『明治日本旅行案内』に「橋の手前にある吾妻屋の主人は外国人の受け入れを喜ばない」とある「吾妻屋」というのは「東屋」のことで、『F.ベアト写真集2』のP33下の写真右端中央に写っている茶店(旅館)がそれ。写真で見る限りでは道(「金沢道」)に沿って板塀があり3棟ばかりが並んでいます。真ん中の建物に玄関が見えます。2階建てで、この2階の窓からは平潟湾およびその周辺の美しい風景を望むことができたはずです。2階家であるのは「扇屋」も「千代本」も同様。『明治日本旅行案内』の編著者の一人はアーネスト・サトウ。サトウは生麦事件直前の1862年9月(西暦)に初めて来日。英国公使館のきわめて優秀な通訳官また書記官として激動の幕末・維新期を過ごし、1869年(明治2年)に第1回目の日本での勤務を終えました。しかし翌1870年(明治3年)に再び来日。それから途中2年間の帰国期間を含むものの1883年(明治16年)まで英国公使館に勤務しました。この日本滞在中に、サトウは日本各地を積極的に旅行しました。1870年から1882年までの旅行回数は35回、延べ日数にすると実に約450日に及ぶという。この旅行での見聞をサトウはこまめに日記に書き留めていました。1879年10月29日、サトウは親友であるディキンズ宛ての手紙で、「私が見聞したことや、日記に書き留めた記録などをもとにガイドブックの草稿を書いていますが、大変に疲れます」と記していましたが、この作業によって完成したガイドブックが『明治日本旅行案内』でした。ということは、「関で最良の旅宿は石川屋である」「洲崎村のはずれにある旅宿村田屋にたどり着く」「吾妻屋の主人は外国人の受け入れを喜ばない」といった記述は、1879年(明治12年)以前の情報(自らの体験にもとづいた)であるということになる。ベアトがP33の写真をいつ撮ったのかは確定できませんが、明治に入ってからのものであることは確かです。ベアトは明治17年(1884年)11月29日に離日しているので、ベアトの日本を写した写真はすべて明治17年以前のもの。斎藤多喜夫さんは『幕末明治 横浜写真物話』で、ベアトの「写真家としての日本での活動は、1871年くらいで終わると考えてよい」とされています。であるならば、金沢を写したベアトの一連の写真は明治の初期に撮られたものであると絞り込むことができそうです。 . . . 本文を読む