鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その6

2012-03-25 05:53:02 | Weblog
 「中山道宿場館」を出てすぐに、左手に公共トイレのある広場がありました。そこにも「中山道桶川宿」の案内マップがあり、それはイラスト入りでわかりやすいものでした。

 それを見てみると、武村旅館の向かい側を入ったところに「南蔵院跡」というのが記されており、嘉陵がまず立ち寄ったところがその「南蔵院」の「不動堂」であったことを思い出しました。

 案内板の説明には、桶川宿は江戸日本橋から10里余りであり、この距離は現代のマラソンの距離とほぼ同じで、健脚であった江戸時代の人々のほぼ一日の行程にあたると記されていました。

 また開設当初には58軒であった宿場の戸数が、紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800年)には247軒に達し、さらに幕末の天保年間には347軒に達していたともあり、麦や紅花の集散地として、そして中山道の宿場町として、繁栄拡大していったことがわかります。

 村尾嘉陵は、ここで引き返し往復90kmほどを1日で歩き、崋山はここからさらに鴻巣宿までを1日で歩きます。桶川宿から鴻巣宿までは7.2km。崋山は1日で50km余を歩いたことになります。

 電柱に「中山道桶川宿 一里塚跡」と記された案内板が巻きつけられているのを見掛けたのが12:50。現存していませんが、塚の上には杉が植えられ、その根元には石の妙見菩薩が祀られていたという。

 北本市域に入って10分ほどで、人家が途切れ左右に空き地が広がりました。そこには「圏央道をつくっています 平成26年12月25日まで」と記された看板が立っており、この空き地が圏央道建設予定地であることを知りました。

 ここの交差点は「二ツ家」という名前でした。

 道路沿いに「北本の主な史跡、文化財」と記された案内マップを見付けたのが13:37。

 市域の西側に流れる荒川の近くに、「東光寺」、「石戸蒲ザクラ」、「石戸神社」とあり、この「石戸蒲ザクラ」を描くために、崋山が文政2年(1819年)に中山道をたどって「石戸宿」に赴いていることを思い出しました。

 次に現れた「北本の歴史」という案内板によれば、このあたりは「本宿村」と呼ばれており(当初、鴻巣宿はここに設置されていた)、街道沿いには旅籠や店は設けられておらず(鴻巣宿が移転したため)、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所に「立場(たてば)」が置かれていたという(つまり「間の宿」であったということになる)。

 この案内板には、「天神社前から三軒茶屋方面を望む」「関根氏宅」などの写真が掲載されていますが、それらから、昭和の頃までこのあたりはかつての中山道の面影をよく残していたところであったことがわかります。かつてこのあたりの中山道には松並木が続いていたのです。

 北本駅前を左手に見て、進むこと7分ほど、「東間浅間神社前」という名前のバス停前に出ました(14:02)。

 その左手に境内地が広がり、石畳の参道の奥に石段が上へと延びる小高い丘が見えました。これはどう見ても富士塚です。宮原で立ち寄った「浅間様」(富士塚)とよく似ています。

 ということで、さっそく立ち寄ってみることにしました。


 続く


○参考文献
・『江戸近郊道しるべ』村尾嘉陵(東洋文庫/平凡社)


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