鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.2月の「東海道川崎宿」取材旅行 その1

2007-02-18 10:45:34 | Weblog
 京浜急行鶴見駅に着いたのは7:12。早速信号を渡って鶴見東口駅前通り(旧東海道)に入りました。右側の歩道を進むと、前回は気が付かなかった「信楽(しがらき)茶屋」のガイド・パネルがあり、この茶屋が、鶴見村の中で最も大きな茶店であったこと、竹の皮に包んだ梅干しを売り繁盛していたこと、大山石尊祭礼の時には特に賑わったことなどが記されていました。

 7:28に鶴見川橋に到着。鶴見川大橋を渡るとそこは川崎市川崎区。橋を渡って右側に「バクの案内板」があり、鶴見川橋界隈(かいわい)の見所が紹介されていました。

 鶴見川橋…もとは鶴見橋。江戸日本橋から来た場合、最初に渡る橋。ここからの眺め は、海原や富士山が望め、茶屋などが多く賑わった。

 市場一里塚…江戸日本橋から五里目の五間四方の塚。市内最初の一里塚。現在は左側(神奈川宿方面に向かって)が残されている。

 鶴見神社…横浜最古の社。田祭神事が昭和62年(1987年)に再興。毎年4月25日に「鶴見の田祭り」が盛大に行われる。

 などの紹介があり、また江戸期の「鶴見橋」界隈の情景を描いた文章が記されていました。

 「右のかなた、はるかに田の面(おもて)を打ちこえて山々つられり。左は青海原にて、いと景よろし…」(『甲申日記』下田奉行小笠原長保)

 「うち見れば碁盤のような梨の棚、白勝ちに咲く花のひと村…」(蜀山人〔大田南畝〕

 大田南畝(なんぼ・蜀山人〔しょくさんじん〕)は1749~1823の人ですから、今から200年ほど前には、すでにこの辺りでは梨が栽培されていたことが分かります。

 小笠原長保(ながやす)の『甲申旅日記』は、文政7年(1825年)に書かれたもの。田んぼの向こうに連なって見えた山々は、左側から、箱根連山、大山、そして丹沢の山々だったでしょう。

 鶴見橋が架けられたのは慶長6年(1601年)頃。長さ25間(約45メートル)、幅3間(約5.5メートル)。橋のたもとには、この界隈の産物などが運ばれた「市場河岸(かし)」があったといいます。街道沿いの市場村や鶴見村の茶店では、鶴見名物の「よねまんじゅう(米饅頭)」が売られていました。

 街道を少し進むと、左手にお寺。真言宗智山派「光明山金剛寺」。境内には紅梅が美しく咲いていました。左に入った墓地の角に「水子嬰児(えいじ)精霊の共同墓地」があり、無数の小さな供養塔が立ち並び、その塔(卒塔婆〔そとば〕がミニ化されたようなもの)に花や玩具が置かれたり、掛けられたりしていました。
 取材旅行で、各地の寺の墓地を見ることが多いのですが、こういう共同墓地は初めて見ました。この寺の境内には「子育て地蔵」があり、その関係で、このような共同墓地が出来たのでしょうか。

 やや歩いて右側に「市場一里塚」。ガイド・パネルによると、一里塚は、里程の目標と人馬の休憩のための目安として設置されたもので、塚の大きさは5間(約9メートル)四方。塚の上には榎(えのき)が植えられたとのことですが、現在は小さな稲荷社の祠(ほこら)が建っています。

 「いちば銀座」商店街の中の、創業慶応元年(1868年)という「中屋酒店」の前を過ぎると左側に熊野神社。明治5年(1872年)に鉄道敷設のためここに遷座したということですから、幕末にはこの神社はここにはなかったことを確認。境内に「横浜市立市場小学校発祥の跡」と書かれた石碑がありましたが、その後ろに、折れた2本の石碑が、打ち捨てられたように横たわっていました。一方には「明治四十二年」、もう片方には「日露戦役出征」と刻まれていました。

 市場上町の交差点を渡り、JR南武支線・東海道本線貨物線の高架をくぐると、左手歩道に、唐突に「旧東海道」の碑が。「川崎サイトシティ」という団地の「サイト・ガーデン」の、通りに面した一角にありました。まだ新しい碑でした。通りの向こうは、京急八丁畷(はっちょうなわて)駅。

