鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

海援隊文司・長岡謙吉について その5

2007-02-11 05:35:34 | Weblog
 河田小龍が、土佐藩砲奉行池田歓蔵、土佐藩砲術指南役田所左右次(そうじ)らとともに薩摩藩に派遣されたのは、嘉永7年(1854年)の8月。

 彼らが視察したのは、大砲鋳立(いたて)所(大砲鋳造のための大反射炉がある)・桜島工作場(瀬戸の造船場)の西洋式軍艦・集成館・写真研究所などでした。

 この5年後、安政6年(1859年)に、土佐藩下級藩士の今井貞吉がガラス製法を学ぶために、藩命により鹿児島に派遣されていますが、まず、参考までにその行程の概略をまとめてみます。

 2.18高知出立
 2.22宇和島到着 
3.15長崎着
 3.28長崎出立
 4.16鹿児島到着(土佐藩砲術指南役田所左右次がしたためた薩摩藩軍賦役徒目付〔かちめつけ〕田原直助宛ての紹介状を携行)
 4.21田上の機械紡績工場を見学
 5.11鹿児島出立
 6.8高知帰着
 6上旬に吉田東洋に復命。「和戦いづれにせよ洋船を備えることが目下の急務」と訴える。

 20日ばかりの鹿児島滞在ですが、今井貞吉は、ガラスの製造法を研究するとともに、鹿児島城下の工場群や桜島の造船場を見学したことでしょう。その結論が、「和戦いづれにせよ洋船を備えることが目下の急務」ということでした。

 河田小龍や今井貞吉らが視察した鹿児島の工場群は、島津斉彬(なりあきら・1809~1858)が薩摩藩第二十八代藩主となり、初めて藩主として鹿児島城下に到着した頃から、その建設が始まっています。

 嘉永4年(1851年)、斉彬は、鹿児島城内の花園をつぶして設けた精錬所で、肥後七左衛門・宇宿(うすき)彦右衛門・市来正右衛門らに船舶用蒸気機関の雛型(ひながた)を作らせます。

 7月30日に、万次郎が琉球から鹿児島城下に送られてくると、軍賦役(ぐんぷやく)田中清左衛門・側用人田原直助に命じ、造船・航海・測量・捕鯨等の知識を吸収させています。そしてその年10月には、磯の龍洞院前の海浜で、洋式の3本マストの帆船の建造が始められます。

 嘉永5年(1852年)の冬には、磯の別邸に隣接する竹林を切り開き、西洋式の反射炉の建造が始められます。

 この磯の地には、反射炉・熔鉱炉(嘉永7年〔1854年〕7月に完成)や鑚開台(さんかいだい・大砲の砲身に、砲弾を詰める砲腔を開けるための中ぐり盤・安政2年〔1855年〕に完成)、硝子(ガラス)工場(銅赤硝子窯〔がらすかま〕2基・金赤硝子窯2基・クリスタル硝子窯1基・板硝子製造窯数基)、鍛冶場(かじば)、蒸気機関製造所、金物細工所、鍋釜製造所などの工場群が次々と作られていきました。

 嘉永6年(1853年)の5月には、桜島瀬戸村の造船場において、西洋型軍艦「昇平丸」(約370トンの排水量)の建造が始まっています。

 磯の熔鉱炉が完成したのは、嘉永7年(1854年)の夏。

 また、この夏には、牛根(今の垂水〔たるみず〕市)で全長24間(約43メートル)の洋式大型帆船「大元丸」と「承天丸」、桜島の造船場では全長20間(約36メートル)の洋式大型帆船「鳳瑞(ほうずい)丸」と「万年丸」の建造が始まりました。

 土佐藩から派遣された河田小龍が、鹿児島で目撃したものは、以上のような工場群でした。

 小龍が目の当たりにした反射炉・熔鉱炉は、オランダ陸軍のヒューゲニン少将が著した「ルイク国立鋳砲所における鋳造砲」の図面に基づいて忠実に造られたものでした。火床(ロストル)で燃料を燃やし、その熱を耐火煉瓦で造られた壁に反射させ、炉床の銑鉄(せんてつ)を溶かします。数万個の耐火煉瓦は、薩摩焼の陶工が、天草の土を使って作り上げたもの。炉床の下には、通気用の炉下空間が施してありました。

 反射炉に隣接して、鋳台がありました。大砲の鋳型が置かれ、反射炉から溶け出た真っ赤な銑鉄がその鋳型に導かれ、やがて固まると、その鋳型から大砲が取り出されます。水車動力を用いて、砲身の中ぐりをする鑚開台(さんかいだい)は、安政2年(1855年)に完成といいますから、小龍は見てはいません。

 小龍は、牛根には行っていないでしょうが、桜島瀬戸村の造船場に案内されました。そこでは西洋式大型帆船の建造が始まったばかりでした。

 小龍ら土佐藩士が鹿児島に滞在している間に、薩摩藩主島津斉彬は、幕府に対し、大船建造の禁を解き、蒸気軍艦の建造を許可するよう要求しました。幕府は、その斉彬の要求を入れ、翌9月、万石以上の大名に対し慶長14年(1609年)以来の大船建造禁止令を解きました。

