ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市美和町の生見は小ざっぱりした田舎の原風景を残した地

2021年03月11日 | 山口県岩国市

        
                 この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         生見(いくみ)は北から南へ縦走する山塊に挟まれ、その中を南流する生見川流域に位置す
        る。地名の由来について風土注進案は、八幡神鎮座の山に、生き雲の如くたなびいたので
        山を生雲山と名付け、里を生雲の郷と唱えた。生見は生雲の訛りなりという。
(歩行約2.
        9㎞)

        
         総合支所前より歩き始める。

        
         小学校のある高台から見る生見川沿いの集落。

        
        
         1872(明治5)年に長徳寺と盛久寺が合併して長久寺(臨済宗)となる。盛久寺は智覚普
        明国師を開山と伝える古刹であったが、長い間無住となっていたため、村内の長徳寺へ合
        併させられて双方の1字をとって現寺号となる。
         長徳寺の本尊は地蔵菩薩、盛久寺の本尊は観音菩薩であったが、理由も時期も不明であ
        るが、現在の本尊は弥勒菩薩とのこと。 

        
         高台にある美和西小学校は、阿賀、秋掛、北中山、生見、下畑、西畑小学校の統合によ
        り、2001(平成13)年開校した学校である。(児童数60名弱) 

        
         学校裏に大元社。

        
         山あいの田園に民家が点在し、長閑な風景が展開する。

        
         1935(昭和10)年建立の長野耕地整備記念碑。

        
         故新原先生の碑文は風化して読めない。新原といえば芥川龍之介の父新原敏三は美和町
        出身である。龍之介が生後7ヶ月頃に母・フクが精神に異常をきたしたため、龍之介は母
        の実家で育てられた。11歳の時に母がなくなると、翌年にフクの実兄である芥川家の養
        子となる。

        
         こちらも大元神社。応仁年中(1467-1469)西畑村の大元社を勧請して創建する。1870
        (明治3)年河内社、五所社、大歳神、若宮、寄江社を相殿する。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、阿賀・生見・下畑村の区域をもって加見畑村
        が発足する。村名は旧村の1字をとって命名されたという。

        
         名所旧跡もなく輩出した著名人もいないが、小ざっぱりした田舎の原風景を残した集落
        である。

        
         商店街であったであろう通り。

        
         ホタルが描かれた給水用仕切弁。

        
         渋前川側の通り。

                
        
         旧阿賀(あか)村を訪ねると、家々は下畑川に沿って点在し、中心と思われる集落が見当た
        らない。郷バス停付近で岩国往来は左手に下って行く。

        
         2手に分かれた先の山裾に湯の迫集落がある。

        
         速田神社は宗像の三女神を勧請し、小祠を建て速田大明神として祀ったのが始まりとさ
        れる。1660(万治3)年毛利綱広により社殿を再建、1773(安永2)年に社地を黄幡とい
        う地に移したが、1791(寛永3)年に焼失する。再び下畑川東岸の郷に遷座し、相殿に山
        城国男山から勧請した八幡宮を祀る。

        
         県道本郷周東線に設置されている岩国往来の道標。

        
         河内神社の社伝によると、平安期の970(天禄元)年城州(現在の京都府南部)加茂大明神
        より勧請する。平安期の1141(永治元)年には都濃郡の二俣大明神を勧請し、相殿として
        祀ると伝える。

        
         賀見畑の名が残る簡易郵便局。賀見畑村役場が旧街道の自動車の乗入れ不可能な位置に
        あり、1955(昭和30)年美和村発足まで使用されたそうだが、位置を特定することが
        できなかった。廃藩後、阿賀村と下畑村は早くから連合していたようで、役場の位置を決
        める際、大きな効果をもたらしたとされる。     


