鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

海援隊文司・長岡謙吉について その3

2007-02-03 21:53:13 | Weblog
 長岡謙吉(かつての今井純正)は、海援隊長の坂本龍馬の右腕とされる人物。海援隊では文司(秘書役)という立場にあって、坂本龍馬のブレーンともいうべき人物でした。

 慶応3年(1867年)、土佐藩船「夕顔」が長崎を出港して兵庫に向かった時、その船中には、海援隊長坂本龍馬、土佐藩参政後藤象二郎、そしてこの長岡謙吉がいました。

 この船中で、彼ら3名は、後世「船中八策」と呼ばれることになる策論の草案を仕上げました。

 山田一郎さんは、『海援隊遺文』で次のように書いています。

 「海援隊文司の長岡謙吉は、象二郎と龍馬の間のやや後ろに座っていたのだろう。彼は隊内随一の学識と筆力の持主だとされていた。謙吉は龍馬の解説、象二郎の質問など、二人の応答を注意深く筆記し、また自分の意見も述べた。そして簡潔に、要領よく議論の一つ一つをまとめていく作業をつづけた。(中略)『船中八策』の起草や、山内容堂の『大政奉還建白書』の草稿、海援隊発行の『藩論』の筆者、またはその一人というように、長岡謙吉の名は幕末維新史の裏面にしばしば登場するのだが、その実像は意外に分かっていないのだった。謙吉の思想は自由民権運動とも深くかかわっていると思われるけれど、彼の肖像はどうしてか独立して描かれたことはない」

 山田さんによれば、長岡謙吉の写真は、高知市仁井田(にいだ)の川島家に3枚保存されていて、1枚は長崎、1枚は京都、もう1枚は東京で撮影されているとのこと。

 その内、長崎で撮影された写真が、『海援隊遺文』P13に載っています。少し斜め向きの立ち姿。紋付、白い縦縞の袴、高下駄、大小二本差し、襟元にワイシャツと黒いネクタイ。表情は柔和で、頭髪は薄くて縮(ちぢ)れ毛。
 この写真は、長崎の写真師上野彦馬か、その弟子の井上俊三(土佐藩・医師出身)が写したもの。慶応3年(1867年)の春頃に撮影されたものではないか、と山田さんは推測しています。

 上野彦馬は、坂本龍馬の写真(慶応3年の1月に撮影されたものと推測されている)や後藤象二郎の写真も撮影しており、『上野彦馬歴史写真集成』(渡辺出版)のP19とP18にそれぞれ掲載されています。

 長岡謙吉の写真は、『坂本龍馬の33年』(菊地明・新人物往来社)にも出てきます。P76に2枚。
 1枚(京都井口家蔵)は、羽織・袴・高下駄。脇差を腰に帯び、右手に長刀の先を床につけ、杖のように持っています。左手に長袖シャツがのぞいています。髪は散切り。
 1枚は晩年のもの(京都井口家蔵)。羽織を着て、両手を膝の上で合わせています。やはり散切り。
 さらにP79に1枚。これは集合写真で、左から、長岡謙吉・溝淵広之丞・坂本龍馬・山本洪堂(複輔)・菅野覚兵衛(千屋寅之助)・白峰駿馬が写っています。
 この集合写真でも、長岡謙吉は長袖シャツを着ているのがわかります。

 この長岡謙吉に私がこだわる理由は、中江兆民(篤助)が長崎に留学(新町の済美館でフランス語を学ぶ)した際に、兆民は海援隊長の坂本龍馬とともに、この長岡謙吉にも出会っているはずだからです。

 兆民が、長崎で坂本龍馬に会っていることははっきりしています。

 幸徳秋水が『兆民先生』で、次のように述べています。

 「先生(中江兆民のこと)曾(かつ)て坂本君の状を述べて曰(いわ)く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ。予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛(なま)りの言語もて『中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふてきてオーせ』などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき」

 「屡々なりき」ということは、兆民は、坂本龍馬のもとに頻繁に出入りしていたということになります。その龍馬の傍らには、海援隊文司長岡謙吉がいたことでしょう。

 この長岡謙吉は、明治4年(1871年)7月に、当時工部大輔の後藤象二郎の周旋で工部省に出仕し、後藤のブレーンになっていますが、翌年6月11日に胃潰瘍(いかいよう)のため逝去します(妻琴は翌月10日に、謙吉の跡を追うように死んでいます。夫妻の葬儀は、友人・門弟によって執り行われ、芝増上寺塔頭〔たっちゅう〕安養院に葬られました。娘の「やす」は、その後いったいどうなったのでしょうか)。

 この長岡病死のことを、当時フランスのリヨンに留学中の兆民は、故国からの手紙により知らされます。

 彼は、1872年(明治5年)11月25日(西暦)の母柳(りゅう)宛の絵はがきで次のように書きました。

 「…篤介ことつねよりハなほそくさい相くらし居申候(おりもうしそうろう)ゆへすこしもすこしもおんきづかいなされまじく候…いかさまハ長岡びようし(病死)のよしおどろきいり申候 なにぶんおんからだたいせつだいいちのことに御座候… 仏国リヨン府 篤助(花押) 御母上様 虎馬さま」

