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菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

仮説実験授業の代表・故板倉聖宣さんから学んだこと 「お墓について考えるその1」

2019年01月08日 15時24分32秒 | 仮説関連
 ≪お盆に考える≫
あなた お葬式 どうする?
気弱な原子論者が考えた「お葬式、お墓」論

  桜川たのしい授業研究所長 菊池伸浩
 
 4月に、私の知り合いが55才という若さで、急逝した。お通夜、葬儀に参列し、いろいろ思ったことがあるので、書いてみたい。
 私は、新潟で生まれ、東京で育ち、茨城県桜川市に住んで、48年になります。まだ、お墓は準備していません。迷っているのです。
 私は科学の教員をしていたこともあって、原子論者です。私が師匠と仰ぐ板倉聖宣氏は、もっと強烈な原子論者です。本人は戦闘的原子論者と言っています。板倉氏が、「死んだらどうなるか」という文を書いています。全部は書ききれませんので、さわりの文だけ紹介します。

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 ≪死んだらどうなるか≫
 人間が死ぬと、焼き場というところで、燃やしてしまうのが普通です。焼き場では、それまでその人の身体をつくっていた器官も燃えてしまいます。≪遺骨≫といって、骨を作っていた原子の一部と、気体にならない原子だけは灰となって残りますが、その他の原子はみな、空気中の酸素原子と結びついて、気体となって煙突から出ていってしまいます。ふつうはその≪遺骨≫だけを、瀬戸物の入れ物の中にいれてお墓の中に納めるのです。
 しかし、物は何も残らなくても、この人を知っていた人びとの心には、いろいろな思い出が残ります。その人といっしょに経験した楽しい思い出が残ります。その人といっしょに経験した楽しい思い出や苦しい思い出、なつかしい思い出が残ります。夢にも見るでしょう。だから、その人は後に残された人びとの頭の中にだけ残り続けることになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私がこの文章を高校の生徒さんに紹介した時、沢山の反発を受けました。「霊」を否定しているからです。科学者なら、この世のものはすべて原子からできている。こう言わざるを得ないのです。
 だから私は、どうせバラバラな原子になってしまうなら、お墓を造っても意味はないのではないか。そう考えるようになってきたのです。しかし、私は、板倉さんのような戦闘的原子論者ではありません。気弱な原子論者です。

 私が死んだとき、葬式を出すことになると思います。誰が出すのか、奥さんか、子どもか。その立場を考えると、「世間一般常識とかけ離れた葬式」になっても迷惑をかけることになってもいけません。どうしたら、世間との摩擦もあまりなく、私の意に沿うような「お別れの会」になれるのか、葬儀に参加するたびに考える、今日この頃です。

  私は、この連休中(2017年5月)は、「あなた お葬式 どうする?(山路敏英編集)」の本を読みながら、いろいろ考えてきました。要は、70歳を過ぎて、子どもらに迷惑をさせないために、自分の葬式をどうするかということを考えざるを得なくなったということです。

  私の父と母の葬式は、兄に任せっぱなしです。父の葬儀のおき、父は自分で「戒名」をつくっていたので、そのことでお坊さんとひと悶着あったと聞いています。
私はお通夜のあと、棺の番をする係ばかりでした。兄は菊池家を継いでいますので、東京・府中に父のお墓があり、そこに遺骨を入れると言っています。この墓は、兄の長男が継ぐ予定でいます。 私もそこに入れてくれとは思っていません。
 
 私と奥さんは、茨城県西茨城郡岩瀬町(現在は桜川市)に家を作り、ここに住んで40年以上たちます。当然、ここ桜川市で一生を終わるつもりでいます。そこで、お墓をどうするか、葬式をどうするかを、考えなくてはならない課題となっているのです。

 まず、お葬式です。1昨年、真壁に住んでいる私の知人が奥さんを亡くした時、あるお寺に、「檀家に入れてほしい」と申し入れ、急遽、お坊さんに来てもらったと、そのお坊さん自身が話していました。そんな方法があるのかと知ったものです。しかし、今は無宗教でやる家も多くあるとのとことなので、その方法も研究したいと思っています。
 また、お墓の件では、わざわざ墓地を購入するのも、いかがなものかと思って、躊躇しております。

 (つづく)


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北野武著「新しい道徳」を読む (北野流ツッコミの紹介その12)

2019年01月08日 09時29分47秒 | 仮説関連
 神様と関係なしに、自分の道徳で生きていけばいい。

 注)ここは北野武氏なりの生き方の道徳を語っています。全面的には、共感はしませんが、「自分の道徳観」を自信を持って語れるって、すごいことですね。
 
 近頃は、女なんてもういいかなって感じがしている。
 若いときはいろいろあった。
 そうはいっても、天秤にかければ、お笑いが上手くいっていないときは、女には目がいかない。お笑いが上手くいっていると、目がいくんだけど。それがこのところ、仕事が上手くいっていても、ちっとも女には目がいかない。もう仕事だけでいいかな、なんて思うようになった。
 カミさんからしたら勝手な話かもしれないけれど。
 
