「実は大人になってもヒジャーブを被らなくていい女がいるんです」。
ムスリム女子の服装について、そんな意外な知識を披露してくれたのは、ジャーナリストで作家の小滝透さんであった。
「スカーフなどで髪を隠さなくてはならないのは、女性への抑圧ではないのか」。
というのは、イスラム教を語るにおいて、よく取り上げられるテーマである。
一時話題になった、フランスの「ブルカ禁止法」をはじめとして、これについては百花繚乱様々な意見があり、男尊女卑だ、それはむしろ逆に欧米的価値観を押しつけているだけで抑圧には変わりないのでは、などなどかまびすしい。
このあたり、ガンコなムスリム(および宗教アレルギーの人)以外にとっては、100人いれば100通りの意見がありそうな問題だが、「宗教ようわからん国家」である日本に住んでいると、素朴な疑問としてやはり、
「異国の文化風習は尊重するけど、それでも女の人は髪を見せたほうがキレイやのになあ」。
とは思う。
もちろん、そうやって「男を惑わす」からこそのブルカやスカーフ着用なのだが、まあそこは素人の意見として、ムスリムの人にも聞いてみたいところではある。
実際、イスラム男子も本音はダッシュ勝平のように「見たい、見たい」と思っているわけで、日本の週刊誌などプレゼントするとグラビアページは非常によろこばれるそうだが(ただし、国によっては超怒られるので注意)、女子の方も、こちはこっちで、
「肌をかくすの、ダルいなあ」
と思っている人もいるらしい。
イランの人とか外国に行ったら、行きの飛行機の中で速攻で薄着になるとかいう話は聞くし、雑誌『旅行人』の蔵前仁一編集長もやはりイランで
「こんなの、女でも脱いでしまいたいときあるわよ」
とボヤかれたりと、
「好きな格好させてよ!」
という意見もあるようだ。そらそうだよなあ。女だもん、オシャレしただろうし。
だがおもしろいもので、イスラム女子の中には、戒律よりもむしろ自分の意志で髪を隠したりしている人もいるそうな。
もう習慣になって今さらスカーフをはずそうと思わない人とか、キャリアウーマンなどは逆に
「イスラムはテロリスト!」
みたいな方向にもっていこうとする世界情勢などを見て、
「自分はイスラム教徒なんだ」
と、そこにアイデンティティーを見い出し、むしろ誇らしげに髪を隠すとか、そういう女性もいるとか。
そのあたりの思いは人それぞれとしか言いようがないが、こういった多様なスカーフ問題に、ひとつ面白い解釈を見つけることとなった。
それが小滝さんの「被らなくていい」発言。
心理学者の岸田秀さんとの共著である『アメリカの正義病・イスラムの原理病』によると、なぜ、ムスリム女子は自らスカーフをかぶり、ヒジャーブという仮面で顔を隠したりするのかといえば、小滝氏曰く、
「あれは適齢期以降の女性がかぶるんですが、実は大人になってもヒジャーブを被らなくていい女がいるんです」。
へえ、そうなんや。あの堅苦しい、顔から髪から全身を覆うようなイスラム独特の衣装を着なくていい女とはどんな人なのかと問うならば、
「それは男の関心を、そそりそうもない女性」。
男の関心をそそらない、それってつまり……
「つまりありていにいうとブスのことです」。
えー、そうなの?
