金沢の称名寺の赤門(惣門・朱塗門)を潜り、石畳の参道を進みます。両側には普通の民家や喫茶店などが並び、また塔頭(たっちゅう)が散在しています。
仁王門の前、右手に「称名寺市民の森案内図」があったので、そのマップでだいたいの地理を確認。境内にはあちこちに「名木古木指定」の大イチョウや大ケヤキが立っています。仁王門を入ると、雰囲気はガラリと変わります。いきなり中世鎌倉の世界に入り込んだような感じです。水鳥が泳ぐ池の向こうに、金堂と釈迦堂が並んでいます。池に架かる復元中の反橋(そりばし)を蔽う青いビニールシートだけが無粋。
惣門(赤門)から真っ直ぐに参道を進み、仁王門を潜って、池(阿字ヶ池)に架かる反橋ともう一つの橋を渡ると、正面突き当たりにあるのが金堂で、その右隣りにあるのが釈迦堂。その手前の池の近くに鐘楼があります。
何枚か写真を撮って、阿字ヶ池とその向こうの金堂や釈迦堂を望むベンチに座って休憩しました(10:45)。
小憩の後、金堂や釈迦堂を見て回りましたが、案内板などの説明によると、この称名寺は真言律宗の別格本山で、「金沢山(きんたくざん)称名寺」と言い、金沢北条氏の菩提寺。北条実時(1224~1276)がこの地の居館内に営んだ持仏堂に由来しているという。かなりの堂塔伽藍を持つ大寺院になりましたが、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失ってしまいました。金堂は天和元年(1681年)、仁王門は文政元年(1818年)、古そうに見えた釈迦堂も文久2年(1862年)に再建されたものでした。
この称名寺の真後ろにある山が稲荷山で、左手裏にあるのが金沢山。その二つの山を含む丘陵が「称名寺市民の森」でハイキング・コースになっています。
このハイキングコースに入る予定はまったくなかったのですが、ふと思い立って、入ってみることにしました。
釈迦堂の前を通って右折。池を右に見て途中で左折。突き当たりに「称名寺市民の森案内図」がありました。その前を右折してハイキング・コースに入りました(1:05)。
なぜ、入って見ようかと思ったかというと、もしかしたらこの丘陵の上に「金沢八景」の方のすっきりした眺望が得られるビューポイントがあるのではないかと思ったから。
能見堂跡から得られなかった眺望が、アングルは異なるけれども、この称名寺の裏山から得られるかも知れない。
尾根筋へと山道は上がっていきますが、よく整備されていて気持ちのよい遊歩道です。しかし右側は、住宅地が尾根筋までせり上がってきています。
歩いて10分近く、右手に「金沢北条一門の墓」が見えてきました。
墓地内中央の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が北条実時の墓と伝えられ、その左右の五輪塔は一門の墓と伝えられているとのこと。この北条実時というのは、金沢文庫の創立者として知られ、鎌倉幕府の第2代の執権北条義時の孫にあたります。父は実泰。多くの書物を収集・書写して金沢文庫の基礎を築きました。
この墓の前から下の称名寺へと下りて行く道がありますが、そちらへは下りずに、「稲荷山休憩所」の方へ足を向けました。「稲荷山」というのは称名寺の真後ろにある山。
「稲荷山休憩所」からは残念ながら期待していた眺望は得られない。
さらに進んで、「八角堂広場」を目指しました。
「八角堂広場」は、北条実時の墓の前からおよそ5分ほど。
ここに到着すると、なんと期待していた(探し求めていた)「金沢八景」方面のすっきりした眺望が大きく広がっていました。
絶好のビューポイントで、ここまで登って来て大正解でした。瀬戸も見えるし、野島や夏島、そして小さく猿島も見える。三浦半島や房総半島もすっきりと見え、海には銀色に輝くおびただしい数の船が見える。かつての入江は干拓されて、その上に高層マンションやビルが建ち住宅街が広がっています。視界を遮(さえぎ)る樹木はほとんどない。
かつての「金沢八景」の景色を十分に偲ぶことができる地点でした。
ということで、写真を数枚撮影。
2人連れの女性が、ちょうど上がって来ており、このおふたりも同じように感動の面持ち。
伺ってみると、ここへは初めて来られたとのこと。称名寺の方は何度か来たことがあるけれども、ここまで足を踏み入れたのは今日が初めてだという。
世田谷から、品川経由、京浜急行で来られたとのこと。
「富士山やランドマークタワーも見えますよ」
ということで、八角堂の向こう側へ。
この八角堂のやや左手(西側)が金沢山の頂上部になります。北側にランドマークタワーが見え、そして西側に雪をかぶった白いコニーデ型の富士山が、たしかにくっきりと見えました。
この広場からは、称名寺とその裏手の空き地もよく見える。称名寺の裏手には人家は何もなく広い空き地になつています。称名寺の参道周辺や、称名寺から瀬戸へと向かう道筋の人家の密集する様子とはまるで違います。そこだけが中世からのまま、ポツンと独立しているような感じで、こういうところからの視点の面白さを感じました。
ここからは全方位の眺望が開けます。まさしくビューポイントで、現在版「能見堂」といったところ。
ベンチに腰を下ろし、金沢方面の景色を見下ろしながら、昼食を摂りました。
続く
○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『かねざわの歴史事典』(金沢区生涯学習“わ”の会)
