ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井市新庄は旧岩国竪ヶ浜往還道が横断する地

2021年03月19日 | 山口県柳井市

        
                 この地図は、国土地理院の
2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         北の大平山と南の赤子山に挟まれた低地に位置する。そのほぼ中央の低地を堀川が西
        
から東へ流れ、土穂石川(つつぼいしかわ)となって柳井港へ注ぐ。
         地名の由来は、柳井庄に付属する新立の荘園によるが、開発年代は不明とされる。(青
        線は岩国竪ヶ浜往還道、歩行約4.9㎞)

        
         JR柳井駅(13:25)から防長バスJR田布施駅行き10分、土穂石バス停で下車する。進
        行方向にある築出橋手前を左折するが、この道が岩国竪ヶ浜往還道で、平生町の竪ヶ浜に
        至る。

        
         右手の大師堂には「四國北一遍 弘法大師 供養佛」とある。
      
        
         1665(寛文5)年古開作を干拓した際、土穂石川は湿地帯を耕地化する目的で堀削され
        
た人口の川とのこと。

        
         水の流れを止めるような巨石(土穂石)は、カメさんの楽園となっているが、「玖珂郡志」
        には、昔、貧民夫婦あり、滞(落)穂を拾って神に供える穀物とした。滞穂を土器に入れて、
        巨岩の上に置き神に献ず。多年怠りなく、神はその実心に福を降したまふ。夫婦は富む人
        となったとある。
       
        
         川は昭和初期に改修されたとのこと。(次の橋を渡る)

        
         土穂石の奥に石碑が見えたので立ち寄ると、松尾芭蕉句碑だそうだが風化してはっきり
        読めないが、「蝶の飛ぶばかり野中の日かげ哉」と彫られている。1875(明治8)年俳人
        の会によって建立されたものである。

        
         1937(昭和12)年建立の土穂石八幡宮二の鳥居。

        
         土穂石八幡宮の創建年代は不明。現在の社殿は1956(昭和31)年に再建された。

        
         欣慶寺(ごんけいじ)は曹洞宗の寺で、慶長年間(1596-1615)に創建された古刹である。開基
                は織田清範で織田信長の家族とされ、はじめは紀伊国を領していたが、理由があって周防
        国に移って旧新庄村の郷士となった。織田を小田に改め仏門に入り、織田一族の供養のた
        め寺を建立したといわれている。

        
         一の鳥居は、1693(元禄6)年岩国領主吉川広紀が奉納したとされる。1874(明治7)
        年創立の新庄小学校は、1886(明治19)年現在地に移転する。その後、グラウンドが拡
        張されたため参道を挟んだ学校地となる。 

        
         土穂石川と左岸の道が岩国竪ヶ浜往還道。通りの家々はほとんどが更新されている。

        
         往還道に合わすと県道光柳井線と山陽本線の横断は
歩道橋を利用する。県道は1887
          (明治20)年に開通したが、それ以前は余田・新庄地区の人々は往還道が主要道だった。

        
         歩道橋から見る柳井の町並み。

        
         道は3本に分かれているが、中央が往還道である。郵便局の北側に新庄公民館があるが、
        この地に村役場があったようだが確証を得ることができなかった。

        
         線路に沿うと右手に国学者岩政信比古(1790-1856)を顕彰する碑がある。1955(昭和
        30)年に岩政家の屋敷跡に建立されたが、国学を修めた信比古(さねひこ)の人柄と学問を慕
        って多くの門人が集まったとされる。その中に秋良敦之助、世良修蔵、月性らが名を連ね
        る。

        
         白壁の町並みがデザインされた柳井市のマンホール蓋。

        
         街道筋には新たな家、更新された家が占める。

        
         台座を含めて2m以上のある火伏地蔵。昔、火事が頻繁に起こり、鎮火を祈って176
        5(明和2)年に建立された。

        
         往還道は田園地帯に入る。

        
         往還道は余田地区へとつながるが、四差路を右折して法師田川に沿う。

        
         道筋に大きなラクショウ(落羽松)の木がある。北アメリカ産の落葉針葉高木だが、日本
        ではヌマスギと呼ばれ、湿地に植えると、幹の周りに呼吸根(気根)が出てくる。1901
        (明治34)年に小田邸の庭に植えられたものだが、空家のため近くで拝見することができな
        い。(市天然記念物) 

        
         市街地方向に戻ると岩政次郎右衛門奥都城(おくつき)がある。次郎右衛門(1656-1736)は、
        1689(元禄2)年に3年の歳月を費やして柳井川から取水し、新庄を経て余田まで全長7
        ㎞におよぶ灌漑用水路を完成させた。これにより干害に悩み続けた村一帯がよみがえった
        とされる。 

        
         高林寺(真宗)前を過ごす。

        
         やまぐちフラワーランドへの道に合わすと、山裾の道は急坂であるので川に沿って平坦
        道を歩く。

        
         源義経主従の供養塔とされ、平安期の1185年源平合戦で源義経主従が柳井に上陸し
        た際、この地に一行を支援した土豪がいたとされる。その子孫らが義経主従を供養するた
        め、五輪塔や宝篋印塔を安置する石祠を設けて祀ったという伝承が残っていると案内され
        ている。

        
         少し下ると正念寺境内に「伝 佐藤継信・忠信の供養塔」がある。1185年の源平合
        戦で義経の郎党として平家追討軍に加わった佐藤継信・忠信兄弟であったが、兄継信は屋
        島の戦いで戦死、弟の忠信は壇ノ浦の戦い後、義経は官職、忠信も兵衛職に任官されたた
        め、源頼朝と対立する。忠信は都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し離
        散し、京都で居場所を密告され自刃に追い込まれる。
         この石祠が両名の墓という伝承が残されており、「ただのぶさん」として大事に供養し
        てきたとある。この辺りの地名が忠信という。
 

        
         新庄の町並みを見てイオン柳井新庄ショッピングセンターに出るが、ここにはバス路線
        がなく、タクシーを呼ぶか駅まで歩くことになる。(駅まで約1.2㎞)


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