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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市埴生(旧山陽町)‥干拓地内の花農場と和泉式部伝承

2021年01月16日 | 山口県山陽小野田市

        
                           この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。           
         埴生(はぶ)は糸根川・前場川流域の埴生低地に位置し、周囲を丘陵地が囲み、南は周防灘
        に面している。
         1889(明治22)年の町村制施行に伴い、埴生・福田・津布田の3村が合併して、旧村
        の1字をとって生田村となる。1948(昭和23)年に町制施行し埴生(はぶ)町、昭和の大合
        併で厚狭町と合併して山陽町埴生となるが、現在は平成の大合併で山陽小野田市の一部と
        なる。(歩行約7.2㎞)

                          
         JR埴生駅は、1901(明治34)年山陽鉄道の厚狭~馬関駅(現下関駅)間が開通したと
        同時に開業する。近くに山陽オートレース場があり、業務委託駅であったが現在は無人駅
        のよ
うである。駅舎は1982(昭和57)年に改築されている。

        
         1965(昭和40)年駅前に開場したオートレース場。

            
         川に沿うと正面に国道2号。

            
         前場川沿いを河口部へ向かい、国道190号を横断して下市に入る。

            
         左手に浄土宗の西念寺。山門右には法然上人の教えがある。
               「月影の いたらぬ里は なけれども 
                    眺むる人の こころにぞすむ」の石碑がある。
         室町期の寛正年中(1460-65)大内氏の庇護によって村内の東山に創建される。創建時の
        寺号は大喜庵であったが、その後、無住であったのを長府・浄厳寺の僧が引き受け、浄土
        宗に改宗して現寺号にしたという。

            
         カーブミラーのところに「右下之関」と刻まれた自然石の道標がある。

            
         糸根神社の由来によると、平安期の806(大同元)年宇佐神宮より江尻に勧請されて埴生
        八幡宮と称した。1908(明治41)年八幡宮を八坂神社に合祀して改称する。

            
         1604(慶長9)年に現在の社殿が造営された。(隣には川上神社)

            
         この道は埴生道とされた脇道で、旧山陽道の七日町の外れから埴生の上市に出て、町筋
        を西にとって、市から八坂(糸根)神社の東鳥居前を右折して旧国道に繋がっていた。

            
            
         1701(元禄14)年創業の竹山酒造場は、代々庄屋を兼ね、長府毛利藩が参勤交代の
        途次、常宿にしていたという。埴生の町は幕末期に2度(文政と嘉永)の火災に見舞われた
        が、この家だけは類焼を免れたという。酒造業はすでに廃業されている。

            
         通りに浄土真宗の教蔵寺。豊前国・森山安芸守の家来であった蓋松兵庫教清が出家して
        当寺を創立したとされる。

            
         竹山家の抱酒造場であったとされるS家。

            
         通りの下市と上市は商家筋だったが、店構えを見せるところはその多くが閉じた状態と
        なっている。海に近く低地であるため、1999(平成11)年9月24日の台風18
号によ
        る高潮で甚大な被害を被った地でもある。

            
         格子が美しい富田屋旅館。 

            
         富田屋旅館前にある「とうみや(東宮)」は、埴生祇園祭で神輿が1泊する場所とか。

            
         亀甲模様に「下水・山陽町」の文字が記されたマンホール蓋。

            
         糸根神社への参道。

            
         かって防波堤だった所を西進する。

            
         前場川橋。

            
         総合園芸農場とされる「花の海」には、食堂・カフェなどがあって休憩できる。

            
         国営干拓事業として1957(昭和32)年に着手され、1968(昭和43)年に完成した農
        地だが、耕作者の高齢化、後継者の不足など農業の社会・経済環境の変化の中、耕作放棄
        農地が増加しているようだ。

            
         国道190号の横断に信号機がないため、「ドライブインみちしお」の先にある信号を
        利用する羽目になる。「花の海」から国道に出て老健施設前を経由する方がより近道であ
        った。
 

        
         糸根川に沿う。

        
               「あらざらむ この世のほかの思ひ出に
                     今ひとたびの逢ふこともがな」(辞世の句)
         和泉式部は一条天皇の中宮彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部
        集」などの歌集を残し、恋多き歌人といわれている。

        
         地方へ出かけた後の消息はよくわかっていないことから、お墓といわれるものが全国に
        多く存在する。
         ここ埴生での伝説は、郷士と恋に落ち、一女をもうけ、ここで一生を終えたという。円
        形に一段高くなった盛土の上には「尊霊和泉式部御墓・享保16年戌(1731
)」と刻字され
        た墓がある。
事実かどうかは別にして、祖先が語り継いできた伝承は、和泉式部を身近に
        感じさせる貴重な史跡といえる。

        
         国道2号バイパス下を潜る。

        
         山陽オートレース場への広い道を横断して、山陽本線架道橋を潜ると小埴生集落。

        
         集落内を山手に向かうと青木周蔵誕生地の案内板がある。

        
         青木周蔵は三浦玄仲の長男としてこの地に生まれる。のちに宇部の藤曲に一家は移るが、
        21歳の時に藩医である青木家の養子となる。(周弼の弟・研蔵の養子)
         1868(明治元)年医学修業のためドイツに留学するが、政治学も学んだため30歳でド
        イツ公使となり、ドイツ貴族の妹と結婚する。
         その後、山県、松方内閣では外務大臣を務め、62歳の時にアメリカ大使となるが、1
        
914(大正3)年肺炎のため70年の生涯を終える。(現在も青木家の建物は萩城下町に現
        
存する。)

        
         この先、角野集落に出たため遠回りとなってしまう。青木周蔵生誕地から南へ進んで山
        陽本線踏切を越えれば、オートレース場前の道に出て埴生駅に戻れる。

        
         小埴生から角野に出ると目の前に埴生駅。

        
         山陽本線まで下って並進し、トンネルを潜ればJR埴生駅だが、1㎞以上も余分に歩い
        てしまう。
                   


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