鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.2月の「東海道川崎宿」取材旅行 その2

2007-02-23 22:29:43 | Weblog
 県立川崎図書館を出て川崎駅の方に戻り、立体交差橋を渡って右側の稲毛公園へ。
 公園内には、それぞれ「たまがわ」「ろくごうはし」と刻まれた六郷橋の欄干の親柱や、「平和の塔」がありました。

 ガイドパネルによると、この稲毛神社は川崎市屈指の古社であり、慶応4年(1868年)までは「河崎山王社」と呼ばれていたそうです。ここにはかつて弁天池があり、その中の島には和嶋弁財天が祭られていましたが、その池は、川崎の発祥とも言うべき河崎氏の居館の堀跡でした。河崎冠者基家は、平安時代にこの地に移り住み、荘園を開いて、その子重家との2代に渡ってこの地を支配していましたが、その居館の跡がこの稲毛神社界隈にあたるとのこと。

 参道を通って稲毛神社の境内に入ると、「史跡東海道川崎宿稲毛神社」のガイド・パネルがあり、その右に「惣之助の詩」の碑がありました。刻まれている詩は以下の通り。

 祭の日は佳(よ)き哉(かな)
 つねに恋しき幼き人の
 あえかに粧(よそお)ひて
 茜(あかね)する都の方より        
 来る時なり

          「祭の日」抄

 「惣之助」というのは、佐藤惣之助のこと。「川崎宿その1」で触れましたが、かつて川崎宿の本陣であった佐藤家に生まれた詩人(作詞家)。この人については、午後に訪れた川崎市市民ミュージアムで詳しいことを知ることになります。

 正岡子規の句碑もありました。句は、

 六郷の 橋まで来たり 春の風

 でした。

 正岡子規(常規〔つねのり・1867~1902)は、明治27年(1894年)の春・秋と、明治33年(1900年)に川崎を訪れ、大師(川崎大師)詣(もうで)の道すがら、多くの俳句を詠んだとのこと。

 川崎や 畠は梨の 帰り花
 川崎や 小店小店の 梨の山
 多摩川を 汽車で通るや 梨の花
 麦荒れて 梨の花咲く 畠哉(かな)

 この時代も、この川崎界隈には、広く梨が栽培されていたことが、以上の子規の歌からもよく伺うことが出来ます。おそらく子規は、大師詣の土産として梨(新種の、甘い長十郎梨)を買って帰ったことでしょう。

 境内の「御神木大銀杏(いちょう)」は、樹齢なんと約千年。「山王さまの大銀杏」として知られていましたが、昭和20年(1945年)に空襲を浴びて損傷。現在は、6メートルほどの高さのところで幹は切られています。周囲には、十二支のブロンズ像がありました。

 境内には、ほかにニヶ領用水の改修で知られる田中休愚(1662~1729)が勘定支配格に登用された時、手代衆らによって奉納された「手洗石」や、「小土呂(こどろ)橋遺構」がありました。説明によると、この小土呂橋は、川崎市内の数少ない近世石造橋の中でもその年代が最も古く、また規模も大きいもの。長さ三間(約5.5メートル)、幅三間。説明には、以下の記述がありました。

 「かつてこの橋の上を歴代の将軍や大名が通り、オランダ・朝鮮・琉球の使節が渡り、ハリスも勝海舟も、象や虎さえも通った」

 その情景を想像しながら、小土呂橋の遺構(石板)の上に、そっと乗ってみました。

 11:05に稲毛神社を出て、市役所通りに戻り、三井住友銀行の角を右折。

 「川崎歴史ガイド 旧東海道・川崎宿」の案内板がありました。
 
 しばらく行くと、左手に「砂子(いさご)の里資料館」がありましたが、残念ながら本日休館の掲示。休みは日曜日だったはずだが、と思いつつ、その前に立っているガイド・パネルに目を通しました。砂子の里資料館の館長斎藤文夫さんによる川崎宿の案内文。

 それによれば、徳川家康が東海道に39宿を定めたのは慶長6年(1601年)。川崎は、品川宿と神奈川宿の「合(あい)の宿」でしたが、元和9年(1623年)、3代将軍家光の時代に宿駅に追加制定されました。

 六郷大橋は長さ109間(約200メートル)。江戸三大橋の一つとして架けられましたが洪水で流失し、元禄元年(1688年)から船渡しとなりました。

 「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀のよね饅頭」と唄われたように、川崎宿は「万年」という茶店と、「よね(米)饅頭」が有名でした。

 明治5年(1872年)、新橋~横浜間に鉄道が開通。その中間に川崎駅が設けられました。

 砂子の里資料館の館長斎藤さんの説明文の最後は以下の通り。

 「当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また昭和二十年(1945年)四月の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石造物から、わずかに往時の川崎を偲(しの)ぶのみである」