 これにより、薩摩藩は、大船12艘、蒸気船3艘の建造計画を発表。このうち2、3艘を幕府に売却することを条件に、これらの船の建造について幕府の許可を得ることとなりました。

 これらのことを、鹿児島滞在中の小龍は見聞したのです。

 反射炉や熔鉱炉の構造・鋳台における大砲の鋳造・蒸気機関の製造(斉彬が蒸気船と蒸気機関の模型の製造を命じたのは嘉永7年〔1854年〕の3月という)・造船場における西洋式大型帆船の建造・蒸気船の建造計画…。

 小龍は、驚きの連続だったに違いない。

 安政4年(1857年)に、長崎から鹿児島に赴いた長岡謙吉(今井純正)も、また安政6年(1859年)に高知から鹿児島に赴いた今井貞吉も、小龍同様、それらを目の当たりにして驚きの連続だったはずです。

 小龍が視察した嘉永7年(1854年)の夏以後、薩摩藩の「近代的工場群」の推移は次のようなものでした。

 安政元年(1854年)12月、桜島の瀬戸の造船場で建造されていた西洋式大型帆船(軍艦・「琉球大砲船」・後に「昇平丸」と命名される)が完成。3本マストで全長17間(約31メートル)。排水量370トン。砲16門。この「昇平丸」の試運転は、鹿児島前之浜で行われ、後にこの「昇平丸」は幕府に献上されて「昌平丸」と改称されます。

 安政2年(1855年)10月、硝子製造所が磯に完成し、色硝子・水晶硝子・板硝子の製造が行われます。これらの硝子は「薩摩玻璃(はり)」と命名されました。

 安政3年(1856年)1月、幕府注文の御用船「大元丸」と「鳳瑞丸」、それに藩用御手船の「承天丸」と「万年丸」が完成しました。

 安政4年(1857年)閏5月、斉彬は、磯の工場群を「集成館」と命名。
 この頃までに、反射炉・熔鉱炉・鑚開台などはすべて完成しており、当時の最大砲である150ポンド砲の鋳造に成功しています。また蒸気船の雛型もほぼ完成に近づいていました。

 集成館掛(かかり)の役人は、宇宿(うすき)彦右衛門・中原直助・市来正右衛門(四郎)ら。ここで働く労働者は、およそ1200名に及びました。

 安政4年7月、斉彬は、蘭学者の松木弘庵(1832~1893・後の寺島宗則〔むねのり〕)・八木弥平に、ガスの製法やガス灯に関する書籍の翻訳を命じ、その翻訳書を手掛かりに、集成館内大砲鑚開台場で、その実験を行います

 同8月、斉彬は、磯の別邸の浴室付近にガス管を設け、庭内の鶴灯籠にガス管を引いて点灯させました。斉彬は、鹿児島城下にもガス灯を設置しようという計画さえ持っていました。

 安政5年(1858年)5月、斉彬は、咸臨丸(かんりんまる)で鹿児島を訪問(2度目)した木村喜毅(よしたけ・介舟・1830~1901)・勝麟太郎(海舟・1822~1899)・カッテンディケらオランダ人教師十数人を磯邸に招待。
 勝麟太郎らは、蒸気船・鶴江崎鋳製所・祇園洲台場・集成館工場群・水車を動力とする機械紡績工場・電信機・蒸気船の模型・蒸気機関の模型などを見て回ります。

 木村や勝らにとっても、案内される壮大な「近代工場」や「近代機器」の一つ一つが、驚きの連続であったことでしょう。

 この年、斉彬は、集成館に、「シャーフル・ライフル」(西洋最新式の騎兵用元込〔もとごめ〕銃)3000挺の製造を命じています。

 しかしこの集成館を造り上げた斉彬は、この年7月8日、城南天保山調練場に赴き、城下諸隊連合の大小砲術操練を指揮した後、発熱して腹痛を訴え、ついに16日の明け方に死去してしまいます。

 翌安政6年(1859年)の4月、鹿児島に赴いた今井貞吉は、池田武八というものから、島津斉彬のことについて次のような話を聞いています。

 「前主順聖君(斉彬のこと)は英才抜群、…長じたのちには臣を愛し民を撫(ぶ)し、兵術を開き富国たらんと精励し、君自ら横文に通じ兵器、火術皆西欧に学ぶ。君は『彼の西洋の術に勝(まさ)る者あれば即(すなわ)ち捨てん』と言われ西洋の文物をとり入れた。君が藩主となってからは国風は一変し、文武両(ふたつ)ながら君を以て師とし臣を以て弟とし上下の心が一つとなった。志を持つものは卑商賤農身分の上下を問わず皆同席して理を論じ、薩摩以外の他邦人にも連席を許した。術を開くにあたっては万金を惜しまず費したが、日常の私生活は質素で、身分の低い者の衣笠履(きぬかさはきもの)にいたるまで値段を知っておられた。薩摩の万民は父母のように慕っていた。昨秋天命を以て急逝され、それ以来文武機術殆(ほと)んど衰えようとしている」

