鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

海援隊文司・長岡謙吉について その4

2007-02-10 09:32:59 | Weblog
 出奔(脱藩)の罪で、高知城下山田町の牢に投ぜられていた長岡謙吉は、「三年間御城下禁足、布師田(ぬのしだ)以東へ追放仰付(おおせつ)け」られます。「布師田」とは布師田川、現在の国分川(こくぶがわ)のこと。その布師田川の東側に追放を命ぜられたのです。高知城下にはいたって近く、土佐藩の「追放」という刑罰の中では、最も軽い方であったということです。

 謙吉は、長岡郡鹿児(かご)村(現在、土佐電鉄鹿児駅がある。鹿児駅から南に法照寺があるが、その寺に向かう途中に謙吉らが住んでいた屋敷跡がある)に小さな家を借りて、寺子屋を開き、かたわら医業を行って謹慎生活を始めました。

 『海援隊遺文』に引用されている宮地美彦(みひこ・海援隊士宮地彦三郎の子息)さんの「先生謫居(たっきょ)のあと」の中にある、鹿児の古老、谷鹿太郎翁の証言を紹介します。

 「私が七、八歳の頃にや、病気して先生に診療を受けしことあり。鹿児へは他所より度々医師が来たりしも、今井氏(長岡謙吉のこと)の如きえらい医者は来たらざりき。その頃より今井氏は名医の噂ありき。現に田所亀次氏の納屋の北側、畑の所がその屋敷跡なり。その後、今井氏は皇軍(朝廷軍)に属して軍功ありし由聞けり。また長州とか高松とか征伐して偉勲を立てし由をも聞きたり。母堂、御内室等、同棲せられしも、今はだれがどんな方なりしか、その後はいかがなられしかを記憶せず」

 次に、山地こま子さんの回想談。

 「丁度、コレラ大流行の際にて、大津に井上という医者ありしも、今井氏の方、はるかに上手にてその療法がいつも偉効を奏したり。その見立てもよろしく、仲々好評なりしやうに覚えり。私の親戚のものがコレラにて診療を受けしに『すぐカユを二升ほど炊け』とて、その出来しカユを布に包み、腹部をそれにて温めさせてなほしたることをも覚えをれり。漢方の医師の多き時なれども、今井さんは蘭方という方なりし由なり」

 この二つの証言から、長岡謙吉(長崎でシーボルト父子とも親しく接していた)は名医の噂があり、特にコレラの療法にすぐれていたこと、また、鹿児の借家には、その母と妻と一緒に住んでいたことがわかります。

 謙吉の母は、長岡郡仁井田(にいだ)村砂糖仕成方(しなりかた)小島丈二郎(たけじろう)の娘で直(なお)。ちなみに、その直の兄に亀次郎という者がいて、その亀次郎の妻の千蘇(ちそ)は、仁井田村一番の素封家(そほうか)である川島猪三郎(1810~1854)の妹。その関係で、謙吉はよく仁井田村の川島家に出入りしたといいます。川島猪三郎は、西洋事情に明るく、村の人たちから「ヨーロッパ」と呼ばれていたことは、前に触れたことがあります。この川島家には、猪三郎が所持していた弘化元年(1844年)製作の「万国地図」(世界地図)が、今でも大事に保存されているそうです。

 この川島家によく出入りしていたという点では、坂本龍馬も同様でした。というのも、龍馬の生母幸(こう)が弘化3年(1846年)に亡くなった後、新しい母として迎えられた伊与(いよ)という女性が、もとは、種崎の御船倉の御用商人川島貞次良(ていじろう)の妻であったから。この川島家の後の当主が、川島猪三郎であったのです。この猪三郎の下の娘の田鶴(たず)と龍馬は、きわめて親しい間柄であった(15歳年下の田鶴が龍馬を慕っていた)といいます。その田鶴が嫁(とつ)いだ相手は、先に出てきた小島亀次郎(謙吉の母の兄、すなわち謙吉にとっては伯父になります)の子である玄吉でした。

 川島猪三郎を間にして、謙吉と龍馬は、遠い縁戚関係にあるのです。

 そういったところから、山田一郎さんは、謙吉と龍馬は少年時代からお互いを知っていたのではないかと推測されています。

 話はもとに戻ります。

 長岡謙吉の妻は、琴(こと)。琴は土佐郡一宮村米元の医師窪添藤七の娘で弘化元年(1844年)に生まれています。兄に、窪添重好(しげよし)という人がいて、明治5年(1872年)に謙吉と琴が相次いで亡くなった後、遺された数え年八歳の娘「やす」は、当時陸軍軍医であったその重好(「やす」にとっては伯父にあたる)に引き取られて成長したとのことです。

 この「やす」が生まれたのは、慶応元年(1865年)の5月3日。

 その時、すでに謙吉は二度目の出奔(脱藩)を決行していました。

 脱藩した後の謙吉の行動については、実はほとんどわかっていません。薩摩藩を頼り、小松帯刀(たてわき・1835~1870)や西郷隆盛(1827~1877)の恩顧を受けたという話もあれば、坂本龍馬や池内蔵太(くらた・1841~1846)に邂逅(かいこう)したという話もあれば、「三港及び上海等に歴遊」した(慶応3年〔1867年〕4月27日、武藤広陵宛謙吉書簡)という話もあります。「三港」とは、おそらく箱館・横浜・長崎のこと。興味深いのは「上海」にも行った、としていること。
 
 山田一郎さんによれば、謙吉のこの上海渡航については、その武藤広陵(土佐藩船「夕顔」の船将・謙吉の親しい友人)宛て書簡以外、確証は何もないとのことです。書簡の記述通り上海に行ったとして、謙吉は何を目的に、上海まで行ったのでしょう。また、箱館や横浜に、何の目的で行ったのでしょうか。それがわかる資料はなにもありません。

