鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その3

2012-03-21 05:35:07 | Weblog
 上尾市域に入ってまもなく、道端に「青面金剛像」が立っていました。右側面を見てみると、「寛政十二庚申歳十二月吉日建立」と刻まれています。

 「寛政十二庚申歳」とは、1800年のことであり、「庚申信仰」に関わるもの。

 礎石には「武州足立郡馬喰新田講中貮拾人」と刻まれており、「馬喰新田」の庚申講中二十人が建立したものであるようです。

 礎石にはまた「石工 江戸○岸嶋南新開栗屋勘兵ヱ」とも刻まれており、江戸のおそらく「霊岸島」の南新開居住の「栗屋勘兵衛」という名の石工によって造られたものであることがわかります。江戸で造られ、ここまで運ばれてきたのでしょうか。

 200年以上もの歳月が過ぎているのに摩耗は少なく、見事な「青面金剛像」です。

 バス停の名前は「馬喰新田」であり、この地の村人たちの間に「庚申講」があったことを示しています。

 「株式会社コーセー 狭山工場 上尾分室」の横を通過したのが10:17。

 郊外型の大型複合ショッピングセンターの「VALUE PLAZA」や「YOKOHAMA 上尾配送センター」というのもありました。

 そこから5分近く歩くと、またまた「青面金剛像」が現れました。それは柵で囲まれており、石の屋根があって、「青面金剛像」の台座を「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿が支えています。これも庚申信仰に関わるもの。

 右側面には「享保七壬寅年二月吉日」と刻まれており、これが1722年に建立されたものであることがわかります。300年近くも前のもの。先の「馬喰新田」の「青面金剛像」とは対照的に、全体的に優しい雰囲気を持っています。鼻の部分を中心に顔面が欠けていますが、顔はそれほどの憤怒顔ではない。

 「上尾仲町」のバス停を過ぎると、左手の店のショーウィンドウの内側に、「中山道上尾宿脇本陣の鍾馗様」と記された掲示があり、それによると、ここはもともとは上尾宿脇本陣の細井家の屋敷があったところですが、明治35年(1902年)に当店(新井屋呉服店)がその屋敷を引き継ぎ、その時に瓦製の鍾馗様も一緒に引き継いだとのこと。

 中山道上尾宿では、万延元年(1860年)、慶応4年(1868年)、明治2年(1869年)と、三度の「上尾大火」があり、町のほとんどが焼失して疲弊。

 そのため上尾では、厄除け・火災除けとして瓦製の多くの鍾馗様が屋根に載せられていたという。

 大事に保管されていたが、平成10年(1998年)の中山道拡張に伴って店舗を改装したことを機に、人々にご覧頂けるようにしたのだとのこと。

 写真があって、「屋根の中央、看板の下をご覧ください。↑」とあるので、見上げてみると、「おしゃれ工房 新井屋」と記された大きな看板の下に、身を外に乗り出すような恰好の「鍾馗様」が置かれていました。

 このような瓦製の「鍾馗様」が、上尾の町の中山道両側に並ぶ家々の瓦屋根に載っていた時代があるのです。

 そこからまもなく、やはり左手に「氷川鍬神社」がありました。案内板によると、この神社は上尾宿の総鎮守である「古社」であり、通称、「お鍬さま」と呼ばれているという。「氷川鍬神社」という名称になったのは明治41年(1908年)のことで、それ以前は「鍬大神宮」という社名であったとのこと。

 境内に入ると、「上尾郷二賢堂跡」などとともに、黒ボク石で造られた小さな築山があり、その上には「淺間大神」と刻まれた石碑が置かれていました。礎石には「上尾有志」という文字が浮彫りにされており、「御祭事」の一つとして「初登山祭 七月一日」と記されていることも考え合わせると、これは小ぶりの「富士塚」でであるようです。

 「黒ボク石」で造られているというのが、宮原で見た三つの富士塚とは異なるところです。

 この「氷川鍬神社」(かつての鍬大神宮)のの正面に本陣があり、その両側に脇本陣が2軒あったらしい。また鍬神宮のすぐ右側(大宮方面)にももう1軒の脇本陣があり、合わせて3軒の脇本陣があったことになりますが、そのうちの1軒が先ほどの鍾馗様のあった「細井家」(現在は新井呉服店)であったことになります(「中山道上尾宿と本陣」の案内パネルより)。

 その地点から間もなく、左手にJR高崎線上尾駅が見えてきました(10:44)。ここが前月の取材旅行で戻りの電車に乗ったところ。

 その駅前の交差点を通過して、しばらく歩くと、またまた道角に「青面金剛像」が立っていました。足元には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿が彫られています。

 右側面には「延享二乙丑年三月吉日」と刻まれ、左側面には「上尾上町 講中」と刻まれています。これも「庚申信仰」と関わるもの。「講中」とは庚申講中のことでしょう。

 中山道には、各所にこういった「青面金剛像」の石造物が立っていたのです。

 左手に現代的な造りの「酒造 文楽」を見て、「中山道 上尾宿 彩の国平成の道標」のところに至ったのが11:05でした。


 続く


○参考文献
・『江戸近郊道しるべ』村尾嘉陵(東洋文庫/平凡社)


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