鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その5

2012-03-24 06:52:56 | Weblog
 その蔵造りの商家の前を通過してすぐに、同じく右手に「埼玉県指定文化財 桶川宿本陣遺構」という標柱があり、木戸門のような入口がありました。その奥にもう一つ、瓦葺屋根の立派な門がありました。

 標柱の右側に瓦屋根付きの案内板があって、それには「桶川宿本陣遺構」とあり、それによれば桶川宿本陣は、加賀百万石前田家の宿所とされたほか、水戸藩主徳川斉昭も利用したということであり、また文久元年(1861年)には皇女和宮も宿泊したという。

 建坪207坪のうち、上段の間、次の間、湯殿が現在保存されており、県内の中山道筋では、今に残る唯一の本陣遺構であるとのこと。

 瓦葺屋根の門を入ろうとすると、柱に、「本日は公開日ではありません これより先の入場はご遠慮下さい」と記された紙が貼られているのに気付きました。

 石畳の道の先に車が停まっており、また新しい家も建っていることから、現在でもこの門内は旧本陣家の私有地として使われていることを知りました。

 門からのぞいてみると、右手に、「明治天皇桶川行在所」と刻まれた石塔が立っていました。

 本陣の反対側に、「中山道宿場館」というのがあったので、休憩かたがた入ってみることにしました。

 こういう施設には必ず「案内マップ」などがあって、「まちあるき」「みちあるき」の上で大いに参考になるのです。

 入ってみると案の定、「おけがわ散策マップ」というものがあり、さっそく一部を頂きました。

 それによって、先ほど右手にあった蔵造りの商家が、「矢部家」という家であることを知りました。

 またその「マップ」によると、江戸時代において、桶川は紅花をはじめとする農作物の集散地兼宿場町として栄え、特に紅花は、幕末になると山形の「最上紅花」に次いで全国で2番目の生産量を誇ったとのこと。

 桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781~1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国的に知られるようになった、といったことも記されていました。

 近くの稲荷神社には、「紅花商人寄進の石灯籠」があったり、また加納というところには「桶川市べに花ふるさと館」というのもあるらしい。

 また「桶川三大まつり」の一つは、平成8年(1996年)から始まった「べに花まつり」であるとのこと。

 「紅花」はもっぱら山形だという固定観念があったので、桶川周辺でも江戸時代に栽培されていたということを知って、驚きました。

 そう言えば、先ほど、街道右手に「桶川名物 べに花まんじゅう」という看板の掛かったお店がありました。

 「中山道宿場館」のボランティアで説明をされているおじさんにお聞きしたところ、現在はほとんど紅花畑は残っておらず、各種商品に使用されている紅花は、ほとんどこの地で生産されたものではないそうです。

 紅花畑は桑畑となり、その桑畑は現在は果樹園や野菜畑、新興住宅地などになっています。農園や果樹園が多いことは、「散策マップ」の裏面の「農産物産地直売所マップ」からもわかります。

 この「おけがわ市内観光マップ」を見ると、桶川市が、JR高崎線を軸(胴体)として「ちょうちょ」が翅(はね)を広げたような形をしていることがわかります。その右側の翅に「べに花ふるさと館」があり、左側の翅に「歴史民俗資料館」がある。その両者はまた機会があったら立ち寄ってみることにしたいと思いました。

 ボランティアのおじさんは、退職してから、東京から京都まで中山道を歩いたことがあるとの話をしてくれました。

 「へぇ、そうですか。歩いてみてどこが一番よかったですか」

 とお聞きすると、

 「和田峠がよかった」

 ということでした。

 おじさんは山歩きが好きであるということであり、だから、人家が密集したところよりも、木々に囲まれた峠道から山々が見晴らせるところが、中山道筋において一番魅力的であったようです。

 鴻巣駅前や上尾駅前の変貌ぶりとは対照的な桶川駅周辺のようすを、やや残念そうに話されていましたが、「みちあるき」「まちあるき」をしている者にとっては、「歴史の記憶」の詰まっているこの桶川の中山道沿いは、魅力あふれた界隈であり、それを商店街や地域の人たちが共通認識を持って有効に生かしていけば、鴻巣駅前や上尾駅前とは異なった「まちづくり」ができるのでは、と素人考えながら思いました。

 かつての「中山道」は人々が歩いて行き交う道でした。しかし車が激しく往来することによって、道は歩行者のものではなくなり車のためのものとなってしまいました。車が激しく往来する道は、かつての豊かなコミュニケーションの場を喪失させ、地域コミュニティーを場合によっては分断するものにもなりました。

 車の渋滞を解消するために造られた幅広で直線的なバイパスは、たしかに旧道の渋滞をある程度解消させ、かつての騒音や排気ガスに満ちた旧道沿いを、やや静かな界隈へと変化させましたが、バイパス沿いに出来た中央資本の巨大スーパーや巨大複合施設、各種大型店舗は、旧道に古くからある地元商店を衰退させてしまいました。

 旧道は依然として生活道路として利用されていますが、車は素通りするばかりで、歩く人は少ない。

 日時を限定するという形であっても、できるだけ歩行者が安心して歩け、憩うことができる通りとして旧道を活用することはできないものか。

 「みち」を、「歩く人々」中心の「コミュニティーの場所(広場)」(かつての道はそういうものでした)として、そのような空間の「軸」として把握し直し、空間全体を再構築していった時、「まち」の活性化が生まれてくるのでは、と漠然としながらも私は考えています。


 続く


○参考文献
・『板橋区史通史編上巻』(板橋区)
・ネット「石戸蒲ザクラ」


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