 「謙吉は、横浜などを放浪したあと、かつて遊んだことのある鹿児島へ入ったのであろうか」と、山田さんは書かれています。

 「かつて遊んだことがある」というのは、謙吉は、最初に長崎に遊学した際、安政4年(1857年)に、どういう理由でか鹿児島を訪ねているのです。

 実は、坂本龍馬も、文久2年(1862年)に脱藩した際、下関の白石正一郎(1812~1880)方を訪ねた後、鹿児島に向かっています。しかし、なぜか薩摩への入国は出来ませんでした。

 謙吉や龍馬が、なぜ、薩摩の鹿児島に向かったのか。

 それは、「絵師河田小龍からの影響がその背景にあったはずである」と、山田一郎さんは記されています。

 河田小龍(しょうりょう・1824~1898)については、すでにこのブログで触れています(2006.9.30、11.19など)が、ここで、あらためて簡単にまとめておきたいと思います。

 河田小龍は高知城下浦戸町に生まれます。京都狩野派の九代目である狩野永岳に学んだこともある絵師で、嘉永2年(1849年)には長崎に留学して蘭学を学ぶとともに、木下逸雲(いつうん)という絵師に師事しました。この河田小龍に、当時の大目付吉田東洋(1818~1862)から、アメリカから帰国(高知城下堺町の旅籠松尾屋に入ったのは嘉永5年〔1852年7月11日のこと〕)した万次郎(「ジョン・万次郎、中浜万次郎)の尋問が命じられます。

 この尋問により、万次郎の体験が尋常ならざるものであることを知った小龍は、吉田東洋の許可を得て、万次郎を中浦戸町水天宮下の自宅に引き取り、万次郎に対して読み書きを教える一方、万次郎から英語を学びます。それを通して、小龍は、世界を股にかけたアメリカの捕鯨業のこと、万次郎が捕鯨船で立ち寄った世界各地の風俗のこと、万次郎が教育を受けたアメリカの政治や社会のことなどについて理解を深め、『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』を完成させます(嘉永5年〔1852年〕12月)。この『漂巽紀略』は、時の藩主山内豊信(後の容堂・1827~1872)に献上されることになりました。

 嘉永7年(1854年)の8月、小龍は、土佐藩砲奉行池田歓蔵、藩砲術指南役田所左右次(そうじ)、鉄砲鍛冶伊藤丈助らとともに、図引役として、薩摩藩に派遣されます。小龍らは、鹿児島において、反射炉や大砲鋳立(いたて)所などを視察しています。

 鹿児島から、小龍が高知城下に戻って来たのは、同年11月5日のこと。

 この日に起きた大地震(安政大地震)で屋敷が潰(つぶ)れた小龍は、築屋敷の和田伝七宅に落ち着くことになりました。

 その小龍を、龍馬が訪問します。この龍馬に対し、小龍は、派遣された鹿児島での見聞と、自らが海防について考えるところを披瀝(ひれき)します。

 この「鹿児島での見聞」についての話が、龍馬の心を大きく捉(とら)えたのではないかと考えられます。脱藩した龍馬が、なぜ鹿児島に行こうとしたのか。それは、小龍から聞かされた、薩摩藩(鹿児島城下)の「近代工場群」のありさまを、実見するためであったと考えていい。それほどに、龍馬にとって、小龍から聞く薩摩の話は、衝撃的な内容であったに違いありません。

 この小龍のもとに、謙吉が入門してくるのは、謙吉が十二、三歳の頃になります。小龍の近く(小龍と同じく中浦戸町)に住む、謙吉の父の今井孝純が、「これを取り立ててくれ」と謙吉を連れて来るのです。小龍の画室「墨雲洞(ぼくうんどう)」で、少年の謙吉は小龍から『文章軌範』などを教わっています。謙吉が十二、三歳の頃、というと、弘化2(1845年)、同3年(1846年)頃。

 ※小龍の門人としては、後に龍馬の同志となる近藤長次郎(高知城下水通〔すいどう〕町二丁目の餅菓子商「大里屋」伝次の長男)や新宮馬之助(香我美郡新宮村の寺内信七の次男・高知城下本丁筋二丁目で旅籠と陶磁器の焼継〔やきつぎ〕業を兼業する叔母のもとに寄宿して働く)がいます。

 小龍に学んだ後、謙吉は、嘉永元年(1848年)のことになりますが、大坂に出て医学と文学を学びます。そして安政元年(1854年)に帰国。大地震は、その年の11月5日に起こります。

 高知に帰国した謙吉は、龍馬と同じく、鹿児島から戻ったばかりの河田小龍から鹿児島での見聞を聞いたに違いありません。

 それ以来、謙吉には薩摩に関する強い関心が生まれた、と私は考えています。

 最初の長崎遊学の歳、彼が薩摩へ向かったのはそれゆえではなかったでしょうか。

 また二度目の脱藩の際、彼が、薩摩の小松帯刀や西郷隆盛の恩顧を受けることになったのも、その薩摩に関する強い関心が以前からあったからではないでしょうか。

 では、謙吉が(そして龍馬が)河田小龍から聞き、驚愕した、鹿児島城下の「近代的工場群」の実態とは……。

 それについては、次回にまとめてみようと思います。

 では、また。


○参考文献

・『海援隊遺文 ─坂本龍馬と長岡謙吉─』山田一郎(新潮社)
   (長岡謙吉に関する、以上の記述の大部分は、これに拠っています)
・『坂本龍馬 ─隠された肖像─』山田一郎(新潮社) 
・『坂本龍馬の33年』菊地明(新人物往来社)


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