ブスはかぶらなくていい。といわれれば、たしかに「男を惑わすのはよくない」から肌を隠すのだとしたら、
「男を惑わす心配がない」
といった女性は別にいいということになる。
論理的ではあるが、ずいぶんと失礼な話ではある。
あれだけ厳しく「顔見せるな!」といっておいて、不美人は
「お前は惑わされへんからええ」
とは。そんなん、うれしくもなんともないではないか。
ということはつまり、イスラム女性で覆面をかぶらない人は
「あたしってブサイクなの」
と自ら宣言しているということになり、そうなると選択の余地なくかぶらなしゃあない。
なるほど、非イスラムの人は女性のスカーフをパッと見て「抑圧」と解釈するが、ムスリム女子からするとそう単純な話ではないようだ。そこにはプライドの問題もある。
「男を惑わしたらあかんけど、ブスはゆるしたる」
だれが考えたのか知らないが、女心をうまく突いた戒律である。一見マッチョな「髪かくせ」だが、うまくからめ手使って浸透させてるのだなあ。
神様は女性の機微をわかっていらっしゃる。さすが全知全能は、トンチもうまいもんやと感心しました。
ムスリム女子の服装について、そんな意外な知識を披露してくれたのは、ジャーナリストで作家の小滝透さんであった。
「スカーフなどで髪を隠さなくてはならないのは、女性への抑圧ではないのか」。
というのは、イスラム教を語るにおいて、よく取り上げられるテーマである。
一時話題になった、フランスの「ブルカ禁止法」をはじめとして、これについては百花繚乱様々な意見があり、男尊女卑だ、それはむしろ逆に欧米的価値観を押しつけているだけで抑圧には変わりないのでは、などなどかまびすしい。
このあたり、ガンコなムスリム(および宗教アレルギーの人)以外にとっては、100人いれば100通りの意見がありそうな問題だが、「宗教ようわからん国家」である日本に住んでいると、素朴な疑問としてやはり、
「異国の文化風習は尊重するけど、それでも女の人は髪を見せたほうがキレイやのになあ」。
とは思う。
もちろん、そうやって「男を惑わす」からこそのブルカやスカーフ着用なのだが、まあそこは素人の意見として、ムスリムの人にも聞いてみたいところではある。
実際、イスラム男子も本音はダッシュ勝平のように「見たい、見たい」と思っているわけで、日本の週刊誌などプレゼントするとグラビアページは非常によろこばれるそうだが(ただし、国によっては超怒られるので注意)、女子の方も、こちはこっちで、
「肌をかくすの、ダルいなあ」
と思っている人もいるらしい。
イランの人とか外国に行ったら、行きの飛行機の中で速攻で薄着になるとかいう話は聞くし、雑誌『旅行人』の蔵前仁一編集長もやはりイランで
「こんなの、女でも脱いでしまいたいときあるわよ」
とボヤかれたりと、
「好きな格好させてよ!」
という意見もあるようだ。そらそうだよなあ。女だもん、オシャレしただろうし。
だがおもしろいもので、イスラム女子の中には、戒律よりもむしろ自分の意志で髪を隠したりしている人もいるそうな。
もう習慣になって今さらスカーフをはずそうと思わない人とか、キャリアウーマンなどは逆に
「イスラムはテロリスト!」
みたいな方向にもっていこうとする世界情勢などを見て、
「自分はイスラム教徒なんだ」
と、そこにアイデンティティーを見い出し、むしろ誇らしげに髪を隠すとか、そういう女性もいるとか。
そのあたりの思いは人それぞれとしか言いようがないが、こういった多様なスカーフ問題に、ひとつ面白い解釈を見つけることとなった。
それが小滝さんの「被らなくていい」発言。
心理学者の岸田秀さんとの共著である『アメリカの正義病・イスラムの原理病』によると、なぜ、ムスリム女子は自らスカーフをかぶり、ヒジャーブという仮面で顔を隠したりするのかといえば、小滝氏曰く、
「あれは適齢期以降の女性がかぶるんですが、実は大人になってもヒジャーブを被らなくていい女がいるんです」。
へえ、そうなんや。あの堅苦しい、顔から髪から全身を覆うようなイスラム独特の衣装を着なくていい女とはどんな人なのかと問うならば、
「それは男の関心を、そそりそうもない女性」。
男の関心をそそらない、それってつまり……
「つまりありていにいうとブスのことです」。
えー、そうなの?
ブスはかぶらなくていい。といわれれば、たしかに「男を惑わすのはよくない」から肌を隠すのだとしたら、
「男を惑わす心配がない」
といった女性は別にいいということになる。
論理的ではあるが、ずいぶんと失礼な話ではある。
あれだけ厳しく「顔見せるな!」といっておいて、不美人は
「お前は惑わされへんからええ」
とは。そんなん、うれしくもなんともないではないか。
ということはつまり、イスラム女性で覆面をかぶらない人は
「あたしってブサイクなの」
と自ら宣言しているということになり、そうなると選択の余地なくかぶらなしゃあない。
なるほど、非イスラムの人は女性のスカーフをパッと見て「抑圧」と解釈するが、ムスリム女子からするとそう単純な話ではないようだ。そこにはプライドの問題もある。
「男を惑わしたらあかんけど、ブスはゆるしたる」
だれが考えたのか知らないが、女心をうまく突いた戒律である。一見マッチョな「髪かくせ」だが、うまくからめ手使って浸透させてるのだなあ。
神様は女性の機微をわかっていらっしゃる。さすが全知全能は、トンチもうまいもんやと感心しました。