 ちなみに「虎馬(とらま)」は、兆民の五歳年下の弟のこと。

 「長岡」とは、長岡謙吉のことに違いありません。母宛に「長岡びようしのよしおどろきいり申候」と書いているということは、母柳(りゅう)も「長岡」のことを知っていた可能性が高い。

 このことからも、中江兆民と長岡謙吉の間に交友(親交)があったことが伺えるのです。この長岡との交友は、長崎留学時代から始まっていると考えていいと思います。もしかしたら、高知城下にいる時から、兆民は浦戸町の町医者の息子である長岡謙吉(今井純正)を知っていたかも知れません(今井純正の姉の嫁ぎ先は、兆民の住む山田町の徳弘荘助でした。つまり徳弘荘助は、今井純正の義兄にあたります。純正の父は孝純で、町医者から藩医となりました)。

 長岡は、「藩論」において、「人心」の重視と、人民の「入札(いれふだ)」(選挙)による人材登用・人材抜擢を唱えています。つまり西洋の選挙制度を取り入れることを主張しているのです(「西洋文明ノ各国多クコノ法アリ」としています)。
 この長岡の考えが、(おそらく長崎において)兆民に伝えられている可能性は十分にありうることなのです。

 その長岡が「病死した」という知らせは、リヨンにいる兆民にとって大きなショック(「おどろきいり申候」)だったのです。

 坂本龍馬や長岡謙吉の、兆民に与えた思想的影響は大きなものであったと私は思っています。兆民には、藩校文武館(致道館)教授の細川潤次郎からの思想的影響がありました(細川からは、中浜万次郎のアメリカにおける見聞についても聞いているはず)。その上に、坂本龍馬や長岡謙吉からの思想的影響があったであろうと私は思っています。

 山田一郎さんは、『海援隊遺文』で、千頭清臣の『坂本龍馬』と、大佛(おさらぎ)次郎の『天皇の世紀』の文章を引用していますが、孫引きになりますが、その二つの文章をここで紹介しておきます。

 「ある時、龍馬、海援隊の船にありて外人舶載の一小冊子を手にし、隊士をしてこれを口述せしめけるに、欧米諸国の憲法に関するものなり。龍馬大いに喜び熟考翫味(がんみ)、その暗示によりて自ら一説を作り、秘書長岡謙吉をしてこれを書せしむと。是れ即(すなわ)ち『藩論』なり」(千頭『坂本龍馬』)

 「長岡は龍馬に上下両院論を外国書から伝えた男で、どこまでが龍馬の所論で、どこまでが長岡の意見か不明だが、当時、日本の藩制に対して、この『藩論』に示されたほど、自由な批評を下したものは見られず…」(大佛『天皇の世紀』)

 
 今回はここまでにします。

 次回は、長岡が、二度目の脱藩をし、龍馬と出会うところまでをまとめてみたいと思います(山田一郎さんの『海援隊遺文』をもとにして)。

 では。


○追記

 上野彦馬の弟子、井上俊三については、前田秀徳さんの『龍馬、原点消ゆ』に「あの龍馬の撮影者はだれだ?」という題で、興味深い記述がありました。有名な、龍馬の立ち姿の写真です。
 それによると、井上俊三は、高知城下筆山(ひつざん)の下の要法寺町で医者をしていましたが、慶応元年(1865年)、藩命により化学修行のため長崎に赴きました。その時、南蛮渡来の写真術に引き込まれ、写真家・上野彦馬の弟子になりました。オランダ人ハラタマにも手ほどきを受けました。年齢は龍馬より一つ上。

 前田さんは、次のように書いています。

 以前、井上俊三のご子孫との会話の中で、「龍馬の立ち姿の写真」について、さまざまな話を聞くことができた。以下が、驚くべき証言である。
〈よく目にする龍馬の写真は、師の彦馬が撮った写真と世間では言われている。しかし、私の家で伝わっている話はそれとは異なる。龍馬と同郷で、親しい間柄であった俊三が、今でいうテスト撮影という感じで、寝ていた龍馬を起こして撮ってやると声をかけた。それならと龍馬は自分で見せたい短刀を一つ腰に差し、撮影してもらった。場所は長崎と聞いている〉

 この「龍馬の立ち姿の写真」の龍馬の右腰に下げている物は、金属製のホイッスル(笛)だということも、前田さんは明らかにしています。このホイッスルを、龍馬はどういう時に使っていたのでしょうか。興味深いことです。

 また、井上俊三の肖像写真〈右胸下に懐中時計〔写真家として撮影時間を計るもの〕のネジが下がっている〉がP337に載っています。この人物が、龍馬の写真(立ち姿)を撮った人なのでしょうか。ともあれ、龍馬が長崎で接した土佐人の一人であることは間違いないことでしょう。


○その他の参考文献
・『中江兆民全集 16 書簡』(岩波書店)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館) 


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