 俺はカミさんが「離婚したい」っていったら、すぐに離婚することにしている。
 だけど俺の方から、カミさんに離婚したいというつもりはない。
 俺はやりたいようにやるけれど、そういう俺の妻でいたいという限り、妻の座はいつまでもカミさんのものだ。収入は全部真っ直ぐカミさんの口座に入るようになっている。自分がいくら稼いでいるのか、まったくわからない。俺はカミさんから、小遣いをもらって生活している。その小遣いがあまり少ないので、「いい加減にしろ」って文句をいったことはあるけれど。

 「よくそんなことができるなあ」と、いろんな人にいわれる。自分でもそう思う。
 だけど、自分が売れていなかったときのことを考えれば、当然だと思う。
 売れたからって、急に偉そうにするわけにはいかない。お互いに苦労しているんだから。
 半分はカミさんの力というか、当然の権利だろうと思う。この人は俺が稼いだ金の半分の権利を持っているわけだ。だから、全部渡す。俺が稼いで、カミさんが管理する。それが公平でいいんじゃないか。金の管理が面倒だからまかせているということもあるけれど。俺が管理していたら、たぶん今頃はスッカラカンになってるに決まっている。
 口はばったいけれど、それがいうなれば俺の道徳だ。

 いや、これは俺の側から見た話で、カミさんにしたら、そんな格好いい話じゃないだろうってことになるかもしれない。とにかく稼ぎは全額渡すけれど、俺は好き勝手にやらせてもらっているわけだから。最近は、自宅にもめったに寄りつかない。カミさんともほとんどあっていない。
 夫婦は死ぬまで仲良く一緒に暮らすべきだって道徳の持ち主からしたら、酷い奴だと言うことになる。もし俺がクリスチャンだったら、とんでもないだろう。
 だけど俺は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもない。だから神様と関係なしに、自分の道徳で生きていけばいいと思っている。悪い道徳かもしれないけれど。「女遊びなんてするに決まってんじゃねえか」みたいな。

 世間的にはあまり認められない道徳だろうけれど、そんなことはどうでもいい。当然その道徳には、「これだけはしない」とか「カミさんの権利は守る」とか、自由にやっている分だけ、自分を縛るルールも入っているのだ。
 どこかで歯止めをかけるのが、道徳の役割だ。
 そうでなければ、何をやってもいいことになって、面白くもなんともない。野球だってサッカーだって、ルールがあるから面白い。人生も同じだ。

 ここまでずっと書いてきたように、道徳なんてものは人によって立場によって、いろいろあるわけだ。大事なのは、どんな道徳であっても、自分で決めた道徳はきっちり守ることだと俺は思う。この本は道徳についての本だから、道徳って言葉を使うけど、それはルールといいても規則といってもなんでもいい。とにかく自分なりの決めごと作ってそれを守ることだ。

 他人の作った道徳が、すとんと自分の胸に落ちるなならがそれを守ればいい。けれど、そうじゃないなら、守るかどうかわからない道徳を抱えて生きるよりも、自分なりに筋の通った道徳を作って、そてをきっちり守った方がいい。
 道徳なんて必要ないなんていうつもりはない。
 人間として生きるには、やっぱり道徳はあった方がいい。
 ただし、他人の道徳に鼻面つかまれて引っ張り回される必要はない。
 道徳は自分で作るに限る。
 どうやって作るかわからなきゃ、とりあえず道徳の本を読んでみたらいい。
 学校で使っている道徳の教材にいろいろ文句をつけてきたけれど、少なくともあの教材は自分なりの道徳を作る手本にはなる。


 

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北野武著「新しい道徳」を読む (北野流ツッコミの紹介その11)

2019年01月07日 17時21分56秒 | 仮説関連
 もうそろそろ、この本も終わりに近づいてきています。あと少し、お付き合いお願いします。

 向上心のある芸人は、自然にこの世界の掟を身につける。 
 上に行こうとする奴は、放っておいても道徳的になる。


 「食い物が旨いとか、不味いとかいうものは下品だ」
 「母親にそういわれて育ったせいで、俺にもそういう感覚がしみついているけれど、その「道徳」を押しつけるつもりはない。自分の子どもにだって、そんなことはいわない。
 道徳は他人に押しつけたり、押しつけられたりするものではない。
 もちろん親として、自分の子どもに最低限の道徳は身につけさせたいとは思う。
 ただ、それはあくまでも最低限のことだけだ。

 子どもが悪いことをしているのに、気づいていなかったら、それは教えてやる。なぜそれがいけないかを、話して聞かせればたいていは理解する。
 人としてどうしても許せないことをしたら叱るけれど、そういう機会はめったにない。子どもだってバカじゃない。ある程度の年齢になれば、親の前でそんな悪さをすることはまずはない。
 最低限のことしか教えないのは、どんなに厳しく道徳を躾けたところで、子どもが自分からそう思わなきゃ意味はないからだ。

 結局のところ道徳は自分で身につけるものなのだ。
 どんな道徳を身につけるかは、人によって違うだろうけれど。
 たとえば、俺は弟子にも最低限のことしかいわない。理由は同じだ。
 最低限というのは、あいさつと礼儀だ。芸人の社会は縦社会だ。自分より先にこの世界に入った人は先輩として立てなくてはいけない。