 また宇宿(うすき)彦右衛門からは次のような話を聞いています。

 「去1858(安政五)年七月八日斉彬公は鹿府城(鹿児島城)南甲突川沿いの天保山調練所で諸隊の連合大操練を監督した日より発病し、同月一六日遂に不帰の人となった。それ以来事情は一変し、集成館は引き続き継続はしているが、現在非常に混乱しており、集成館を御覧に供せる状況ではない」

 これらの話により、集成館は、斉彬の死後、引き続き操業しているものの、斉彬の在世の時に較べるとかなり生産規模が縮小していることがわかります。

 この集成館は、文久3年(1863年)の「薩英戦争」(生麦事件をきっかけとして起こる)で、ことごとく炎上してしまうことになります。

 さて、話は、長岡謙吉に戻ります。

 嘉永7年(1854年)の暮れ、謙吉は、鹿児島視察から戻って来た小龍から、薩摩鹿児島城下の驚くべき「近代工場群」や蒸気船の話を聞き、彼もおそらく(龍馬と同じように)大きな衝撃を受けたことでしょう。

 安政4年(1857年)に、遊学地の長崎から鹿児島を訪問(どういう伝手〔つて〕があったのでしょうか?当時、他藩の者が薩摩藩領に入るのはよほど困難なことであったに違いない)した謙吉は、磯の集成館を目の当たりにしたはずです。そこには1200人に及ぶ人々が働いていました。150ポンド砲という当時最大の大砲が造られ、蒸気船の雛型も完成に近づいていました。桜島瀬戸の造船場では巨大な西洋式帆船が造られていたことでしょう。

 土佐藩のはるか先を行く薩摩藩の実情を見て、ショックの余り、打ちひしがれるような思いを味わったかも知れません。

 当時薩摩藩には、多数のお抱え蘭学者(川本幸民・松木弘庵・八木弥平・石川確太郎ら)と技術者集団(宇宿彦右衛門・市来正右衛門・田原直助・山本弥吉・肥後七左衛門・梅田市蔵・三原藤五郎・阪与一ら)が存在し、食塩・氷砂糖・電信機・耐火煉瓦・硝子・綿火薬・硫酸・硝酸・樟脳(しょうのう)・鉱山発掘の際の爆破法・ガス灯・蒸気機関などの研究が行われていました。

 それらのことについても、おそらく謙吉は耳にしたことでしょう。

 謙吉は、そのような薩摩藩に対する強い関心を、以後持ち続けたであろう、と私は思っています。

 2度目の脱藩を謙吉が決行した時、彼が薩摩藩に接近する(脱藩した坂本龍馬がそうであったように)のは、以上のような事情があったからではないでしょうか。


○追記

 斉彬は『遠西奇器術』という本を読んで、写真や電信機、また西洋流の造船術について関心を深めました。この『遠西奇器術』という本は、蘭学者川本幸民(こうみん)の口述を、門人の田中綱紀(つなのり)が筆記したもので、原本は弘化元年(1844年)にオランダで出版されたP・ファン・デル・ブルクの『理学原始』でした。

 内容は、「直写影鏡」(グデウロテーピー)・「伝信機」(テレガラーフ)・「蒸気機」(ストームシキップ)・「蒸気車」(ストームワーゲン)の、原理・構造・利用の仕方・技術上のことを記したもので、それらの仕組みの分かる断面図まで載っていました。

 川本幸民(こうみん・1810~1871)は、文化7年(1810年)摂津国有馬郡三田(さんだ)で生まれました。文政12年(1829年)幕府の命により江戸に出て蘭学を学び、坪井信道(しんどう・1795~1848)の門に入ります(後に「坪井信道門下の三哲」と言われます)。安政3年(1856年)に蕃書調所の教授手伝(てつだい)に抜擢(ばってき)されていますが、安政4年(1857年)に、奥医師という名目で薩摩藩に迎えられます。幸民は、薩摩藩が所蔵していた膨大な蘭書の翻訳を行います。

 斉彬は安政4年(1857年)、お抱え蘭学者である川本幸民や松木弘庵らが蘭書の手引きをもとにオランダから取り寄せたカメラと薬品類を使い、薩摩藩士の市来四郎(正右衛門)・宇宿彦右衛門らに、ダゲレオタイプ(銀板写真)で自らを撮影させることに成功します(この写真は、1999年に文化庁から写真において初の重要文化財に指定される)。

●主要参考文献
・『今井貞吉』間宮尚子(高知市民図書館)
・『島津斉彬』綱淵謙綻(PHP)
・『島津斉彬公伝』
・『日本洋学人名事典』武内博編著(柏書房)
・『汐留・品川・櫻木町駅百年史』
・インターネット
  「川本幸民」
  「技術のわくわく探検記」─「鹿児島・藩政時代の技術遺産めぐり~尚古集成館」
 


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