ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市の弥富は田万川左岸に位置する山間集落

2021年03月14日 | 山口県萩市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         弥富(やどみ)は田万川が東流し、川沿いを県道日原須佐線が走る。県道と主要地方道益田
        阿武線が合流する新市は、弥富の中心地で公共施設や商店がある。
         この地域には生活バスがあるものの、JR江崎駅での乗り換えができないため車に頼ざ
        る得ない。(歩行約3.3㎞) 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、弥富上村、弥富下村、鈴野川村が合併して弥富
        村が発足する。この付近に村役場があったとされるが、確証を得ることができなかった。

        
         田万川を渡る大きな橋の向こう側に小さな橋があるが、昔の橋跡に架けられた橋とされ
        る。

        
         土床道は昔の土橋を渡ると、この道を山手に向かう。

        
         街道は山の中に消える。

        
         弥富小学校は、1877(明治10)年小川小学校弥富分校として創立されたが、2019
        (令和元)年閉校となる。

        
         丸山八幡宮は、奈良期の725(神亀2)年宇佐神宮より勧請し、弥富と福田の境である八
        幡原に創建された。その後、江戸期に弥富村馬場へ遷座したが、1684(貞亨元)年現在地
        に建立され、給領主である益田氏の祈願所となった。

        
         現在の社殿は18世紀末頃建築されたと推測され、境内社として祇園社(右)と荒神社(中)
        が祀られている。 

        
         街道は丸山八幡宮前から市の台へと上がって行く。

        
         上り坂の途中に高さ180㎝の蔵尊があるが、1721(享保6)年建立とされる。

        
         市の台付近の民家は、その多くが空家状態。(県道まで引き返す)

        
         県道を西進して行くと、右手に西秀寺(真宗)がある。かって真言宗の寺としで弥富上楢
        木にあり、寿楽寺と称して平山星の城城主・吉見安房守が建立する。1594(文禄7)年改
        宗して現寺号に改め、1953(昭和28)年現在地に移転してきた。

        
         寺の向かい側に「一万のはな」と呼ばれる場所があり、小さな祠と「三界万霊□」と刻
        まれた石碑と石灯籠が立つ。石碑銘文「維持宝暦十歳・□正月七日造立・願主立野七良兵
        衛」とある。(□は読めず)
         戦国時代、吉見氏の出城であった星の城落城の際、城兵が多数討死した地として伝わる。
        地域の伝説によると、戦死者の鼻を集めて葬ったという。

        
         田万川に沿って新市に入る。

        
         石州瓦の屋根が並ぶ。

        
         丸山八幡宮への橋を左折すると蔵が見えてくる。  

        
         風土注進案によると「御本陣壱ヶ所、蒲原有田貞右衛門所」とある。藩主の御国廻の際
        に、本陣として使われたようだが、同地には大きな家が残されている。

        
         土塀に囲まれていたようで、門と思われる空間があるが、木々の生長などで中の様子は
        わからない。

        
        
         全柳寺(曹洞宗)の寺伝によれば、永亨年間(1429-1441)津和野城主吉見氏が創建した興禅
        寺の後であり、1672(寛文12)年給領主の益田就宣の3男七兵衛が早世したので、追福
        のため当寺を開基し、法名に因んで現寺号に改めたという。   

         1863(文久3)年大和十津川の戦いに敗れた中山忠光(明治天皇の叔父)は、長門に亡命
        し、10月には生雲村(現山口市阿東)の大谷忠兵衛宅より当寺に移り、同年11月11日
        須佐を経て海路で下関の白石邸に至るまで潜伏した。


        
         阿武火山群の火山の1つとされる伊良尾山は、約40万年前に噴火し、溶岩が約14㎞
        も流れ下る。現在は「龍が通った道」と呼ばれ、溶岩流は谷を埋め、肥沃な土壌と豊富な
        水を生んだ。弥富特産の蕎麦の花が田んぼ一面に咲きそろい、10月上旬には「そばの花
        
まつり」が行われる。

        
         市支所、診療所、郵便局、JA、ガソリンスタンド等があり、日常的には地域内での移
        動で済みそうである。 
                


阿武町福田は四方を山に囲まれた農村集落

2021年03月14日 | 山口県阿武町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         福田は福賀地区の中央に位置し、福田盆地や大井川流域に水田中心の農地が広がる。中
        村に公共施設や商店などがあり、福賀の中心地となっている。(歩行約3.8㎞)

        
         土床道(街道)は大井川を渡って道路を横切ると中村に入る。

        
         地区内をほぼ直線的な道が走るが、街道は左手の消火栓がある所で山側に入る。

        
         山裾を道なりに進む。

        
         福田の家並み。

        
         次の山裾へ向かう。

        
         山手側に大きな砂防堰堤。

        
        
         石州瓦の赤と漆喰が際立つ。
 
        
         福田八幡宮の二の鳥居と神楽殿。

        
         室町期の1525(大永5)年周防国玖珂郡山代から移住した松原将監美則が、宇佐神宮よ
        り勧請したという。本殿の建築年代は、彫刻などから19世紀半ば頃と推測されている。

        
         この先で街道は途切れるため、参道を利用して旧道に合わす。

        
         野坂三差路バス停を過ごすと街道は左手に入る。(バスは月・水曜日のみ運行)

