この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
弥富(やどみ)は田万川が東流し、川沿いを県道日原須佐線が走る。県道と主要地方道益田
阿武線が合流する新市は、弥富の中心地で公共施設や商店がある。
この地域には生活バスがあるものの、JR江崎駅での乗り換えができないため車に頼ざ
る得ない。(歩行約3.3㎞)
1889(明治22)年町村制施行により、弥富上村、弥富下村、鈴野川村が合併して弥富
村が発足する。この付近に村役場があったとされるが、確証を得ることができなかった。
田万川を渡る大きな橋の向こう側に小さな橋があるが、昔の橋跡に架けられた橋とされ
る。
土床道は昔の土橋を渡ると、この道を山手に向かう。
街道は山の中に消える。
弥富小学校は、1877(明治10)年小川小学校弥富分校として創立されたが、2019
(令和元)年閉校となる。
丸山八幡宮は、奈良期の725(神亀2)年宇佐神宮より勧請し、弥富と福田の境である八
幡原に創建された。その後、江戸期に弥富村馬場へ遷座したが、1684(貞亨元)年現在地
に建立され、給領主である益田氏の祈願所となった。
現在の社殿は18世紀末頃建築されたと推測され、境内社として祇園社(右)と荒神社(中)
が祀られている。
街道は丸山八幡宮前から市の台へと上がって行く。
上り坂の途中に高さ180㎝の蔵尊があるが、1721(享保6)年建立とされる。
市の台付近の民家は、その多くが空家状態。(県道まで引き返す)
県道を西進して行くと、右手に西秀寺(真宗)がある。かって真言宗の寺としで弥富上楢
木にあり、寿楽寺と称して平山星の城城主・吉見安房守が建立する。1594(文禄7)年改
宗して現寺号に改め、1953(昭和28)年現在地に移転してきた。
寺の向かい側に「一万のはな」と呼ばれる場所があり、小さな祠と「三界万霊□」と刻
まれた石碑と石灯籠が立つ。石碑銘文「維持宝暦十歳・□正月七日造立・願主立野七良兵
衛」とある。(□は読めず)
戦国時代、吉見氏の出城であった星の城落城の際、城兵が多数討死した地として伝わる。
地域の伝説によると、戦死者の鼻を集めて葬ったという。
田万川に沿って新市に入る。
石州瓦の屋根が並ぶ。
丸山八幡宮への橋を左折すると蔵が見えてくる。
風土注進案によると「御本陣壱ヶ所、蒲原有田貞右衛門所」とある。藩主の御国廻の際
に、本陣として使われたようだが、同地には大きな家が残されている。
土塀に囲まれていたようで、門と思われる空間があるが、木々の生長などで中の様子は
わからない。
全柳寺(曹洞宗)の寺伝によれば、永亨年間(1429-1441)津和野城主吉見氏が創建した興禅
寺の後であり、1672(寛文12)年給領主の益田就宣の3男七兵衛が早世したので、追福
のため当寺を開基し、法名に因んで現寺号に改めたという。
1863(文久3)年大和十津川の戦いに敗れた中山忠光(明治天皇の叔父)は、長門に亡命
し、10月には生雲村(現山口市阿東)の大谷忠兵衛宅より当寺に移り、同年11月11日
須佐を経て海路で下関の白石邸に至るまで潜伏した。
阿武火山群の火山の1つとされる伊良尾山は、約40万年前に噴火し、溶岩が約14㎞
も流れ下る。現在は「龍が通った道」と呼ばれ、溶岩流は谷を埋め、肥沃な土壌と豊富な
水を生んだ。弥富特産の蕎麦の花が田んぼ一面に咲きそろい、10月上旬には「そばの花
まつり」が行われる。
市支所、診療所、郵便局、JA、ガソリンスタンド等があり、日常的には地域内での移
動で済みそうである。