ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

美祢市の四郎ケ原は赤間関街道中道筋の宿場町だった地

2021年01月27日 | 山口県美祢市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         四郎ヶ原(しろうがはら)は南流する厚狭川の中流域に位置し、赤間関街道中道筋に設けられ
        た近世の宿駅(人足30人、馬10疋)であったが、閑散とした宿駅であったようだ。
         1847(弘化4)年厚狭川が堀削されて川舟が通じると、近隣の米の津出基地となり活況
        を呈したが、鉄道の開通とともに役目を終える。今では県道も町中を避けてしまったため、
        地元の専用道となっている。(歩行約1.8㎞、🚻なし)

        
         四郎ヶ原集落はJR四郎ケ原駅から約1.7㎞も離れており、県道下関美祢線は歩車分離
        となっていない。安全を確保するためJR小月駅からサンデンバス美祢行き約40分、叔
        母河内バス停で下車する。

        
         県道下関美祢線(33号)を引き返すと、右手の旧道入口には街道を示す道標が設置して
        ある。

        
         1721(享保6)年に新設された四郎ケ原宿は、宿場の長さが2町10間(約230m)と
        記録されている。

        
         町に入ると右手上に火伏様(右側の社)があるが、1837(天保8)年4月13日の大火に
        より町筋が焼失する。

        
         東端近くの北側に春定札、中ほどに人馬・賃銀札が立ち、宿場には酒屋・宿屋・油屋・
        酢屋・醤油屋などがあったとされる。これらの町家は妻入りか平入りであった。

        
         厚狭川の堀削により通船できるようになったが、早水(流れの早い)の時には通航の難し
        い場所もあって、年貢米などは木屋川口までこの街道を利用して陸送りが行われた。

        
         1864(元治元)年は長州藩にとって激動の年となる。禁門の変、四ヶ国艦隊報復攻撃や
        
幕府の長州征討などを受けて、正義派に変わって恭順派が政権を握ると、正義派への弾圧
        を強化する。
         12月16日高杉晋作が挙兵すると、諸隊の追討命令をもって鎮静軍が萩を出立した。
        諸隊は12月16日に伊佐への転陣を決め、19日に伊佐へ到着したが膺懲隊はこの地に
        宿陣する。

        
         1811(文化8)年伊能忠敬は測量の途次に投宿し、吉田松陰も平戸遊学のため、185
        0(嘉永3)年8月25日この地で一泊している。

        
         岡藤家は宿場で宿年寄を務めた家であり、古くから酢醸造を営んでいた。主屋は瓦葺き
        き平入りの2階建て、道路に面して格子があり、玄関前の井戸は宿場用水として利用され
        たのであろう。

        
        
         隆光寺参道の右手に大庄屋だった河崎家の屋敷跡が残っている。

        
         河崎家前で歩いてきた道を見返るが、岡藤家以外は建物が更新されて昔の町並みをとど
        めていない。

        
         隆光寺(浄土真宗)は地下(じげ)上申には登場しないので、その後に創建されたと思われる。

        
         浅山家は長府藩家老・椙森家の老臣であったが、18世紀初めに故あって主家とともに
        藩を退く。後に浅山道琢が萩藩内大嶺(現美祢市大嶺町)において医業を始めたとのこと。
        1910(明治43)年築の旧浅山医院が現存する。

        
         1964(昭和39)年数百点の古医書が山口大学医学部図書館に寄贈され、四熊文庫同様
        に浅山文庫として収蔵されている。浅山文庫は浅山良輔の書籍から成り立っているが、い
        ずれも幕末から明治初期にかけたもので、医学教育にとって貴重なものであるようだ。

        
        
         1919(大正8)年創業の大場醤油醸造場は、一部が煉瓦造で切妻の建物である。今も醸
        造されているかどうかはわからなかったが、昔ながらの手づくりの醤油を提供されてきた
        という。

        
         1872(明治5)年開校の城原小学校は、2019(平成31)年3月をもって閉校とな
る。

        
         学校の隣にある若宮八幡宮には、1837(天保8)年の大火を知る御神木(タブノキ)や天
        保3年(1832)銘の石灯籠がある。

        
         街道は県道に合わすが、この先は盛土や藪化して通行不能のようで、街道歩きの場合は
        県道を利用する以外にないようだ。

        
         街道と分かれて県道を北上する。

        
         わずかな距離であったため田園地帯を歩いてみることにする。(信号先に下関方面の四郎
        ケ原バス停)

        
         県道を横断して厚狭川方向へ進む。

        
         美祢線大沖第2踏切と厚狭川の七田橋を渡って左折する。

        
         正面に叔母ヶ河内集落が見えてくる。

        
         集落道から見る四郎ケ原。

        
         近年は自脱式コンバインにより排藁が細断処理されるため、「としゃく」を見ることは
        少なくなった。

        
         叔母ヶ河内集落の入口にある「カフェギャルリとりのこ」で美味しいコーヒーをいただ
        く。バスの時間待ちには最適な場所であるし、店主からこの一帯の情報をお聞きすること
        もできるお奨めのカフェである。(毎週月曜日と第1日曜日が休店)

        
         下渡踏切と叔母ヶ河内橋を越えると、左手に下関行きの叔母河内バス停がある。