某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

私はなぜキリスト教徒になれなかったか。貧乏物語。

2018-11-07 15:57:35 | つらい話
 少学三年生のころからキリスト教会の日曜学校にちょっと通った。盧溝橋事件から三年目で、学校の帰りに毎日、蜂に頭を刺された蒋介石がべそをかいている絵をローソクで道路いっぱいに描いて、大人にほめられていたころだった。牧師さんの話が面白くて日曜日が楽しみだった。しかし困ったことが一つあった。終わりころになると、布の袋が回ってきて献金をしなければならない。しがないサラリーマンの子供だから、小遣いなどもらったことがない。一回目は知らなかったから免除してもらった。翌週は困った。母が仏壇の鐘鉢に一銭玉を入れているのを思い出して、一枚とった。窮余の一策。それから毎週、仏壇の一銭をキリストに献金していた。かなりあった一銭がだいぶ減ったのに、母はそのうち気が付いたらしい。だいぶたってからだが、ある時一銭も入っていないのに気が付いた。その時はまだ半信半疑だったが、その後いつも空だった。息子が盗んでいることを母が知ったのだ。何も言われなかったが、ばれた!と知った。息子の「盗み」を母はかなり心配したらしい。
 ぞっとした。反省した。日曜学校に行きたいから一銭ください、というべきか。うちは貧乏だし、仏教だからキリストはダメ、と言われたらどうしよう。父に盗みを叱られる!と。子供なりに悩んだ挙句、日曜学校に行くのをやめた。教会は近所だったから、遊んでいると時々牧師さんの奥さんに会う。そのたびに「どうして来ないの、今度はいらっしゃい」といわれる。「献金できないから行けない」と言いそうになるが、子供なりにみじめなのが嫌でいつも黙っていた。このみじめな思いのせいか、今でも何かの集会で「カンパを!」といわれると嫌な気になる。良い話をきくために入場料を払うのは当然だ。しかし、話の後で「カンパ!」といわれると、とたんにあの教会でのみじめな気分が復活してゲ!となる。貧乏人にはキリスト教も背を向けるということではないのだろうが、結果はそうだった。献金できなくて教会に行けない子供は今でもいるのだろうか。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本が世界一!選挙供託金の... | トップ | color blind 人種的偏見をし... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
通りすがりました。 (すんすん)
2019-10-24 20:13:13
献金はカンパではないよ。
お母さんにでも奥さんにでも言えば良かったじゃない。

献金できないから教会に行けない子供なんて、
今も昔もこれから先も、一人もいない。

貧乏だからキリスト教徒になれなかったんじゃないんだよ。
もうみじめな子供じゃないんだから、今からでもキリスト教徒になればいい。
返信する
通りすがりました。 (すんすん)
2019-10-24 20:18:16
献金はカンパではないよ。
お母さんにでも奥さんにでも言えば良かったじゃない。

献金できないから教会に行けない子供なんて、
今も昔もこれから先も、一人もいない。

貧乏だからキリスト教徒になれなかったんじゃないんだよ。
もうみじめな子供じゃないんだから、今からでもキリスト教徒になればいい。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

つらい話」カテゴリの最新記事