某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

小松左京さんと乙部順子さん

2014-05-16 01:53:35 | ぼやき
 私の前のゼミナール生に有田(乙部)順子さんという才媛がいる。長く小松左京さんの秘書をしていて、一昨年から産経新聞に「宇宙からのメッセージ・小松左京と秘書のおかしな物語」と言うのを月一で連載している。始めは月末の木曜だったが近頃は曜日不定になった。とにかく面白い。もう26回目(5月14日)だが、まだまだいくらでも書けそうだ。小松さんが「小説家」の枠をぶち壊した巨人であった事が、多くの作品、多彩な交友関係と事業の紹介で毎回教えられる。沢山のエピソードが楽しい。
 思いがけない発見もある。前回には、小松さんが旧制第三高校に入学(昭和23年)しながら、翌年旧制高校が廃校になり、新制京都大学を改めて受験、入学したが、大学の準備が出来てなくて半年しか講義がなかった、と書いてあった。おやおや、と思った。私も同じ学歴だ。旧制高校に入学したものの、一年で学制改革(廃校)。新制大学受験。入学式の後すぐ夏休みで講義は正身5カ月しかなかった。当時は高校が少なかったから倍率がやたら高く、合格してほっとした。とたんに、一年で学校がなくなるという。其れは無いだろう、とがっかりした。おまけにまた入学試験を受けろと言う。占領軍の命令だからどうにもならない、という。中には、旧制高校の制度が日本のエリート支配や非民主的軍事国家を作ったのだから、学制をアメリカ式に変えるべきだと言う者もいた。17才の子供には何とも訳の分らぬ大議論だったが、犠牲者はそうした子供達だけ。浦和高校を大学にして残せ、などと先生方が集会の度に演説していたが、浦和高校がなくなり、代わって新制の埼玉大学が出来ると、「残せ」と叫んでいた先生方はほとんどが東大に移っていった。戦争に負けた時、中学の先生方が簡単に「意見」をかえたから、声高な高校教師の「変節」はもう大体予想出来ていたが、それでも情なかった。私達一年生は、誰も埼玉大学を受けなかった。「校舎」が残っただけ。
 昭和5年あたりに生まれた我々子供達は、生まれてすぐ満州事変、小学校入学の時盧溝橋事件、5年生で真珠湾攻撃。中学3年で敗戦。生まれてからの15年を全部戦争の中で過ごしてきた。その上、やっと落ち着いて学校に通えると思ったら学制改革で、またまた訳の分らぬ毎年の入試騒ぎ。合格しても大学の方がまだてんやわんやで、なかなか講義も始められない始末。呪われた世代だな。
 乙部さんの面白い連載を紹介するつもりが横にそれた。連載の始めから、まとまったら本にしろ、と言っている。長く続いてますますそう思っている。売れること間違いなし。今から出版記念会の企画を立てようか。
コメント
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