鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民の蘭学教師・萩原三圭について その1

2007-02-16 05:34:34 | Weblog
 中江兆民の洋学の師の一人萩原三圭は、天保11年(1840年)の11月11日に、土佐国香美(かみ)郡深淵村に、医師萩原復斎の子として生まれています。
 
 香美郡深淵村というのは、現在の香美郡野市町深淵になります。
 地図を見ると、高知市の東、物部川の中流域東側。国道55号の物部川に架かる橋、物部川橋の北東部になるでしょうか。野市町の中心街やや北側に「龍馬歴史館」という施設があるのが目に付きます。

 「三圭」という名は、「天保十一年十一月十一日」という生年月日に由来しているのでは、と『萩原三圭の留学』の著者である富村さんは推測されています(「十」と「一」で「土」になる。「土」二つで「圭」となる)が、おそらくその通りでしょう。

 三圭は、安政3(1856年)、4年(1857年)頃、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、その後、安政6年(1859年)2月25日に大坂の適塾に入ります。数えで20歳
の時になります。

 適塾は、緒方洪庵(1810~1863)が、それまで大坂瓦町に開いていた「適々斎塾」を、天保14年(1843年)12月に過書(かいしょ)町に移したもの。その塾からは、村田蔵六(大村益次郎・1825~1869)・橋本左内(1834~1859)・長与専斎(1838~1902)・福沢諭吉(1834~1901)など、錚錚(そうそう)たる人物が輩出しているのは、よく知られていることです。

 三圭が適塾に入門した時の塾頭は長与専斎。

 長与専斎は、天保9年(1838年)肥前国彼杵(そのぎ)郡大村に生まれ、嘉永7年(1854年)6月28日に適塾に入っています。したがって、適塾では、この長与専斎は三圭の5年先輩ということになります。歳の上では2歳上。

 ちなみに福沢諭吉が適塾に入門するのは、安政2年(1855年)3月9日のこと。

 福沢は、師である緒方洪庵を慕い、文久3年(1863年)6月10日、洪庵急病の知らせを得ると、「取るものも取敢(とりあ)へず即刻宅を駆出(かけだ)して其時分には人力車も何もありはしないから新銭座から下谷まで駆詰(かけづめ)で緒方の内に飛込んだ」と後年、語っているそうです。
 
 富村さんによると、萩原三圭が適塾でどういう生活を送ったか、またいつまで適塾に留まったか、そしていつ高知に戻ったのか、とかいった点についても、何の資料も残されていないとのことです。

 高知に戻った三圭は、藩校文武館で、細川潤次郎に代わり蘭学を教えていた可能性があります。飛鳥井雅道さんの『中江兆民』(吉川弘文館)に紹介されている小島祐馬(おじますけま)さんの説によると、文武館の「開設当時の職員名のなかに入っていないところを見ると、開設一、二年の後に助教にでもなったものであろうか」ということですが、兆民が「三圭に蘭学を学んだ」としていることを考えると、おそらく小島さんの言われる通り、文武館で「蕃学」を教える助教あたりであったろうと、私も思っています(教授は何かと多忙な細川潤次郎)。

 兆民が文武館で、どれほど蘭学に取り組んでいたかは、まったくわかりません。また英学にも相当励んだようですが、これについても何の資料も残されてはいません。

 兆民は、慶応元年(1865年)9月に、「英学」修行のため長崎への派遣を命ぜられます。兆民の「英学」に対する真剣な取り組みが評価されたといっていいでしょう。

 では、兆民の「蘭学」の師であった萩原三圭は、どうなっているのでしょうか。

 彼の名前は、思わぬところに登場します。『岩崎弥太郎日記』の慶応3年(1867年)5月20日の記述の中に、

 「萩原静安ノ子三圭、当分御雇(おやとい)ヲ以(もって)御臨時御用被仰付様(おおせつけらるよう)、参政より被命(めいぜられ)…」

 とあります。
 ここで出てくる「参政」とは、後藤象二郎のこと。当時、後藤も岩崎も長崎にいます。その後藤より、三圭は、「御雇」という身分で「臨時御用」を命ぜられたというのです。

 「臨時御用」の内容がどういうものであったかは、この短い記述からはまったくわかりませんが、三圭が医者の息子であり、蘭学に造詣が深いことを考えると、蘭語の翻訳か蘭方の医学関係の仕事ではなかったかと推測されます。