 八丁畷駅前の踏み切りからやや街道を戻ると、「八丁畷の由来と人骨」というガイド・パネルがありました。そのパネルの説明によると、川崎宿と市場村の間は八丁(約870メートル)あり、その八丁の間は、畷(なわて)といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていたそうで、そこから「八丁畷」と言われるようになったとのこと。
 この街道沿いからは、江戸時代から多数の人骨が出てきたそうです。ガイド・パネルには、震災・大火・洪水・飢饉・疫病などで亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬したのではないか、と書かれてありました。特に天明・天保の飢饉の際は、餓死したり行き倒れた人々がたくさんいたことでしょう。

 踏み切りを渡って、左手の人通りの少ない道を進むと、左手(京急線側)に、松尾芭蕉(1644~1694)の句碑がありました。

 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」

 ガイド・パネルによると、芭蕉は元禄7年(1694年)5月11日に、江戸深川の庵を出立し、郷里である伊賀国に向かいました。見送る門弟たちも一緒です。芭蕉一行は川崎宿を過ぎ、八丁畷の腰掛け茶屋で、団子を食べ茶を飲みながら休憩。門弟たちは、芭蕉との別れを惜しんで、「翁の旅を見送りて」と題して、各人が俳句を読み合います。芭蕉も、門弟たちとの惜別(せきべつ)の思いを句に託します。それが、句碑に刻まれた「麦の穂を…」の一句。

 やがて、「麦の穂を波立てて渡る浦風の中」を出立。

 この年の10月に、芭蕉は大坂でその生涯を閉じましたから、これが関東の門弟たちとの今生(こんじょう)の別れになりました。

 句の最後の「別れかな」に、芭蕉の万感の思いが込められているように思われます。

 句碑は屋根のある建物の中にあり、その背後には京急線が走っています。

 この句碑は、天保元年(1830年)に建立されたものだそうで、それ以来、東海道を行き来する人が、この句碑に顔を寄せて芭蕉の句を読んだことでしょう。

 通りを進むと、右側に馬嶋(まじま)病院。その病院の川崎寄りに、面白い空間がありました。その空間は「芭蕉ポケットパーク」と命名され、休憩できる腰掛があって、柱や床には、芭蕉の門弟たちの餞別の句が紹介されていました。


 翁の旅行を川さきまで送りて

 刈りこみし 麦の匂いや 宿の内     利牛(りぎゅう)

 麦畑や 出ぬけても猶 麦の中      野坡(やば)

 浦風や むらがる蝿(はえ)のはなれきわ 岱水(たいすい)

 などなど。


 曾良(そら・河合曾良・1649~1710)は、箱根まで芭蕉を見送ったようで、

 箱根迄送りて

   ふっと出て 関より帰る 五月雨(さつきあめ) 

 の句を残していて、これも紹介されていました。

 この「芭蕉ポケットパーク」の川崎寄りの壁には、「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)」の川崎宿の分が描かれていました。

 しばらく行くと、電柱に「川崎宿観光ガイド 教安寺 50m先 ←(左折)」とあり、やや歩いて左に折れました(この左折する手前のあたりに川崎宿の京口〔京都側の入口があったそうです〕)。

 教安寺の門の左手に「史跡 東海道川崎宿 教安寺」のガイド・パネルがありました。葬儀があるらしく、そのための記帳所などが作られ、青白の幕が張り巡らされている中を境内に入ると、直ぐ左手に鐘楼。ここの梵鐘(ぼんしょう)は、文政12年(1829年)の鋳造で、江戸時代につくられたものとしては、川崎には三つしか残っていない梵鐘のうちの一つだということです。

 もとの道に戻り、さらに進むと、新川通りに出ます。新川通りを川崎駅の方へ進むと、歩道の通り側に面して「東海道川崎宿めぐり」という案内板がありました。

 その案内板には、小土呂(こどろ)橋・佐藤本陣・田中本陣・六郷大橋・万年屋などについての詳しい説明が記されていたので、取材ノートにメモ。

 この新川通りには、幅5メートルほどの流れ(用水)があり、「新川堀」と呼ばれ、小土呂からさらに渡田・大島を経て、海(江戸湾・内海)へと注いでいました。その新川堀が東海道と交わる地点に架けられていたのが「小土呂橋」。昭和6年(1931年)から8年(1933年)にかけて新堀川が埋め立てられたため、橋の欄干の親柱が、交差点脇の歩道に残されています。小土呂は、砂子(いさご)・新宿(しんしゅく)・久根崎とともに川崎宿の四町の一つで、古くからの地名だということです。

 小土呂橋交差点を渡って、小土呂橋の親柱とガイド・パネルを見て、「いさご通り」(旧東海道)に入ります。

 右手の歩道に、「旧橘樹(たちばな)郡役所跡記念碑」。その説明文によると、明治11年(1877年)、郡区町村編制法によって橘樹郡役所が設置されているのですが、その設置場所は、なんと神奈川町の成仏寺であったということです。