・『金沢今昔地図』
仁王門の前、右手に「称名寺市民の森案内図」があったので、そのマップでだいたいの地理を確認。境内にはあちこちに「名木古木指定」の大イチョウや大ケヤキが立っています。仁王門を入ると、雰囲気はガラリと変わります。いきなり中世鎌倉の世界に入り込んだような感じです。水鳥が泳ぐ池の向こうに、金堂と釈迦堂が並んでいます。池に架かる復元中の反橋(そりばし)を蔽う青いビニールシートだけが無粋。
惣門(赤門)から真っ直ぐに参道を進み、仁王門を潜って、池(阿字ヶ池)に架かる反橋ともう一つの橋を渡ると、正面突き当たりにあるのが金堂で、その右隣りにあるのが釈迦堂。その手前の池の近くに鐘楼があります。
何枚か写真を撮って、阿字ヶ池とその向こうの金堂や釈迦堂を望むベンチに座って休憩しました(10:45)。
小憩の後、金堂や釈迦堂を見て回りましたが、案内板などの説明によると、この称名寺は真言律宗の別格本山で、「金沢山(きんたくざん)称名寺」と言い、金沢北条氏の菩提寺。北条実時(1224~1276)がこの地の居館内に営んだ持仏堂に由来しているという。かなりの堂塔伽藍を持つ大寺院になりましたが、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失ってしまいました。金堂は天和元年(1681年)、仁王門は文政元年(1818年)、古そうに見えた釈迦堂も文久2年(1862年)に再建されたものでした。
この称名寺の真後ろにある山が稲荷山で、左手裏にあるのが金沢山。その二つの山を含む丘陵が「称名寺市民の森」でハイキング・コースになっています。
このハイキングコースに入る予定はまったくなかったのですが、ふと思い立って、入ってみることにしました。
釈迦堂の前を通って右折。池を右に見て途中で左折。突き当たりに「称名寺市民の森案内図」がありました。その前を右折してハイキング・コースに入りました(1:05)。
なぜ、入って見ようかと思ったかというと、もしかしたらこの丘陵の上に「金沢八景」の方のすっきりした眺望が得られるビューポイントがあるのではないかと思ったから。
能見堂跡から得られなかった眺望が、アングルは異なるけれども、この称名寺の裏山から得られるかも知れない。
尾根筋へと山道は上がっていきますが、よく整備されていて気持ちのよい遊歩道です。しかし右側は、住宅地が尾根筋までせり上がってきています。
歩いて10分近く、右手に「金沢北条一門の墓」が見えてきました。
墓地内中央の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が北条実時の墓と伝えられ、その左右の五輪塔は一門の墓と伝えられているとのこと。この北条実時というのは、金沢文庫の創立者として知られ、鎌倉幕府の第2代の執権北条義時の孫にあたります。父は実泰。多くの書物を収集・書写して金沢文庫の基礎を築きました。
この墓の前から下の称名寺へと下りて行く道がありますが、そちらへは下りずに、「稲荷山休憩所」の方へ足を向けました。「稲荷山」というのは称名寺の真後ろにある山。
「稲荷山休憩所」からは残念ながら期待していた眺望は得られない。
さらに進んで、「八角堂広場」を目指しました。
「八角堂広場」は、北条実時の墓の前からおよそ5分ほど。
ここに到着すると、なんと期待していた(探し求めていた)「金沢八景」方面のすっきりした眺望が大きく広がっていました。
絶好のビューポイントで、ここまで登って来て大正解でした。瀬戸も見えるし、野島や夏島、そして小さく猿島も見える。三浦半島や房総半島もすっきりと見え、海には銀色に輝くおびただしい数の船が見える。かつての入江は干拓されて、その上に高層マンションやビルが建ち住宅街が広がっています。視界を遮(さえぎ)る樹木はほとんどない。
かつての「金沢八景」の景色を十分に偲ぶことができる地点でした。
ということで、写真を数枚撮影。
2人連れの女性が、ちょうど上がって来ており、このおふたりも同じように感動の面持ち。
伺ってみると、ここへは初めて来られたとのこと。称名寺の方は何度か来たことがあるけれども、ここまで足を踏み入れたのは今日が初めてだという。
世田谷から、品川経由、京浜急行で来られたとのこと。
「富士山やランドマークタワーも見えますよ」
ということで、八角堂の向こう側へ。
この八角堂のやや左手(西側)が金沢山の頂上部になります。北側にランドマークタワーが見え、そして西側に雪をかぶった白いコニーデ型の富士山が、たしかにくっきりと見えました。
この広場からは、称名寺とその裏手の空き地もよく見える。称名寺の裏手には人家は何もなく広い空き地になつています。称名寺の参道周辺や、称名寺から瀬戸へと向かう道筋の人家の密集する様子とはまるで違います。そこだけが中世からのまま、ポツンと独立しているような感じで、こういうところからの視点の面白さを感じました。
ここからは全方位の眺望が開けます。まさしくビューポイントで、現在版「能見堂」といったところ。
ベンチに腰を下ろし、金沢方面の景色を見下ろしながら、昼食を摂りました。
続く
○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『かねざわの歴史事典』(金沢区生涯学習“わ”の会)
・『金沢今昔地図』
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