鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.2月の「東海道川崎宿」取材旅行 その3

2007-02-28 22:21:35 | Weblog
 ミュージアム前の広場には、黒い巨大なモニュメントのようなものがありました。宮崎駿(はやお)のアニメに出てきそうな大きな物体。近寄ってみると、これは、NKK(日本鋼管株式会社)から寄贈された「トーマス転炉」というものでした。
 外径約4.2メートル、高さ約7.6メートル、重量約60トン。
 「転炉」というのは、水平軸のまわりに、ある角度だけ回転するようにした、金属を溶かす装置で、製鋼用に使用したもの。
 昭和12年(1937年)に導入し、翌年から昭和32年(1957年)まで、京浜製鉄所で稼動させていたものだということです。

 館内では、ちょうど「みんなのドラえもん展」(1/20~2/25)が行われていたこともあって、やや肌寒い広場には、子ども連れの家族の姿が目に付きました。

 館内に入り、レストラン椿亭で昼食。

 このミュージアムは、「都市と人間」をテーマに、川崎の歴史民俗資料から、川崎ゆかりの美術・文芸作品、都市文化に大きな役割を果たしてきたポスター・写真・映画・漫画など複製技術による芸術作品まで、幅広く展示。常設展は一般500円。

 内部は、「逍遥 展示空間」を真ん中にして、左から「特別展示室」・「歴史民俗」・「グラフィック」・「写真」・「漫画」・「企画展示室」の各コーナーに分かれていました。

 「特別展示室」に入ると、「佐藤惣之助」のコーナーがありました。佐藤惣之助については、すでに触れました。川崎信用金庫の前に「佐藤惣之助生誕の地」の碑があり、稲毛神社境内には「惣之助の詩」の碑がありました。

 佐藤惣之助が生まれたのは、明治23年(1890年)。
 生まれた場所は、橘樹(たちばな)郡川崎市砂子(いさご)175。佐藤家は、かつて本陣を務めた旧家であったこともすでに触れたところです。

 惣之助は、明治44年(1911年)、横浜の真田麻(さなだあさ)輸出商川田邦次郎の長女で、従妹(いとこ)にあたる、幼馴染(おさななじみ)の花枝と結婚。

 この花枝こそ、稲毛神社の「惣之助の詩」の碑に記されている詩の中の、稲毛神社の祭礼の時に、「あえかに粧(よそお)ひて茜(あかね)する都の方」より毎年のようにやってくる「恋しき幼き人」、その人でした。

 「都」はこの場合、東京ではなく、横浜のことになるでしょう。

この花枝は、昭和8年(1933年)1月に死去(44)。
 同年10月、惣之助は、萩原朔太郎(1886~1942・詩人)の妹である周子(かねこ・本名愛子)と再婚します。

 昭和9年(1934年)に「赤城の子守唄」がヒット。その後も多数のヒット曲を生み出し、昭和15年(1940年)、惣之助は、コロンビア・レコードの専属作詞家になります。

 昭和17年(1942年)5月11日、義兄である萩原朔太郎が逝去し、惣之助は葬儀委員長として奔走し、心身とも疲労を重ね、そのため5月15日、レコード会社よりの帰途、脳内出血にて倒れ、その日夕刻死去(51)。18日、東京都大森区雪ヶ谷686の自宅で告別式が行われました。

 惣之助は、多数の流行歌の歌詞を書きましたが、彼自身は、生涯、詩人を以て任じていたとのこと。

 惣之助の歌詞でよく知られているのは、『赤城の子守唄』『人生劇場』『人生の並木道』など。

 あの「阪神タイガース」の応援歌、『六甲颪(おろし)』も、実はこの佐藤惣之助の作詞になるもの。

 一.六甲颪(おろし)に颯爽(さっそう)と
   蒼天(そうてん)翔(か)ける日輪の
   青春の覇気うるわしく
   輝く我が名ぞ
   阪神タイガース
   オウオウオウオウ 阪神タイガース
   フレフレフレ

 作曲は小関裕而(こせきゆうじ・1909~1989)。この人は、昭和5年(1930年)の9月、コロンビア・レコードの顧問山田耕筰(1886~1965)の推薦で、コロンビア専属作曲家になっています。早稲田大学第一応援歌『紺碧(こんぺき)の空』や、読売ジャイアンツの『闘魂込めて』、それに夏の甲子園入場曲『栄冠は君に輝く』の作曲もこの人です。

 ちなみに、私の息子と娘が通った小学校の校歌を作曲した人も、この人でした。

 それにしても、関東出身の佐藤惣之助が、どういう経緯で「阪神タイガース」の応援歌を作詞したのでしょうか。興味あるところです。ご存知の方がおられたら教えて下さい。

 特別展示室には、そのほかに、安田靫彦(ゆきひこ・1884~1978・日本画家)の富士山の写生や下絵、圓鍔勝三(えんがくかつぞう・1906~2003)の若い女性のブロンズ像など、また濱田庄司(1894~1978・川崎市溝の口出身)の焼物(益子焼〔ましこやき〕)などが展示されていました。

 「歴史民俗」コーナーは、川崎宿に絞って見学しました。

 ここには、東海道川崎宿の精巧なジオラマがありました。

 ジオラマを見ると、田中本陣は、平旅籠紀ノ国屋と呉服屋玉尾屋の間、やや街道から奥まったところにあったことがわかります。

 六郷の渡しの手前、江戸に向かって街道左側に「新田屋」(はぜ料理で有名)、右側に「会津屋」、その隣に「万年」(奈良茶飯〔煮た大豆や小豆・甘栗を入れ、緑茶の煎じ汁で炊いたご飯〕で有名)があったこともわかります。

 宿場の出入り口には土居がありました。

 六郷の渡しの常備の渡し船数は、馬船8艘、歩行船6艘。

 問屋場(といやば)の問屋役は、宿駅業務を担当する宿役人。仕事の内容は、本陣休泊の手配・伝馬人足の采配(さいはい)・助郷の触当て・金銭や出役人足の帳付け・荷物重量の点検・川止めの決定と通知等、多岐に渡りました。

 川崎宿の役人構成は、問屋役3名・問屋代4名・年寄5名・帳付6名・人馬指(じんばさし)11名、計29名で、24時間の交替勤務をしていたそうです。

 「歴史・民俗マンスリー展示 川崎の古文書Ⅳ」では、「八王子千人同心関係文書」が展示され、また八王子千人同心の組織図が紹介されていました。

 「特別資料室」では、「昔のくらし、今のくらし ─道具に見るくらしのうつり変わり」展をやっていました。

 ミュージアム・ショップで、北斎の「富嶽三十六景」のクリアファイル2枚、「鳥獣人物戯画」のクリアファイル1枚、川崎歴史ガイド「大山街道ルート」、『「東海道」読本』(川崎市市民ミュージアム)を購入。

 市民ミュージアム前のバス停で東急バスに乗り、15:58発、東横線武蔵小杉駅まで。予定していた「川崎市平和館」は、時間的余裕がないので、また別の機会に。

 武蔵小杉駅でJR南武線に乗り換え(16:19)、登戸駅で小田急線に乗り換えて、駐車場のある小田急座間駅に向かいました。


 以上で、「東海道川崎宿」の取材報告を終えることにします。


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