美祢市秋芳町の別府はポリエの中に日本名水百選・別府弁天池 

2021年03月04日 | 山口県美祢市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         秋吉台の西に位置するこの一帯は、カルスト地形で堅田ポリエ、下嘉万ポリエ、江原ウ
        バーレの3地域に分けられる。
         堅田ポリエは別府台の北部にあたる低地域で、厚東川の支流・川原上川が地内を東流す
        る。ポリエとは石灰岩地域にみられる細長い陥没地でウバーレよりも大きいものをいう。
        (歩行約2.9km)


        
          この地へはバス路線は通勤・通学用に設定され、JR於福駅より片道5.5㎞もあること
        から車で訪れる。(郵便局近くの旧道に駐車)

        
         壬生(みぶ)神社は一ノ鳥居から長い参道である。

        
         城山(石楠山)の南麓に鎮座するが、中世には厚東・大内両氏の争奪の地であり、南北朝
        争乱時には戦場となり、社殿などが兵火にあったものと思われる。

        
          灯籠の上部に鯱のようなものが載っている。

        
         社伝によると、平安期の808(大同3)年豊浦二宮(現下関市の忌宮神社)より勧請したと
        いい、美祢郡の総鎮守であったという。

        
         弁天池駐車場は満杯のため長い車の列。

        
          秋芳梨とニジマス、リンドウがデザインされた旧秋芳町の集落排水用マンホール蓋。

        
         普段はここまで車を乗り入れることができるが、今日は採水される方のみのようだ。カ
        ルシュウムの含有量は20ppmで、人間の口にはぴったりとされている。

        
         厳島神社の創建は平安期の907(延喜7)年とされ、1871(明治4)年まで弁天社として
        祀られてきたが現社号に改称する。
         壬生神社の社坊である金剛寺(真言宗)に水神として、安芸宮島より弁財天を池畔に勧請
        したことに始まるという。

        
         厳島神社傍に諏訪神社が祀られているが、昔、堅田の長林を開拓したが、水に困って諏
        訪大明神に祈ったところ、「弁天様を祀り、青竹を杖として、水の源を探し求めよ」とお
        告げがあり、それからまもなく清らかな水が発見されたという伝説がある。

                
         神木のムキノキは周囲5.3m、樹齢約600年で、神の「依り代(よりしろ)」として保
        護されてきたようだ。材は強靭で農具の柄などに用いられる。

        
        
         厳島神社境内にある別府弁天池は、日本名水百選に選定されており、毎分11tの水が
        湧き出ている。
         コバルトブルーに見えるのはミネラル分を含んだ水が、太陽光に照らされ、青色の光の
        みが反射することで、このような神秘的な色が見えるという。
         最も美しく見えるのは晴れた日がベストだが、時間帯によってはこのように木影が写る
        ので要注意である。

        
         中国自然歩道は、関門トンネル人道入口を起点に、秋吉台で南北に分かれ、北は萩城下、
        山口市の長門峡を経て島根県へ続く。南は県都から羅漢山を経て広島県へ通じる道である。
        蔵前の道が於福から嘉万市への自然歩道である。

        
         地内を蛇行する川原上川。

        
         旧道を東進。

        
         地蔵尊と市があったので恵比須社だろうか。

        
        
         堅田市は宝暦年間(1751-1764)まで定期市が開かれていたが、地理的条件に恵まれなかっ
        たため次第に衰えた。

        
          更新されていない住宅は無住のようだ。

        
         教覚寺(真宗)は、1697(元禄10)年壬生神社の社坊の1つであった喜長庵(真言宗)の
        旧跡に創建したと伝えられる。1875(明治8)年同地の西福寺に合併して廃絶したが、4
        年後に再興されたという。

        
         地内にもトタン葺きの屋根が少なくなっていた。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、近世以来の嘉万下村を改称して別府村として発
        足する。以来、1955(昭和30)年秋芳町が発足するまで、この地に村役場が置かれてい
        た。

