某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

果てしなき議論の後に 

2012-03-30 18:17:20 | ぼやき
 今頃また大学の九月入学の是非があちこちで話題になっている。東大がやると云い出したから取り上げられるのだろう。早稲田など一部の大学では既に部分的にやっているし、検討中のところも少なくない。何故東大が云い出すと取り上げるのか。但し否定的に。やりたいところがやればいいだろうに、全部が歩調をそろえなければいけないと「偉い人たち」は思いこんでいる。教育の国家統制。
 昔、私も九月入学を検討しろ、と朝日に投書したことがある。掲載されたすぐ後で、公明党が議会で質問に使っていた。しかし、それ以外はろくな反応もないまましぼんでしまった。一寸早すぎたのかもしれない。
 NHKで先日九月入学についての「意見」を誰か偉そうな人が述べていた。色々言っていたが、要するに、九月入学の是非を論ずるより前にやるべきことが多くある、という話。一言でいえば、大学生にもっと勉強させるにはどうしたらよいか、それを先ず考えろ、という話。何か提案があるといつもこうだ。中身の無い無意味な発言。産湯と一緒に赤ちゃんも流してしまう輩。言うのは簡単だ、「それより前にやるべきことがあるだろう」と。偉そうに聞こえるが、実は何も言ってない。しかし、本人はそれで大満足だから困る。
 戦前の日本の小学校で、四月入学と九月入学の二通りの入学制度をやっていたところがある。私立の成城小学校。早生まれの子には遅生まれの子と生まれ月によっては一年近い生育期間の差があるから、其のハンディを少なくするために、派や生まれの子は九月まで入学を延期したのだ。全員三年生で同じクラスになった。その上飛び級もあった。特別に良く出来る子は小学5年生から中学に飛び級した。大正6年に出来た学校だが、敗戦前までそうだった。国定教科書は使わなかった。小学生は式で君が代を歌わなかった(子供達には意味がわからないから、教えなかった)
 戦前の日本でもそんなことが出来た。成城学園でいえば、高等学校卒業生は、他校と同じく大学に進学できた。飛び級などのお陰で、普通より2歳若く大学に入学する生徒も少なくなかった。今はこうしたことは一切認められない。規定の年数だけ在籍しないと進学(受験)の資格を与えられない。変な平等主義。
 此の話はもっとすべきだろうが、ちょっと横にそれ過ぎた。九月入学などの提案に対する「評論家」「解説者」の発言には、啄木ならずとも、「果てしなき議論の後に}と言いたくなるだろう。「ヴ・ナロードと叫びいずるものなし」と。なんとかしようと懸命になって汗をかいている人々を尻目に、偉そうに「その前にやることが沢山あるだろう」とのたまう。やな連中だな。
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