 それから相手がいくら年下でも、仕事をする以上は最低限の礼儀がある。テレビの政策現場では、若いADがディレクターやプロデューサーにこき使われている。そのディレクターやプロデューサーは、俺たち芸人のことは大事にしてくれる。それで、ときどき勘違いする弟子がいる。自分まで偉くなったつもりで、ADにぞんざいな口をきいたりする。そういうことだけはぜったいやっちゃいけないよ、と教える。
 それくらいの最低限のことを教えたら、あとは放っておく。
 冷たいようだけど、それ以上は本人が努力するしかない。

 不思議なもので、成功する芸人は例外なく、あいさつをきちんとするし、それなりの礼儀もわきまえているものだ。人当たりもいいし、ADに横柄な態度をとることもない。
 芸人には芸人の道徳ってものがあるわけだけれど、それを細かく教える必要はないし、教えたってなかなか身につくものじゃない。

 ところが向上心があれば、そういうものは自然と身につく。
 芸人に限らず、どの世界でも成功する人間は、だいたいそういうもんだろう。
 人間社会の中で、上に行こうとする奴は、放っておいても道徳的になる。
 そうでないと、上には行けない。

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「先生から無茶な宿題をだされた場合の3人3様の対応」

2019年01月07日 16時54分27秒 | 仮説関連
 私は、演説中には、いろいろなことを考え、思い出しながら、口を動かしています。なぜなら、原稿はできあがっていますので、同じことを何回も、何百回も話しているからです。今日も、羽鳥で話しているとき、思いだしたことがあります。

 これは、もう50年前(1968年)の話です。私が真壁高校に来る前年のときの話です。
 ずいぶん無茶な宿題をだす先生がいました。夏休みの宿題で、「教科書を原稿用紙150枚に書きうつしてこい」というものです。昔は、自習のときなど「教科書書写」という課題がありました。
 
 この夏休みの宿題も、けっこうみんなやって来来ていたのです。その宿題をやらされた生徒さんから、大人になって話を聞く機会がありました。3人3様であったので、紹介する次第です。

◆今は、羽鳥で石材業している方
 「俺はなあ、馬鹿らしくて自分ではやらないで。子分に10枚づつ分けてやらせたよ。どうせ先生は中身なんか見ないから」


◆今は、市会議員の方
 「思い出すのは、一番役立った宿題は150枚もの原稿用紙に教科書を書きうつすものだった。1枚1枚一生懸命やったことを覚えている」

◆今は、区長をしている方
 「多分、この宿題を出さなかったのは、俺だけだったと思うよ。やれないものはやれないといったよ。怒られなかったかって、『いろな生徒がいるんだなあ』と言っただけで、怒られなかったよ」

 注)この先生の宿題は「有名」で、いろいろな人から卒業生から話を聞きましたが、「提出しなかった」といった方は、昨年(2018年)、暮れに初めて聞きました。


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平成31年桜川市消防団出初め式に参列

2019年01月06日 19時06分00秒 | 仮説関連
 3日間で60カ所の街頭演説の疲れが出たのか、午前中は、ブログ1本を書いて、だらだら過ごしました。
 


 午後2時半からシトラスで、出初め式の式典が行なわれ、参列しました。
 午後2時半からの式典は、他の自治体と重ならなかったらしく、来賓の国会議員はフルメンバーが参加していました。いままでの場合、秘書さんが代理出席が必ずあったのです・・・。

 はじめに、大塚市長が式辞をのべ、その後、団員の表彰が続き、そして、来賓のあいさつが続きました。

 まずは、仁平実議長です。

 

 2番目は田所衆議院議員。3番目岡田参議院議員。4番目は郡司参院副議長。
 私は、「郡司さんは国会の副議長」なのだから、国会の議員の格としては、一番先にするべきではないかといっているのですが、市の幹部は理解してくれません。
 
 5番目と6番目は上月、藤田参議院議員。この2人には、今年の7月が改選を迎えます。
 藤田議員と話したところによると、立憲民主党も候補者を立てるということで、「だいたいメドはついたようです」と語ってくれました。
 ちなみに藤田議員は、国民民主党です。
 私は、「国民民主党(県民フォーラム)は、昨年、県議選で苦戦したから大変でしょうね」と話したら、「そうですね」との返事が返ってきました。

 上月参議院議員は、7年前の県知事選に橋本知事に敗れ、翌年の参議院選挙で自民党から立候補して、初当選した方です。

 7番目は、大井川知事の代理の方です。8番目に白田県議。9番目に筑西広域消防署長。

 最後のあいさつは、羽野島幸雄団長の謝辞と訓示がありました。
 ここでは、大和の前原近辺で、年末・年始に「不審火が発生している」との話がありました。

 数えて見ますと、11人の方々がそれぞれあいさつされたのですが、どなたも、短くまとめられていたので、正味1時間10分くらいで終わりました。

 午後4時からは、大和庁舎前で、分列行進です。
  


 4時半すぎ終了しました。


 

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