鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その10

2008-12-16 06:49:25 | Weblog
「武陽金沢八勝夜景」は、内川入江干拓後の能見堂からの眺望を描いたもので、広重の晩年の絶品ですが、「広重のみならず江戸時代に描かれた金沢八景の風景画の最高峰と見られる作品」であるとされています。この作品は広重晩年の安政4年(1857年)に描かれました。広重はその6年前の嘉永4年(1851年)の初夏、阿波藩士武谷氏の妻らと鎌倉・箱根方面に写生旅行をした時に、ここ金沢に立ち寄っていますし、またそれをさかのぼる11年ほど前、天保11年(1840年)頃に、金龍院(ビューポイントの一つ「九覧亭」のあるお寺)の求めに応じて「金沢八勝図」(2種類・各8枚ずつ)を描いています。またその4年前の天保7年(1836年)頃には、8枚セットの連作である大錦版「金沢八景」を刊行しています。この「金沢八景」や晩年の「武陽金沢八勝夜景」は、金沢八景を題材にした浮世絵のうちもっとも代表的なもので、称名寺の金沢文庫へと通じるトンネルに飾られていたのは、この「金沢八景」でした。天保7年(1836年)から安政4年(1857年)の20年余の間には、金沢八景の景観はかなり変貌しています。というのは3度目の新田開発が九代永島段右衛門の主導により弘化4年(1847年)より着工され、嘉永2年(1849年)にはいわゆる「泥亀新田」が復興していたからです。内川入江の一部は干拓されて大規模な新田が生まれていたのです。また嘉永4年(1851年)には平潟新田が整備されて塩田が復活していました。広重は、金沢八景の情趣あふれる美しい風景に魅せられた一人でしたが、その変貌にも敏感な人であったと思われます。嘉永4年(1851年)の初夏、金沢を訪れた広重の目には、干拓が行われて内川入江に生まれた新田や、また新田が整備されて復活した平潟の塩田の風景が写っていたことでしょう。かつての金沢八景を知る広重にとって、その光景は感慨深いものであったに違いない。彼には、その後の金沢八景の急速な変貌も予感されていたのかも知れない。晩年の作品である「武陽金沢八景夜景」は、そういう予感のもとに、金沢八景を愛した広重の渾身の作であったと言えるでしょう。この広重は、金龍院の求めで金沢八景の風景を、一枚ずつ小判の浮世絵に描きました。手軽な土産物(みやげもの)として普及したと思われますが、それを描くために広重が滞在した宿は「千代本」か「東屋」だったでしょうか? . . . 本文を読む