Our World Time

青春のとくしま/阿波の国徳島の書店サイン会で会いましょう

2012年08月02日 | Weblog


▼いま8月1日水曜の夜8時40分ごろ。
 大阪から帰京しました。
 大阪で関西テレビの良心派の報道番組「スーパーニュース・アンカー」の生放送に参加(出演)してきたところです。
 帰京は、ふだんより1時間早いのです。今日のアンカーは、オリンピック放送で1時間、繰り上がったからです。

 帰京してすぐ、仕事部屋の机に座りモバイル・パソコンを開いて、独研(独立総合研究所)から会員制で配信している東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)の執筆を再開したのですが、デスクトップ・パソコンのテレビ画面ではオリンピック中継が映っています。
 音を出すと原稿への集中力を欠くので、消音モードです。したがって、大半のいい場面は見逃しますが、おのれに打ち勝とうとするひとたち(選手たち)と一緒の時間を生きているのが嬉しいのです。


▼今日のアンカーは、実は、ふらふらの躯(からだ)でした。
 左足親指の巻き爪を手術で剥がしたばかりで、まだ血が止まっていないうえに、月曜日に大腸のポリープを、これも内視鏡の手術で切除したばかりでした。
 巻き爪の手術後は、ただ痛いだけのことだし、大腸のポリープは執刀医によると良性とのことですから、それぞれ、どうということはありません。
 大腸は去年の2月、すなわち東日本大震災と福島原子力災害が始まる直前に、癌を開腹手術で取りましたが、その後の詳しい病理検査で「Ⅰ期の、その前だった」と分かりましたから、これも、さしたることはありません。
 大腸癌は、そのあとの腸閉塞ではまさしく死に直面しましたが、癌そのものはもはや問題ないわけです。

 ただ今日のアンカーの時は、4日ほど、ほとんど何も食べていない状況だったから、さすがに、ふらふらだったのです。
 大腸の内視鏡検査に備えて、日曜から食事制限に入り、夕食は夜8時までにとらねばなりませんでした。
 その日曜は、独研が主催する独立講演会がありました。
 講演で集中力を高めるために、ほぼ何も食べないで会場に入り、4時間半ほど連続で講演し、そのまま、入院中の母を見舞に行き、母のいろいろな訴えを聴いて病院スタッフと相談したりしているうちに、夜8時の制限時刻を大きく越えて10時近くになってしまい、絶食のままになりました。
 そして月曜のポリープ切除後は、腸内の出血を避けるために、固形物を食べられない制限がかかりますから、結局、水分以外には何もエネルギー源がないまま、アンカーのために関テレの報道スタジオに入りました。

 もっとも、医師からの指示は、食事制限に加えて出張禁止、安静の維持でした。本来は、短くても入院するところですからね。
 この8月は、後半に海外出張もあり、アンカーを一度、休まねばなりませんから、今週のぼくに「大阪出張をやめる」という選択は最初からなかった。
 その今週のぼくは、独立講演会で声を振り絞ったために喉が潰れていて、さらに、体調が万全でないためにホテルのクーラーにやられて鼻水が止まらず、まぁ、大袈裟に言えば、足の痛み、腹の痛み、圧倒的な空腹、鼻水責めの四重苦の状態でアンカーに臨んだわけです。(四重苦はやっぱり大袈裟。いくらか集中力を欠いてもおかしくなかった状態、ぐらいが正確ですね)

 けれども、アンカー本番の間だけ、ピタリと鼻水も止まり、声も最低限の声は出て、痛みと空腹はしばし忘れ、おのれを信じることができました。

 帰京する飛行機の中で、再び、止まらなくなった鼻水をすすりながら、このささやかな存在の自分を支えるものはいったい何だろうと、ふと、思いました。
 今日は躯がフラフラだったけど、実は、その躯がいちばん支えてくれていると考えました。
 こないだ、徹夜仕事の最中に喉が渇いて、冷蔵庫をみたらパインジュースがあって、糖分で体を持たせようと思い、封を開けて一口飲んだら、何とも言えない味です。
 濃すぎる。
 どろどろです。
 しかし、いつものように気にせずに、最後の一滴まで飲んで、「ずいぶん変わった味だったなぁ」とだけ思いました。
 すると、あとで青山千春博士が「あれは薄めて飲むためのジュースで、特に、特に濃いやつだった。そのまま飲んだら、マジに死ぬよと言われているのに」と言います。
 しかし別段、躯に変調は起きませんでした。
 青山千春博士は「…気にせず、飲んじゃうのも、飲み干したあと平気なのもいつもの通りね」という感じで、呆れた顔で去っていきました。ふひ。