 ともかく、慶応3年(1867年)の5月に、三圭は長崎にいたのです。

 さらに、『岩崎弥太郎日記』の慶応3年6月15日には、

 「萩原三圭、洋夷修行方被仰付之(これおおせつけらる)」

 とあります。

 三圭は、おそらく参政後藤象二郎(1838~1897)から、「洋夷修行」を命ぜられているのです。「夷」というのはおそらく漢字のミスで、おそらく「医」。西洋の医学を学ぶように命じられた、ということでしょう。

 では、三圭は、いつ高知から長崎に出てきたのか?

 富村さんは、「故ドクトル萩原三圭君小伝」や『土佐医学史考』(平尾道雄)などの記述から、「萩原三圭の長崎留学は留学生の纏(まとま)って出発した慶応元年の四月又は八月と考えて間違いないのではなかろうか」としています。

 この慶応元年(1865年)の4月上旬、幕府が長崎に設けていた「養生所(ようじょうしょ)」が「精得館」に改称されていますが、その「精得館」付属の「医学所」では、オランダ陸軍軍医ボードウィンが西洋医学を教えていました。このボードウィンに就いて、三圭は西洋医学を学んでいたらしい。

 慶応2年(1866年)の7月14日、「精得館」の教師として、ボードウィンに代わりオランダ人マンスフェルトが着任しますが、このマンスフェルトにも三圭は西洋医学を学んでいるようです。

 兆民は、慶応元年(1865年)の10月に、土佐藩派遣の留学生として長崎にやってくるわけですが、すでにここ長崎には萩原三圭がいて、おそらく「精得館」でボードウィンに就いて西洋医学を学んでいたことになります。

 そして慶応3年(1867年)の5月、「精得館」のマンスフェルトのもとで西洋医学の研鑚(けんさん)を深めていた三圭は、参政後藤象二郎の注目するところとなり、土佐藩士として登用され(「御雇」)、改めて藩より西洋医学の修行を命ぜられた、ということになるでしょう。

 となると、兆民が、長崎において三圭と接した可能性は十分にあるといっていい。

 私の小説『波濤の果て 中江兆民の長崎』では、兆民(篤助)が、長崎郊外の小島郷宇佐古(うさこ)にある精得館に、かつての蘭学の先生である萩原三圭を訪ねていく場面を設定しています。

 さて、今回は、ここまでにします。
 
 次回は、萩原三圭のドイツ留学などについて、まとめてみようと思っています。


○追記

・精得館の前身は医学所とそれに付属する養生所であり、これらの設立を幕府に申請したのは、オランダ人の医師でポンペ(1829~1908)と言いました。そのポンペが、「ヤーパン」という名の船に乗って長崎にやってきたのは、安政4年(1857年)。その船には、ポンペ以外に、幕府の要請に応じて、航海術を教える教官や製鉄所を建設するための技術者が乗っていました。
 
 翌年の安政5年(1858年)、ポンペは、西洋医学の伝授を本格的に行うために、新たな学校と病院の設立を幕府に願い出て、それを受けて小島郷宇佐古の地にそれらが完成したのが文久元年(1861年)の夏のことでした。

 それからまもなくポンペによる伝習が開始されました。助教は、公儀御典医の松本良順(1832~1907)でした。

 ポンペは、文久2年(1862年)にオランダに向けて帰国。その跡を引き継いだのが、ボードウィンでした。

 三圭が西洋医学を学んでいた精得館には、医学所と病院がありました。いずれも2階建て。病院の西棟の屋根には、上から赤・白・青の三色旗(すなわちオランダ国旗)、東棟の屋根には白地に赤丸の旗がはためいていました。東西の病棟は、ほとんど同じ造りで、東棟は日本人が使用し、西棟は居留地に住む西洋人や中国人が利用していました。

●参考文献

・『萩原三圭の留学』富村太郎(郷学社)

※今回の記事のほとんどは、この本に拠っています。この書は、幕末・明治の蘭学やドイツ医学の状況にも詳しく、とても参考になりました。また巻末に詳細な「萩原三圭年譜」がおさめられています。

・『岩崎弥太郎日記』岩崎弥太郎岩崎弥之助 伝記編纂会

・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)


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