 成仏寺というのは、「2006.12月の『神奈川宿』取材旅行 その2」で触れましたが、横浜の開港当初、アメリカ人宣教師のヘボン(1815~1911)の宿舎になっていたところ。ヘボンはこの成仏寺に滞在して、日本人患者の施療を無償で行っていました。生麦事件が起きた時、本覚寺(アメリカ領事館)から急報を得たヘボンは、医療道具をおさめたカバンを持って、宿舎である成仏寺から本覚寺に駆けつけました。

 その成仏寺が、橘樹郡内10町111村の行政を司(つかさど)る郡役所になっていたのです。明治21年(1888年)に、神奈川町に郡役所が新設されて移転していますから、10年もの間、成仏寺の郡役所がここ川崎を含む橘樹郡の行政の中心になっていたということになります。

 パネルの写真に写されている郡役所は、大正12年(1913年)に、東海道に面するこの場所に建てられたもので、川崎・保土ヶ谷の両町と17村の行政に当たっていたとのことです。

 さらに進むと、右手の川崎信用金庫前の交差点に面した広場(「かなしんふれあい広場」)の一角に、「佐藤惣之助生誕の地」の碑がありました。佐藤惣之助(1890~1942)は、明治23年に、ここ川崎宿の、かつては本陣であった佐藤家に生まれました。佐藤本陣は「上の本陣」「惣左衛門本陣」と称され、門構え・玄関付きの181坪の建物でした。生まれた時の住所は「砂子二丁目四番地」。信用金庫とは通りを隔てた、「海鮮処 和民」が入っているテナント・ビルの立っている辺りが佐藤本陣があったところでしょう。

 碑には、「青い背広で」の歌詞が記されていました。

  青い背広で 
   こころも軽く
    街へあの娘(こ)と
     行こうじゃないか
      紅い椿で
       ひとみも濡れる
        若い僕らの
         いのちの春よ

 市役所通りに出る手前右側に「川崎歴史ガイド・東海道と大師道案内図」。川崎にはこのようなガイドが各地にあり、とても便利。それをしっかりと頭に入れておけば道に迷うことは、まずないでしょう。

 市役所通りに出て右折。川崎市役所第3庁舎、川崎区総合庁舎の前を通り、立体交差橋を渡ります。この立体橋は、エレベーターもあり、自転車を押して通行できるスロープもありと、なかなか立派なもの。左手に公園と稲毛神社が見えました。

 教育文化会館の前を過ぎて県立川崎図書館に(10:10)。

 玄関を入って右側に「ビジネス支援室」。ビジネス関連ビデオや特許情報検索コーナー、特許関連図書、ものづくり関連図書、実業家伝記、発明相談コーナー、川崎公害裁判訴訟記録などがありました。
 また神奈川県の雑誌や、「かながわの今と昔」のコーナーもありました。

 『神奈川お台場の歴史と今』・『かわさき散歩 道と川と山の歴史をたずねて』(川崎多摩歴史研究会)・『東海道箱根峠への道 箱根八里西坂道の歳月』(社団法人中部建設協会静岡支所)・『東海道と神奈川宿』(横浜市歴史博物館)をチェック。

 実業家伝記のコーナーからは、『近代を耕した明治の企業家 雨宮(あめみや)敬次郎』(三輪正弘編(信毎書籍出版センター)・『樟脳と軍艦 岩崎弥太郎伝』勢九二五〈きおいくにご〉(鳥影社)をチェックしました。

 3Fは科学技術室。4Fは社史室〈社史コレクション〉。B1Fは化学文献室。

 県立図書館の分館として、かなり特化された図書館。40前後の男性が多く利用していました。

 ざっと見て回って、10:30に県立川崎図書館を出て、途中立体橋から左手に見えた稲毛神社に向かいます。稲毛神社は川崎宿の総鎮守。稲毛公園には、六郷川に架かっていた六郷橋の欄干の親柱が残されているとのこと。

 見上げる空は青く、まったくの取材日和です。


 さて、長くなりましたので、続きは次回。稲毛神社から東海道に戻り、多摩川に架かる六郷橋を渡ります。
 
 ではまた。


●参考文献

・『神奈川の東海道』神奈川東海道ルネッサンス推進協議会
・『神奈川県の歴史散歩 上 川崎・横浜・北相模・三浦半島』神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会編〈山川出版社〉

 インターネット
・「東海道分間延絵図」
・「関東史跡散歩」


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