 そして、この躯をつくってくれたのは、今は介護を必要とする母と、亡き父です。
 それから鼻水が本番の間だけ止まったのは、メインキャスターのひとり、村西利恵アナが渡してくれた薬のおかげが大きいと思います。
 検査をするようにとアドバイスしてくれたのは、近所の開業医だし、そのアドバイスがなければポリープの発見が遅れたでしょう。
 巻き爪を剥がす手術をしてくれたのも、この開業医さんです。
 巻き爪は、かつて競技スキーで足を締め付けたことに端を発しますから、ずいぶんと長いあいだ痛みを抱えてきたのですが、開業医さんが「一気に剥がしてしまおう」と提案してくれたおかげで、ようやく終止符を打ちました。
 このように、何につけ、いつでも周りに支えられています。

 それはオリンピックという至上の場で、みずから鍛えた躯で戦うひとたちが、ひとりの例外もなく、周りの支えによって初めて自己鍛錬を続けてこられたことにも通じます。
 一級の選ばれし戦士たちと一緒にするのは、まことに気が引けつつ、共通する真実をやはり感じるのです。


▼さて、今週の週末、8月4日と5日に四国の阿波徳島を訪ねます。
 ぼくにとって、徳島は、すべての始まりの地です。

 ぼくは、慶應義塾大学の文学部を中退し、早稲田大学の政治経済学部を受験し直して、卒業しました。ひとりで早慶戦をやってしまったわけです。
 慶応は好きでした。嫌いでライバルの早稲田に移ったのではありません。
 文学部で哲学を学ぼうとしたのですが、ぼくは自分なりの新しい哲学を構築しようという志を持っていました。大学で講じられる哲学は、やや生き生きとしていないように感じました。
 そして、ぼくは何よりもまず、現実世界の改善に役立ちたいと願っていましたから、慶大の経済学部への転部を考えましたが、転部制度がありませんでした。(現在あるのかないのかは分かりません)
 そこで、人生は一度切りだからと考え、悔いのないように、慶大文学部を勝手に中退してしまい、早大政経学部を受験し直したわけです。

 そのために就職する頃には、26歳になっていて、共同通信も最初は「うちは25歳までの年齢制限があるから」と厳しく撥ねつけられ、「受験することだけは認める」、となるまでには、引いては満ちる潮のごとき交渉も必要でした。
 そして何次かの試験を超えて、ようやく記者になることができて、初任地が、共同通信社徳島支局だったのです。

 ここでいきなり、徳島地検始まって以来の特捜事件、大病院の史上最高額の看護料不正事件とぶつかり、その事件と表裏一体の側面もあった国立徳島大学医学部紛争にもぶつかり、体力に任せて、夜昼なく検事や警察官や、病院の医師たちや、医学部の教授たちと会って会って、議論していったのが、ぼくの原点です。


▼8月4日の土曜は、その徳島でインディペンデント・クラブ(独研の事務局を置く会員制クラブ)の、地元のみなさんを含めた会員とお会いします。
 そして8月5日に、全国から集まった教員のかたがたの大会で講演したあと、徳島市内の書店でサイン会を開きます。

 サイン会は、まだ少し余裕があるそうなので、下に出版社からのお知らせを再掲しておきます。
 もう直前ですから、参加をお考えのかたは、できれば、お早めに電話予約してください。

~ここから引用~

【ぼくらの祖国】サイン会開催!
青山繁晴さんサイン会
【  日  時  】 8月 5日(日) 14:00 ~ 16:00(予定)
【  場  所  】 平惣 徳島店
【  定  員  】 先着100名様
【 要 整 理 券 】 同書店にて本書をお買い上げのお客様に参加整理券を配布します。
【お問合わせ先】 平惣 徳島店 TEL 088-622-0001

~ここまで引用~

 扶桑社の編集者からのEメールによると、徳島以外からも参加できるよう、書店では電話予約も受け付けるとのことです。


▼いまは8月2日木曜の夜が明けました。
 まるで元気です。
 このあと、涼しいうちに繁子(毛が夏でもふさふさのポメラニアン)を夜明けの街へ散歩に連れて行き、早朝から、メタンハイドレートをめぐる議連の集まりへ出かけ、短く講演し、国会議員たちのヒヤリングに応じることから、今日は、ぼくなりの任務が始まります。
 そのあと、永田町で沖縄県庁からの出張者に緊急の要件で会い、海からのテロの抑止を専門となさっている良心的な学者と東大で会い、そして夕刻4時から、ニッポン放送の生放送ラジオ「ザ・ボイス」に参加(出演)します。