ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市棚井は厚東氏時代の史跡が残る集落 

2021年03月03日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         棚井は厚東川下流の右岸に位置し、河岸段丘に集落が立地する。地名の由来は「段々畑
        にてこれは向いなる故棚井と称する」という。(歩行5.7㎞)

        
         JR宇部駅から宇部市営バス木田行き約8分、厚東市民センター前バス停で下車する。

        
         バス路線を引き返すと右前方に厚東市民センターがある。ちなみに「厚東」とは厚狭郡
        の東部に位置したことによるという。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、広瀬、棚井、末信、吉見の各村をもって厚東村
        が発足する。その役場がこの地に置かれた。

        
         センター内には棚井古墳第4号古墳と石碑がある。案内は薄れて判読できないが、上片
        山の裾にあったものを移設したとある。石碑も風化して読めないが、大正4年(1915)11
        月建碑とある。

        
         集落内を進むと幸神(さいのかみ)の石祠があるが、村や地域の境界、道の辻にあるので、
        文字どおり禍を防ぐ賽神と思われる。

        
         山陽小野田市は大きな河川を有しないため、宇部市の厚東川を同一水源としているよう
        で、この地に水道施設がある。

        
         棚井は上・中・下の区域となっているが、中心部は厚東氏の館あった棚井中のようであ
        る。

        
         厚東の史跡案内図が恒石八幡宮下にある。

        
         平安期の970(天禄元)年頃に厚東氏2代武基が備後国の常石浦に停泊中、海中から御神
        体を発見して持ち帰ったのが始まりとされる。厚東氏が建てた神社では最古である。
         厚東氏の居館の鬼門にあたる亀山(現在地)に本殿を建立し、仮殿から遷宮し厚東14郷
        の鎮守となる。

        
         裏参道に大きな鳥居、灯籠と石畳が並ぶ。

        
         境内神社として大歳神を主祭神とする亀山神社。八王子神、稲荷神、河内神が配祀され
        ている。

        
         八幡宮正面を県道まで進むと、宗廟恒石八幡宮を示す石碑と、石段を上がれば鳥居があ
        るが、途中の参道は車道になっている。

        
         南側の鳥居から戻る途中に厚東護国神社がある。

        
         厚東氏は古くより長門国に根付いた在地豪族で、7代厚東武光が霜降城を築城し、14
        代武実のとき長門守護職になるが、大内氏との争いに敗れて17代義武をもって滅亡する。
        (背後の山は城のあった霜降山)
 

        
         東隆寺参道入口にある三界萬霊塔と幸神。塔は文化十酉(1813)三月四日と刻字あり。

        
         東隆禅寺(曹洞宗)の山門を潜ると猫とワンちゃんの出迎えてくれる。寺は南北朝期の1
        
339年厚東武実が厚東氏の菩提所として建立する。長門国における禅宗弘布(ぐぶ)の中心
        として重きをなしていた。
         厚東氏滅亡後は大内氏も加護していたが、毛利氏の時代に加護が絶えて衰退する。16
        88(元禄元)年に再興され、1923(大正12)年に本堂が再建された。

        
         山門と本堂の間に「南嶺和尚道行碑」(県文化財)がある。南嶺(なんれい)和尚は当寺を開
        山したのち、摂津の福厳寺、博多の聖福寺などの住職を務めた。晩年は再び東隆寺に戻り、
        南北朝期の1363(正平18)年に示寂(じじゃく)する。
         この碑文は、室町期の1454(享徳3)年中国の明で作成されたもので、石碑は萩藩主・
        毛利重就により建立される。

        
         本堂背後の山に八十八ヶ所霊場があり、これを登るとすぐに開山南嶺和尚墓(一字一石
        経塚)がある。寺の東方にあった墓を移転したとある。

        
         同敷地一角に厚東氏墓所と言い伝えられる五輪塔と宝篋印塔がある。寺の由緒には「開
        基厚東武実公之墓 境内有之 但五輪之墓‥」と記されているが、被葬者の名前や墓石と
        の関係は不明とのこと。

        
         周辺の家々は改築か新築がすすみ、このような家は少なくなった。

        
         黒瓦と赤瓦という著しく異なった屋根の浄名寺(浄土宗)。

        
         厚東武実が祈願所として鎌倉期の1318(文保2)年に建立した真言宗の寺であった。武
        実はこの寺をこよなく愛し、法名も「浄名寺殿天庵‥」と号し、南北朝期の1348(正平
          3)
年に没して当寺に葬られたとされる。
         厚東、大内時代は栄えたが、毛利氏時代に加護が絶えて衰退したが、江戸初期の寛永年
        中(1624-1644)に浄土宗として再興された。

        
         本堂裏の墓地の奥まった所に厚東氏墓所があり、5基のうち2基は形が整った五輪塔で
        ある。案内がないので被葬者が誰なのかはわからなかった。

        
         境内に長門三十三ヶ所観音霊場19番札所。

        
         浄名寺の南にある高台が厚東氏の東館跡とされるが、現在は田畑と宅地となっている。

        
         浄念寺は、室町期の1482(文明14)年大内氏の家来であった俗姓・吉見将監が厚東上
        片山にあった禅宗の堂を浄土真宗に改め創建したとされる。江戸中期には碩学(せきがく)
        徳の住職を排出し、長門国屈指の大寺であった。
         厚南に給領地があった右田毛利家出の毛利謙八が、諸隊の1つ集義隊を組織して当寺に
        本陣を置いたが、1865(元治2)年2月1日暗殺される。誰によって殺害されたかはわか
        っていないが、25歳という若さで勤王の花となる。

        
         山門の右手には、1647(正保4)年鋳造の梵鐘があるが、17の末寺名が刻まれている。
        太平洋戦争中の金属類回収令に対し、時を報じるからという理由で供出を免れた。

        
         中原中也の父・謙助は、1876(明治9)年農家である小林家の次男としてこの地に生ま
        れる。優秀であり医術開業試験に合格し、陸軍軍医として各地を転任する。1901(明治
          34)
年士族の柏村家に籍を移す。
         中也の母・フクは父が病没後、弟である中原政熊(中原医院)の養女となる。1915(大
        正4)年一家で中原家と養子縁組をし、予備役編入を申し出て中原医院を継ぐ。謙助は19
        
28(昭和3)年往診先で倒れ、不帰の人となるが、小林、福井、柏村、中原と姓を遍歴した
        人生でもあった。

        
         厚東氏が滅びると市はなくなり、農家が散在する寒村となっていった。

        
         棚井下地区は古川に流れ込む水路周辺部に立地する。

        
         江戸期の船木は船木宰判の勘場が置かれ、この地域の政治・経済の中心であった。宇部
        から勘場に用事がある場合、棚井から山越えをしなくてはならなかったが、重要な道とし
        て5ヶ所にわたって石を敷き詰めた石畳道がある。

        
         慶応年間(1866年頃)尼僧の千林尼(せんりんに)によって造られた石畳で「千
        林尼の石畳」と呼ばれている。この道は人の行き来も多かったが、雨が降ると道はぬかる
        み通行人は大変苦労した。尼は自ら托鉢をして浄財を集めて道を整備する。

        
         棚井下集落の氏神で、八幡宮と天満宮が合祀されているが、昔は霜降岳の出城であった
        引地城の守護社であったという。

        
         周囲の住宅とは構えの違う家があるが、付近の農家では養蚕が盛んで、クワの木が多く
        植えられていたといわれる。

        
         道なりに進むと県道に霜降山登山口バス停がある。平日は9便、土日は7便と運行され
        ている。