        
         旧道の家々はその多くが更新されて往時を偲ぶことができない。

        
         緑色のパイプラインが地内を横断しているが、住友大阪セメントの石灰石運搬用のベル
        トコンベアである。秋芳鉱山から日本海側の仙崎港に運び出すために設けたもので、総延
        長16.5kmとされるが大部分はトンネルだそうだ。


宇部市棚井は厚東氏時代の史跡が残る集落 

2021年03月03日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         棚井は厚東川下流の右岸に位置し、河岸段丘に集落が立地する。地名の由来は「段々畑
        にてこれは向いなる故棚井と称する」という。(歩行5.7㎞)

        
         JR宇部駅から宇部市営バス木田行き約8分、厚東市民センター前バス停で下車する。

        
         バス路線を引き返すと右前方に厚東市民センターがある。ちなみに「厚東」とは厚狭郡
        の東部に位置したことによるという。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、広瀬、棚井、末信、吉見の各村をもって厚東村
        が発足する。その役場がこの地に置かれた。

        
         センター内には棚井古墳第4号古墳と石碑がある。案内は薄れて判読できないが、上片
        山の裾にあったものを移設したとある。石碑も風化して読めないが、大正4年(1915)11
        月建碑とある。

        
         集落内を進むと幸神(さいのかみ)の石祠があるが、村や地域の境界、道の辻にあるので、
        文字どおり禍を防ぐ賽神と思われる。

        
         山陽小野田市は大きな河川を有しないため、宇部市の厚東川を同一水源としているよう
        で、この地に水道施設がある。

        
         棚井は上・中・下の区域となっているが、中心部は厚東氏の館あった棚井中のようであ
        る。

        
         厚東の史跡案内図が恒石八幡宮下にある。

        
         平安期の970(天禄元)年頃に厚東氏2代武基が備後国の常石浦に停泊中、海中から御神
        体を発見して持ち帰ったのが始まりとされる。厚東氏が建てた神社では最古である。
         厚東氏の居館の鬼門にあたる亀山(現在地)に本殿を建立し、仮殿から遷宮し厚東14郷
        の鎮守となる。

        
         裏参道に大きな鳥居、灯籠と石畳が並ぶ。

        
         境内神社として大歳神を主祭神とする亀山神社。八王子神、稲荷神、河内神が配祀され
        ている。

        
         八幡宮正面を県道まで進むと、宗廟恒石八幡宮を示す石碑と、石段を上がれば鳥居があ
        るが、途中の参道は車道になっている。

        
         南側の鳥居から戻る途中に厚東護国神社がある。

        
         厚東氏は古くより長門国に根付いた在地豪族で、7代厚東武光が霜降城を築城し、14
        代武実のとき長門守護職になるが、大内氏との争いに敗れて17代義武をもって滅亡する。
        (背後の山は城のあった霜降山)
 

        
         東隆寺参道入口にある三界萬霊塔と幸神。塔は文化十酉(1813)三月四日と刻字あり。

        
         東隆禅寺(曹洞宗)の山門を潜ると猫とワンちゃんの出迎えてくれる。寺は南北朝期の1
        
339年厚東武実が厚東氏の菩提所として建立する。長門国における禅宗弘布(ぐぶ)の中心
        として重きをなしていた。
         厚東氏滅亡後は大内氏も加護していたが、毛利氏の時代に加護が絶えて衰退する。16
        88(元禄元)年に再興され、1923(大正12)年に本堂が再建された。

        
         山門と本堂の間に「南嶺和尚道行碑」(県文化財)がある。南嶺(なんれい)和尚は当寺を開
        山したのち、摂津の福厳寺、博多の聖福寺などの住職を務めた。晩年は再び東隆寺に戻り、
        南北朝期の1363(正平18)年に示寂(じじゃく)する。
         この碑文は、室町期の1454(享徳3)年中国の明で作成されたもので、石碑は萩藩主・
        毛利重就により建立される。

