この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
和田は屋代島の東部に位置し、逗子ヶ鼻西の入海となった海岸砂州に立地する。
地名の由来について、当地は大島郡の島端部ではもっとも早く開けた所で、田畑を開い
た時に土地が棉(わた)のように軟らかく開きやすかったので「和田」と名付けたという。
1889(明治22)年の町村制施行により、和田、内入、小泊の3村が合併し、1955
(昭和30)年油田、白木、和田村をもって東和町となるが,現在は周防大島町の一部である。
(歩行約2.6㎞)
JR大畠駅(8:58)から防長バス周防油宇行き約1時間、周防和田バス停で下車する。
バス停から旧道に向かうと、角に大きな倉庫風の建物がある。地元の人によると、農協
の建物で精米所などがあったという。
どう歩くべきか思案したが、とりあえず旧道を久賀方面へ歩くことにする。すぐ左手は
潜り門のある民家。
ほぼ直線的な道。
山に降った雨をスムーズに海へ流し出す水路が設けてあるが、満潮期には海水が入り込
んでフグが泳いでいる。
この地も空家が目立つ。
中央に旧東和町の町章、周囲には町木のサクラ、鯛、みかんの花と実がデザインされた
マンホール蓋で、特定環境保全下水道として整備されている。
油宇への道に合わすとその先は隣集落の内入(うちのにゅう)。右折すると海岸線沿いの国
道に出る。
正面に大見山、海に出張った所が厨子ヶ鼻で筏八幡宮がある。社伝によると、
平安期の貞観年中(859-877)に宇佐八幡を山城国岩清水に勧請する時、和田村の沖磯合に神
光が現れ、暗夜激流の中を無事に通航する。この時、神光を放ったのは筏に乗った厨子入
りの神鏡で、祀るようにとの神託があり、筏八幡宮として祀ったのが起こりという。
防波堤にはたくさんの太公望たちが釣り糸を垂れている。
バス停まで戻って最初の道を直進すると、周防大島町東和総合支所和田出張所がある。
1955(昭和30)年和田村ほか3村が合併して東和町が発足するまで、村役場があった地
とされる。
屋根に煙突が見える風景に出会える。
正面に淡島神社の看板を見て左折すると、村上水軍史跡を示す案内板がある。
史跡案内板と石仏3体のある所から石段を上がると、村上家の墓所がある。
室町期の1558(永禄元)年村上武吉の次男として生まれた景親は、毛利軍の一員として
戦いに参加する。関ケ原後は屋代島の内で1,500石を与えられて毛利家御船手組の組頭
となる。三田尻(現防府市)に役宅、和田には田屋を造ったが、隠居後は和田に住み、16
10(慶長15)年この地で亡くなる。
墓所から見る和田集落と、正面に浮島(うかしま)が浮かぶ。
正岩(しょうがん)寺がある地には浄土宗の西浄寺があったが、1871(明治4)年隣村であ
る油宇の寺と合併して廃寺となる。時の照岩寺住職が境内地と伽藍を譲り受け、域内にあ
った寺を移転させて正岩寺と改める。
照(正)岩寺は、1606(慶長11)年村上景親が草創となり、都濃郡長穂にある竜文寺(曹
洞宗)の和尚を講じて開山された。
境内地にある淡島神社は、1781(天明元)年紀州の加太にある淡島神社から勧請したと
される。婦人病をはじめとして安産・子授けの神として崇敬されている。
溜池の中に建てられた「楽楽亭」は、1972(昭和47)年寄贈とあるが、用途等は知り
得なかった。
今度は水路に沿って海側へ下る。
旧道との出合いにある古民家。
国道と旧道の間にある路地にも空家が目立つ。
旧道を右折して引き返す。
人にも動物にも会うことはなかったが、約1㎞にわたって町筋が形成されている。
この地方の家は比較的新しい家が多いが、要因として強い潮風や波にさらされるため、
家が傷みやすく耐用年数が短いことにあるという。70~80年で家を建て替えるという
のが一般的であったようだが、近年は防波堤などが整備されて古民家もそのまま維持され
ている。
域内には商店らしきものは存在せず、JAふれあい店も平日のみ営業のようである。こ
の付近に村上水軍田屋(私邸)があったとされるが特定することができなかった。
建物構造をみると旧郵便局舎のようだ。
向かい側に浄土真宗の長専寺。
海を眺めながらのバス旅と洒落込んだが、滞在時間が長いので車の方が得策であった。
(待合所あり)