某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

吹矢と私(4の1)

2011-05-10 21:16:21 | スポーツ吹矢の練習
 4月28日に日本スポーツ吹矢協会で、会長さん、役員の方々、事務職の方々に「吹矢と私」という話をする破目になった。おこがましくも、図々しくも、シャシャリ出て(私の前世はテントウ虫らしい)話をさせて頂いた。原稿(少し手を入れた)が長いので、数回に分けて掲載したい。吹矢は本当に健康に良いと私は思っている。以下のつたない文を読んで下さる方々の中から、一人でも二人でも愛好家が生まれてくれたら、と願っている。
1、自己紹介
 1930年10月28日 中野区沼袋生まれ。西武新宿線新井薬師駅近くの上高田小学校から府立六中(現都立新宿高校)に進学しましたが、昭和19年、2年生の時福島県の太平洋岸、双葉郡富岡町に疎開、以後敗戦を挟んで昭和22年まで、県立双葉中学(現高校)に通いました。
 双葉という地域は、最近まで殆ど誰も名を知らないような過疎地帯でしたが、東日本大震災で双葉町の原子力発電所が壊れて、一躍有名になりました。通学で朝夕乗り降りしていた常磐線富岡駅は津波にやられてプラットホームを残すだけの無残な姿になっています。戦争中、中学生たちの勤労動員で急造した飛行場が中学のすぐ南にあり、特攻隊の訓練らしいのをやっていました。アメリカの艦載機P51などが攻撃して来ると日本の飛行機は一機も飛びません。しかし、いなくなると飛びはじめました。敗戦直後の中学校舎は無残でした。死にそこなった特攻要員たちが暴飲暴食で教室を汚し、柱や壁に無数の刀傷を残し破壊していったのです。
 戦後其の飛行場跡に原子力発電所が出来ました。双葉町の居住者も、富岡町の居住者も、今は放射能汚染から身を守るために、はるか離れた場所に避難しています。半径20キロ圏は双葉高校の学区域ですから、同級生がまだ沢山そのあたりに住んでいましたが、皆どこかに避難しているでしょう。同級生だから皆80歳過ぎ。馴れないところで体を壊さねば良いがと案じています。昔、原子力発電所の話が出てから、若い人々を中心に多くの方々が反対しました。その頃、「反対する奴は電気を使うな、東京からノコノコ出しゃばってきて、町の発展の邪魔をするな」と居丈高になって私どもを罵倒していた町の有力者たちが、今では皆東電を恨んでいます。当時の誘致派有力者たちには年配者が多かったですから、もういない方々が多いでしょう。せめてもの救いです。しかし、生き残って東電を恨んでいる人たちは、またすぐ「でも、原発がないと電気が足りなくなるよ」と変節するでしょう。有力者の変わり身の早いのは、敗戦時にいやと言うほど見てきましたから、今更驚きませんが。
 定年(70歳)まで、大学で経済学の歴史を専門にし、講義を担当していました。
 小学校運動会の徒競争で一度も3等以内に入れず、入賞者がリボンをつけて得意になっているのを毎回見せられて悔しい思いをしましたので、運動と言えるほどのことは全然してきませんでした。43歳の頃「少しは運動をしないと早死にするぞ」と友人に脅かされ、ゴルフを勧められましたが、「女に荷物を担がせて、自分は手ぶらでブラブラ歩いてる。あれで何が運動だ」と馬鹿にして、どうせ棒を振るなら剣道の方がいい、とめちゃくちゃな理由で、大学の剣道部に入れてもらいました。実力はないのに、私は何故か試験にだけは強くて、3年で三段になりました。しかし、その頃からめったやたらと忙しくなり、四段の試験を目前にして剣道中止。ですからその頃から四段、五段というのに憧れていました。学生は、教師の頭を公然と叩けるのは俺たちだけだ、と大喜びだったようです。口では「先生と稽古するときは気を使いますよ」などと殊勝でしたが。
 其の当時、剣道の師範がよく言っていたのは「剣道の上達に必要なのは、1に良い教師、2に基本に忠実でまっすぐな稽古」ということでした。この二つが揃えば、誰でも五段にまではなれる、と言われました。吹矢で今それを実感しています。
 
 

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