鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その8

2008-12-14 08:11:22 | Weblog
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の「横浜」を閲覧してみると、「能見堂」・「金沢八景」・「金沢」・「金沢の瀬戸神社」・「野島の集落」・「九覧亭からの平潟湾」・「渡し舟(6)」などの古写真が多数出てきます。撮影者は、小川一真・ステルフリード・鈴木真一・臼井秀三郎・ベアトなど。多くは撮影者未詳になっています。「渡し舟(6)」は彩色写真ですが、これは『F.ベアト幕末日本写真集』P45下の写真と全く同じもの(これに彩色したもの)ですから、「撮影者未詳」となっていますが、フェリーチェ・ベアトが撮影したもの。「年代未詳」となっていますが、おそらく幕末のものと推定されます。この写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』では、「金沢の渡し舟。平潟湾を渡るものであろう」となっていますが、『F.ベアト写真集2』では、「琵琶島弁天の護岸を利用した船着場。平潟湾を野島まで渡す舟であろう。乗船客の多くは房総方面からの大山詣などの旅人だった」と詳しい説明になり、さらにこの「メタデータ・データベース」では、それに加えて、「琵琶島弁天は今も、金沢シーサイドラインの終着駅、金沢八景駅の近くに、写真に写っている白い幹の柏槙の木ともども現存する」とさらに詳しい説明になっています。いずれにしろ、琵琶島弁天の突堤の護岸を利用した船着場であることは間違いない。『F.ベアト幕末日本写真集』P44の写真でいえば、中央の琵琶島弁天のある突堤の向こう側(この写真からは見えない)の岸辺寄りに、この船着場があったと思われます。ベアトはこの写真を、旅宿「千代本」の前の砂浜(干潮で干潟になっていた)から撮ったものと思われます。背後に見える丘陵や人家は、六浦方面のものであるに違いない。見えませんが、船着場のある突堤の向こう側には入江があり、その向こうが金龍院(この境内に九覧亭がある)などがある陸地であったのです。「乗船客の多くは房総方面からの大山参詣などの旅人と考えられる」とありますが、服装から考えてみると、私にはそのようには思われない。「金沢八景」や、あるいは鎌倉・江ノ島方面への旅行を楽しんだ裕福な家族たちや僧侶、また渡し舟の船頭たちではなかったか。ベアトは彼らに依頼して、船着場に集まってもらい、それぞれの座り位置・立ち位置などを細かく指示して、ポーズを取ってもらったのでしょう。 . . . 本文を読む