この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
福田は福賀地区の中央に位置し、福田盆地や大井川流域に水田中心の農地が広がる。中
村に公共施設や商店などがあり、福賀の中心地となっている。(歩行約3.8㎞)
土床道(街道)は大井川を渡って道路を横切ると中村に入る。
地区内をほぼ直線的な道が走るが、街道は左手の消火栓がある所で山側に入る。
山裾を道なりに進む。
福田の家並み。
次の山裾へ向かう。
山手側に大きな砂防堰堤。
石州瓦の赤と漆喰が際立つ。
福田八幡宮の二の鳥居と神楽殿。
室町期の1525(大永5)年周防国玖珂郡山代から移住した松原将監美則が、宇佐神宮よ
り勧請したという。本殿の建築年代は、彫刻などから19世紀半ば頃と推測されている。
この先で街道は途切れるため、参道を利用して旧道に合わす。
野坂三差路バス停を過ごすと街道は左手に入る。(バスは月・水曜日のみ運行)
街道を道なりに進むと、「剣豪・佐々木小次郎の墓」が案内され、約170mの山道は整
備されている。
1512(慶長17)年巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタン信者で、
当時、懐妊中で小次郎の遺髪を抱き、厳しいキリスト教の禁令により、多くの信者と共に
山陰の地に安全な場所を求めた。
ユキはこの地にあった正法寺(真言宗)に身を寄せて剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥
福を祈り、菩提を弔うため墓を建て、その墓下の庵で一生を終えたという。我が子に対す
る因果応報の絆を断ち切るため、小次郎の名を「古志らう」と変えて墓に記したという伝
説がある。墓には仏像のような彫り物がある。
墓の上の段には方形の台座、丸みを帯びた幢身(どうしん)の上にかん部が乗り、その上に
笠がある。かん部には手を三角形に組んだ石像が刻まれているが、妻ユキが信じていたバ
テレン墓と伝えられている。
その隣には粟屋元吉の墓跡がある。元吉(もとよし)は毛利輝元に仕え、1625(寛永2)年
阿武郡福田高佐800石を拝領、隠居後剃髪して法正寺に入り、1628(寛永5)年に死去。
後に元吉の法号から太用寺に改名して、現在は福田上に移転し、墓も1978(昭和53)年
同寺の境内に移された。
今度は旧道を引き返す。
亀甲模様の中央に阿武町の町章と汚水と記されたマンホール蓋。
JR奈古駅から町営バス約30分で福賀小学校前バス停に下車できるが、バス利用だと
滞在時間1時間と短い。
いろんな店が並んでいたようだが、静かな通りとなっている。
1889(明治22)年町村制施行により、福田上、福田下、宇生賀村をもって福賀村が発
足する。1955(昭和30)年奈古、宇田郷と合併して阿武町になるが、村役場の位置は現
在の阿武町福賀支所付近にあったものと思われる。