        
         街道を道なりに進むと、「剣豪・佐々木小次郎の墓」が案内され、約170mの山道は整
        備されている。 

        
         1512(慶長17)年巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタン信者で、
        当時、懐妊中で小次郎の遺髪を抱き、厳しいキリスト教の禁令により、多くの信者と共に
        山陰の地に安全な場所を求めた。
         ユキはこの地にあった正法寺(真言宗)に身を寄せて剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥
        福を祈り、菩提を弔うため墓を建て、その墓下の庵で一生を終えたという。我が子に対す
        る因果応報の絆を断ち切るため、小次郎の名を「古志らう」と変えて墓に記したという伝
        説がある。墓には仏像のような彫り物がある。

        
         墓の上の段には方形の台座、丸みを帯びた幢身(どうしん)の上にかん部が乗り、その上に
        笠がある。かん部には手を三角形に組んだ石像が刻まれているが、妻ユキが信じていたバ
        テレン墓と伝えられている。

        
         その隣には粟屋元吉の墓跡がある。元吉(もとよし)は毛利輝元に仕え、1625(寛永2)
        阿武郡福田高佐800石を拝領、隠居後剃髪して法正寺に入り、1628(寛永5)年に死去。
        後に元吉の法号から太用寺に改名して、現在は福田上に移転し、墓も1978(昭和53)
        同寺の境内に移された。

        
         今度は旧道を引き返す。

        
         亀甲模様の中央に阿武町の町章と汚水と記されたマンホール蓋。

        
         JR奈古駅から町営バス約30分で福賀小学校前バス停に下車できるが、バス利用だと
        滞在時間1時間と短い。

        
         いろんな店が並んでいたようだが、静かな通りとなっている。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、福田上、福田下、宇生賀村をもって福賀村が発
        足する。1955(昭和30)年奈古、宇田郷と合併して阿武町になるが、村役場の位置は現
        在の阿武町福賀支所付近にあったものと思われる。
             


阿武町木与は海と国道、鉄道に挟まれた集落

2021年03月14日 | 山口県阿武町

        
                  この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         木与(きよ)は阿武山地が日本海に迫り、木与川下流に小平野がある。木与駅付近を除けば
        ほとんどが岩石海岸である。地名の由来について「長門木与史」は、木与は喜世で大内氏
        の末族が、この地に逃れて安住を許されとか、また、益田の旧臣が主家に許されて遠根に
        転任したときに喜びの世の意味であったとしている。(歩行約3.3㎞)

        
         1931(昭和6)年に開業したJR木与駅は、集落の端にあって駅舎を出ると日本海に面
        する。構内は相対式2面2線を有する地上駅だが、跨線橋が撤去されたため、萩・長門方
        面は別通路からホームへ行かなければならない。

        
         駅前を国道191号線が走る。

        
         海岸線に沿って木与集落。

        
        
         萩・長門方面のりば入口と国道からの道。

        
         阿武町内バスの木与駅前バス停付近。

        
         木与集落は海、国道、線路に挟まれた中に立地する。

        
         粋な造りの消防器庫。

        
         民家の山手側に山陰本線。

        
         木与川右岸の小神社は、何が祀られているのかはわからないが、海に関係するものだろ
        う。

        
         防波堤の先に舩溜改築記念碑がある。「明治15年(1882)埠頭の改築の議を得て、釣す
        るものは5/1000、網するものは1/100その獲る所を貯蓄し、これに村費の補助と隣浦の義金
        をもって、明治44年(1911)4月工を起こし8月に至り成す。海に生活する住民が生活防
        衛のため30年間蓄積した結晶である」とある。 

        
        
         防波堤内と外側の海岸線とは対照的である。

        
         現在は国道で道幅も広くなったが、藩政時代は萩唐樋高札場から津和野藩領との境にあ
        る仏坂までの街道(仏坂道)であった。

        
         家並みが途絶えるところで街道は右折する。

        
         山陰本線木与踏切を過ごすと木与八幡宮。

        
         この地方に見られる舞殿形式の楼門。

        
         平安期の885(仁和元)年宇佐神宮より勧請された木与八幡宮は、当初は迫田の森林中に
        あったが社殿が流失し、1419(応永26)年現在地に再建された。現在の社殿は1883
          (明治16)年、舞殿は1981(昭和56)年に建て替えられた。

        
         町花のしゃくなげと町章がデザインされた阿武町の集落排水用マンホール蓋。

        
         線路の山手側は農地。

        
         仏坂道はこの先で消滅しているとのこと。

        
         木与地区の棚田(やまぐちの棚田20選)は、元来、急傾斜地形に逆らわず、畦畔(けいは
          ん)
石組みで構築されていたが、1997(平成9)年の圃場整備で今日の棚田となる。棚
        田上部からは日本海が見渡せる。

        
         棚田から見る木与の家並み。
 

        
         石州瓦の屋根が青空に映える。

        
         木与川沿いの家並み。

        
         この道も狭く高さ制限がある。

        
         万寿寺(曹洞宗)は阿武郡吉部村の古跡・阿弥陀寺の寺号を当所の観音堂に移し、176
        2(宝暦12)年開山したとされる。境内に入らず大急ぎで駅に戻る。