 樹齢千年を誇り、川崎宿の変遷を見続けてきた「山王さまの大銀杏」も、大空襲により炎上したのです。

 通りを進んで左に入ると「史跡東海道川崎宿 宗三(そうさん)寺」。宗派は曹洞(そうとう)宗。墓地の西北の隅に、椿の木と花を背に「紅燈巷女万霊供養塚」。「川崎今昔会 川崎貸座敷組合」とありました。川崎宿の飯盛女(遊女)の供養塚。吉田楼・三浦屋・高塚楼などの茶屋の名前が刻まれているとのことですが、そのことを知らず、確認はしませんでした。かたわらの塀の向こうには、京急川崎駅がほんそばに見えました。

 川崎本町郵便局前を過ぎ、左手に「田中本陣と休愚」のガイド・パネル。
 田中本陣は、寛永5年(1628年)に設けられた宿内最古の本陣。田中本陣は、佐藤本陣が「上の本陣」と言われたのに対して、「下の本陣」と言われました。門構え、玄関付きで231坪。佐藤本陣181坪より一回り大きい本陣でしたが、幕末にはかなり衰微していたらしく、アメリカ総領事ハリスが、安政4年(1857年)に川崎宿に泊まる際に、田中本陣のあまりの荒廃ぶりを見て、宿を「万年」に代えたという話が残っているようです。
 「休愚(きゅうぐ)」とは田中休愚のこと。幕府に勘定支配格として登用され、またニヶ領用水の改修にも尽力した田中本陣の主人であった人物です。問屋・名主として川崎宿の復興にも大いに尽力し、川崎宿や六郷の渡しの歴史を語る際に欠かすことの出来ない人です。

 通りを進んで、第一京浜の六郷橋の下を潜ると、「万年横丁 大師道」の碑。「万年」前から川崎大師への参詣客が通った道は「万年横丁」と呼ばれて、往時は大変賑わったそうですが、今はまるでその面影はなし。
 「万年」というのは、幕末のはやり歌で、「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、富士屋…」と言われた、六郷の渡しの下手土居にあった一膳飯屋で、「奈良茶飯」がその名物でした。繁盛して宿内一の茶屋となり、さらに旅籠(はたご)も営むほどになり、その規模や設備は本陣をも凌(しの)いだと言われます。ハリスが、田中本陣ではなく、この「万年」に宿泊したことは先に述べたところです。

 私はこの「万年横丁 大師道」をさらに川崎大師の方へ進んでしまい、「富士紡績と競馬場」のガイド・パネルの立っているところまで来て、行き過ぎたことに気付き、来た道を戻って第一京浜の六郷橋の手前を右折。

 多摩川(六郷川)に出ました。

 川を望む堤防の上に、「長十郎梨のふるさと」のガイド・パネル。

 それによると、多摩川沿いにはかつて梨畑がどこまでも続いていました。明治の中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれ、発見者当麻辰次郎の屋号をとって「長十郎」と命名されたこの梨は、川崎からやがて全国に広がったということです。

 ここ多摩川(六郷川)には、慶長5年(1600年)に六郷大橋が架けられましたが、元禄元年(1688年)7月の洪水に流されてしまい、それ以後、明治7年(1874年)の左内橋(木造橋・八幡塚村名主鈴木左内が築造)の架設まで186年の間、「六郷の渡し」が続きます。
 
 しかし見下ろす川面にも河岸にも、当然のことながらなんの痕跡もありません。
 
 ※歌川広重の有名な「東海道五十三次」の「川崎宿」には、六郷川の渡し舟の情景が描かれています。

 堤防から下に下りて、六郷橋の下を潜りました。橋の下には、ホームレスの人たちの屋根なしの寝床が並び、その一つの蒲団からは、寝ている男性の頭と足がのぞいていました。

 堤防の上に上がって、六郷橋の歩道を歩いて多摩川を渡ります。

 東京(大田区)側の広い河原にはホームレスの人たちの小屋が点在し、その向こうにゴルフ練習場があり、ショットの練習をしている人たちが数珠(じゅず)なりになっています。その向こうの鉄橋の下にも、ブルーシートで覆われた小屋が点在していました。

 六郷橋の東京側の欄干の上には、「渡し舟」の飾り。
 
 橋を渡り終える手前で堤防に下りると、左下に小さな神社があり、境内に紅梅が咲いていました。「止め天神」といわれる神社でした。ここはもう東京都。大田区仲之郷四丁目になります。

 第一京浜の橋の下に「多摩川六郷橋緑地」(大田区立宮本台緑地)があり、六郷橋の旧橋の橋門と親柱が、当時の姿のまま保存されていました。

 そこから繁華街に出て、左折して京急六郷土手駅に到着(12:36)。

 7:12に京急鶴見駅を出て、ここまでおよそ5時間半。思いのほか、時間がかかりました。

 ここ六郷土手駅から京浜急行に乗り、中原区にある川崎市市民ミュージアムへ向かうのですが、それについては、次回に回すことにします。

 では、また。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