        
         本堂背後の山に八十八ヶ所霊場があり、これを登るとすぐに開山南嶺和尚墓(一字一石
        経塚)がある。寺の東方にあった墓を移転したとある。

        
         同敷地一角に厚東氏墓所と言い伝えられる五輪塔と宝篋印塔がある。寺の由緒には「開
        基厚東武実公之墓 境内有之 但五輪之墓‥」と記されているが、被葬者の名前や墓石と
        の関係は不明とのこと。

        
         周辺の家々は改築か新築がすすみ、このような家は少なくなった。

        
         黒瓦と赤瓦という著しく異なった屋根の浄名寺(浄土宗)。

        
         厚東武実が祈願所として鎌倉期の1318(文保2)年に建立した真言宗の寺であった。武
        実はこの寺をこよなく愛し、法名も「浄名寺殿天庵‥」と号し、南北朝期の1348(正平
          3)
年に没して当寺に葬られたとされる。
         厚東、大内時代は栄えたが、毛利氏時代に加護が絶えて衰退したが、江戸初期の寛永年
        中(1624-1644)に浄土宗として再興された。

        
         本堂裏の墓地の奥まった所に厚東氏墓所があり、5基のうち2基は形が整った五輪塔で
        ある。案内がないので被葬者が誰なのかはわからなかった。

        
         境内に長門三十三ヶ所観音霊場19番札所。

        
         浄名寺の南にある高台が厚東氏の東館跡とされるが、現在は田畑と宅地となっている。

        
         浄念寺は、室町期の1482(文明14)年大内氏の家来であった俗姓・吉見将監が厚東上
        片山にあった禅宗の堂を浄土真宗に改め創建したとされる。江戸中期には碩学(せきがく)
        徳の住職を排出し、長門国屈指の大寺であった。
         厚南に給領地があった右田毛利家出の毛利謙八が、諸隊の1つ集義隊を組織して当寺に
        本陣を置いたが、1865(元治2)年2月1日暗殺される。誰によって殺害されたかはわか
        っていないが、25歳という若さで勤王の花となる。

        
         山門の右手には、1647(正保4)年鋳造の梵鐘があるが、17の末寺名が刻まれている。
        太平洋戦争中の金属類回収令に対し、時を報じるからという理由で供出を免れた。

        
         中原中也の父・謙助は、1876(明治9)年農家である小林家の次男としてこの地に生ま
        れる。優秀であり医術開業試験に合格し、陸軍軍医として各地を転任する。1901(明治
          34)
年士族の柏村家に籍を移す。
         中也の母・フクは父が病没後、弟である中原政熊(中原医院)の養女となる。1915(大
        正4)年一家で中原家と養子縁組をし、予備役編入を申し出て中原医院を継ぐ。謙助は19
        
28(昭和3)年往診先で倒れ、不帰の人となるが、小林、福井、柏村、中原と姓を遍歴した
        人生でもあった。

        
         厚東氏が滅びると市はなくなり、農家が散在する寒村となっていった。

        
         棚井下地区は古川に流れ込む水路周辺部に立地する。

        
         江戸期の船木は船木宰判の勘場が置かれ、この地域の政治・経済の中心であった。宇部
        から勘場に用事がある場合、棚井から山越えをしなくてはならなかったが、重要な道とし
        て5ヶ所にわたって石を敷き詰めた石畳道がある。

        
         慶応年間(1866年頃)尼僧の千林尼(せんりんに)によって造られた石畳で「千
        林尼の石畳」と呼ばれている。この道は人の行き来も多かったが、雨が降ると道はぬかる
        み通行人は大変苦労した。尼は自ら托鉢をして浄財を集めて道を整備する。

        
         棚井下集落の氏神で、八幡宮と天満宮が合祀されているが、昔は霜降岳の出城であった
        引地城の守護社であったという。

        
         周囲の住宅とは構えの違う家があるが、付近の農家では養蚕が盛んで、クワの木が多く
        植えられていたといわれる。

        
         道なりに進むと県道に霜降山登山口バス停がある。平日は9便、土日は7便と運行され
        ている。