湾にある茶屋」を撮影したのは、「マーケーザ号の日本旅行以前」。マーケーザ号が日本にやってきたのは1882年(明治15年)。

 ということは、この金沢の茶屋を写した写真は、明治14年以前に撮られたものだということになります。

 スティルフリートの写真家としての活動の経歴をおさえてみると、明治11年(1878年)以前に絞り込まれるかもしれない。

 臼井秀三郎については、『幕末明治 横浜写真館物語』によれば、下田出身で、やはり下田出身の著名な写真師下岡蓮杖の弟子の一人。臼井は、蓮杖が下田に帰郷した慶応年間に、蓮杖に入門したという。しかし開業したのは明治に入ってから。明治2年に一度開業、それから明治10年(1887年)頃に本格的に開業したものと斎藤さんは推定されています。そして明治14年(1881年)までには、東京・京都・大阪・神戸・日光・箱根など日本各地の名所を巡って、その風景写真を数多くストックしていました。

 といったことなどを総合して考えると、この「金沢の茶屋」の写真は。1877年(明治10年)前後に撮影されたものではないかという推測が成り立ってきます。

 アーネスト・サトウが『明治日本旅行案内』の初版を刊行したのは、1881年(明治14年)のことでした。


 では、この2枚の写真に写っている中央の茶屋は、「扇屋」か、それとも「村田屋」か?

 てがかりはベアトの写真です。

 『F.ベアト幕末日本写真集』のP44とP45の写真は幕末のもの。瀬戸橋の西側の平潟湾に面した岸辺には、「千代本」(左)と「扇屋」(右)の2軒しかありません。P45はほぼ同時期に、瀬戸橋の上から、「扇屋」(中央)と「千代本」(左端)を写したもの。

 ところが、『F.ベアト写真集2』のP33の下の写真には、「扇屋」の右隣りに新しい旅宿が建っているのがわかります。「扇屋」は1階建てであるのに対して、この新築の旅宿は、「千代本」と同じく、2階の部屋からの眺望がきく2階建て。しかも1階からも、窓が開けていて眺望がよさそうです。屋根の形も素材も、「扇屋」や「千代本」とは違います。前に「擬似洋風」とした所以ですが、そこまでは言えないかも知れない。

 これと先ほどの、明治10年頃のものと思われる2枚の写真と付き合わせてみると、2階建てで1階も2階も窓(雨戸)が大きく開いていることは共通していますが、屋根の形が違っています。しかし、その茶屋の手前に建物が何もないことを考えると、これは「扇屋」ではない。おそらく「扇屋」は、この旅宿の陰(向こう側)に隠れているのです。そしてその向こう側に岸辺に張り出すように出ているのが「千代本」の建物の一部(これはもしかしたら獲った魚を入れておくための「生け簀(いけす)」のある建物であるかも)ということになります。

 屋根を変更してはいるものの、この2枚に写された「金沢の茶屋」が、アーネスト・サトウが外国人旅行者向けに「金沢の宿」として推奨した「村田屋」ではないか、と私は推定します。


 さて、「金沢道」に戻ります。

 瀬戸橋を渡って、右に「洋服の青山」「八景事務機商会」のビルを見て進むと、大通りにぶつかりますが、これが国道16号線。

 「瀬戸神社前」信号を左折すると、左手に料亭「千代本」がありました。昔ながらの場所で、今でもしっかりと営業を続けているのです(料亭として)。

 その西隣に、琵琶島弁才天(琵琶島神社)のある「横浜市地域史跡 琵琶島」のガイドパネルがありました。


 続く



○参考文献
 ネット
・「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」(横浜)

・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『明治日本旅行案内 東京近郊編』アーネスト・サトウ編著/庄田元男訳(東洋文庫/平凡社)
・『幕末明治 横浜写真館物語』斎藤多喜夫(吉川弘文館)


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