戒厳令下 京都潜入記5 二条城の唐門とマヌケな卒業式編

2021年04月09日 | 海外旅行

 前回に続いての京都戦記。

 このご時世、なんの因果か京都を観光することになった、バンゲリング帝国よりの使者、エーリヒ・ハインツ・マリーア・フォン・リリエンシュターン武装親衛隊少尉(そういう設定なのです)。

 こないだは、京都が誇る観光地二条城を楽しんだが(その模様は→こちら)、この場所に少尉は、もうひとつ個人的な思い入れがある。

 それが、小学校の卒業式

 この行事と言えば、なぜか子供たちが6年間の思い出を、声を合わせながらダラダラと語るというイベントがあり、

 

 生徒A「○○小学校で学んだ6年間は」

 生徒B「本当に」

 生徒全員「楽しかった!」

 生徒C「お父さん、お母さん」

 生徒D「先生がた」

 全員で「本当に、ありがとうございました!」

 

 みたいな、ファシスト国家のごとき光景がくり広げられるのが、お約束となっている。

 陣内智則さんのコントでもネタにされていたが(→これですね)、あそこで私が受け持ったのが、まさに京都のシーンで、

 

 「二条城の唐門の」

 

 というセリフを担当した。

 それに続けて、女の子が、

 

 「その輝きの美しかったこと」

 

 このときの違和感を、今でも覚えている。

 

 陣内さんのネタでもある通り、ああいうとき子供たちはたいてい、べちゃッと間延びしたトーンでセリフを言うもの。

 上記の例でいえば、

 「○○小学校で学んだ6年間は」

 ではなく、

 

 「○○しょーがっこーでぇ~、まなんだろくねんかんわぁ~」


 
 その方程式に従って私も、

 

 「にじょーじょーのぉ~、からもんのぉ~」

 

 底抜けな発声をするわけだが、次が問題である。

 続く女の子というのが、堂々と、

 

 「その輝きの美しかったこと!」


 
 メチャメチャにビシッとした声で、こちらの後を受けるのだ。
 
 この並びが、えらいことなのである。

 こっちは先生方の

 「みなが一斉に声を合わせて、心がひとつになって感動」

 といった、ナスのヘタのごとき自己満足的ルールに従って、わざわざダルく読んでいるのに、そこを腹式呼吸もバリバリの伸びやかな声量。

 これでは、まるで私がやる気のないか、居眠りでもしている、スットコ生徒のようである。

 おいおい、学校という全体主義なファッショの世界では、もうちょっと空気を読むというか、周囲とトーンを合わせることが必要である。

 そこにガッツリ自己主張を入れてくるとは、どういう了見だ。

 しかもそれが、卒業式などという、どうでもいいイベントで発動とは、まったく自我の無駄遣い。

 ほかにもっと、大事なことはあるだろう。コンゴの怪獣モケーレ・ムベンベは本当にいるのかとか。

 そんな、こちらのつぶやきもなんとやらで、彼女は朗々と謳いあげる。まるでシェイクスピア女優か、オペラ歌手

 なんせミスヲタなもんで、思わずクレイグ・ライスの小説みたいに、

 「どうした、オフィーリアよ!」

 なんて、声をかけたくなっちまったよ。

 こういう場合は、どちらかが妥協して、相手に合わせないと、聞いてる親御さんも腰が抜けるであろう。

 とはいえ、卒業式を精一杯盛り上げようとがんばる、奇特……マジメな女子生徒に、

 「もっとマヌケでお願いします」

 なんて、とても頼めるものではない。

 かといって、こちらが合わせて、

 

 「二条城の、唐門の!(ビシッ!)」

 

 とかヒトラー・ユーゲントの優等生のごとく右手を挙げても、それはそれで恥ずかしいし、きっとクラスの仲間から、

 

 「おいおい、えらいイキッてんなあ」

 「女のプレッシャーに負けたな」

 「モテたいだけちゃうか」

 「どっちにしても、阿呆にしか見えへんけどな。アハハ!」

 

 などなど、バカにされまくるのは目に見えている。

 そしてなにより、

 

 「小学校における卒業生の言葉は、腰砕けでなくてはならない」

 

 という日本古来からの伝統文化を、ここで途切れさすわけにはいかない。

 それこそまさに、小学校生活の画竜点睛を欠くというものだ。

 決めた、私は我が道を行く。


 
 「二条城の、唐門の!(ビシッ!)」

 

 ではなく、

 

 「にじょーじょーのぉ~、からもんのぉ~」

 

 これこそが、真の日本の卒業式だ。

 子供ながら、なんという愛国精神であろうか。こんな男がいてくれれば、日本の未来はまさに盤石である。

 結局、12歳の少尉はおのれの信念をつらぬき、どこまでもマヌケに、「にじょーじょーのぉ~」と声を発した。

 これにはオフィーリア子ちゃんも、ひるむことなく「その美しさよ!」と応えた。

 その声はどこまでも軽やかに、場から浮いていたが、列席した大人はどう感じたのだろう。

 案外、ふつうに感動したりしてね。

 それはともかく、なんか、そんなことしか覚えていないってことは、私はよっぽど「学校」や「式典」というものに興味がないんだなあ。

 とか、今さら思ったり思わなかったり、したとさ。

 


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