菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

NHKテレビ「東京五輪体操の華・チャスラフスカ」を見る

2016年09月06日 08時49分38秒 | 日々の雑感
 昨日の夜は、月曜なので野球のテレビ中継もなかった。BS1を見ていたら、突然、1964年の東京五輪の映像が写しだされ、体操競技のチャスラフスカの段違い平行棒の演技であった。

 東京五輪のとき、私は、高校3年生であった。東京オリンピックの記録映画を撮ったのは、市川昆監督であった。

 当時のテレビは、白黒であったが、東京オリンピックはカラー映画であった。この映画の主役は、べラ・チャスラフスカさんであった。体操の華というより、東京五輪の名花であった。

 テレビではよくわからなかったが、映画でみたべラ・チャスラフスカさんは、本当にきれいだった。
 当時の日本の女子体操の中心は、池田敬子さんであった。池田さんには申し訳ないが、べラ・チャスラフスカさんの優美さは、群を抜いていた。高校生の私にも、それはわかった。

 このべラ・チャスラフスカさんは、1968年にチェコスロバキアの民主運動・「プラハの春」事件に参加し(2000語宣言に署名した)たのだった。
 この時、私は大学4年生。

 「プラハの春」事件は、1956年のハンガリー動乱と同じように、ソ連の戦車の前にいったんは挫折した。
 当然、べラ・チャスラフスカさんは、迫害をうけたが、節を曲げなかった。
 当時の、ソ連、ソ連のいうがままのチャエコスロバキア政府の執拗な嫌がらせ。
 それにもめげず、掃除婦をしながら糊口をしのぎ、変節をしなかった。、
 

 そして、1989年、ベルリンの壁が崩れるとともに、ソ連の崩壊とともに、べラ・チャスラフスカさんは、復権した。なっといっても、オリンピックの金メダル7つをもつ国民的英雄である。
その解放集会での、べラ・チャスラフスカの演説は、力強かった。

 べラ・チャスラフスカは、若いときには検閲交じりで思うように書けなかった伝記を書きなおそうとしていた。
 
 べラ・チャスラフスカさんは8月30日、がんで亡くなったと、ニュースは伝えていた。
 彼女の伝記は完成したのだろうか。テレビは伝えていなかった。


 
 
 
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