この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
於福(おふく)は厚狭川の上流域に位置し、東は急傾の於福台のカルスト台地、西は緩やか
な丘陵地で、於福ポリエ(溶食盆地)と呼ばれる南北の低地にある。
1889(明治22)年の町村制施行により、於福下村と於福上村をもって於福村となるが、
昭和の大合併で6町村と合併して美祢市於福となる。(歩行約3㎞)
JR於福駅は、1920(大正9)年10月美祢軽便線が重安駅から延伸した際の終着駅と
して開業する。木造駅舎は改装されて、現在は交流ステーションとして公民館的な役割に
利用されている。駅舎は集落側に設けられているが、駅の東側を国道が走り、傍には道の
駅が設けられるなど、線路を挟んで対照的な駅周辺である。
美祢市役所於福出張所前の道。
通りの住宅は改築が行われ、このような住宅はここのみであった。
域内には瀬戸崎から於福の大ヶ峠、於福を通って赤間関街道までの瀬戸崎往還道と、三
隅から嘉万を通って於福で合流する嘉万往還道があった。
最初の三差路に志道(しじ)家墓所の案内がある。
高い建物がないので火の見櫓が目立つが、今ではスピーカーの設置や半鐘もないのでホ
ースを干す程度の機能と思われる。集落の見える位置にそびえているが、先の大戦では鉄
の供出により取り壊されたものが多いので、戦後から1955(昭和30)年代にかけて建て
られたものと思われる。
緩やかな上り道が続く。
2つある石碑の左手は忠魂碑だが、右は風化して読めず。
蔵の側面に鏝絵があるが、くちばしと目があるので鶴だろうか。
志道家は於福村の小杉に屋敷を構え、同所の徳明院を菩提寺としていた。その屋敷跡は
小杉に開けた棚田を上り詰めると山腹にあり、高台から小杉、金山一帯を一望することが
できる。
志道就幸が当地方を宛がわれ、1625(寛永2)年真言宗の永福寺跡に菩提寺を建てて法
号によって徳明院と称する。寺院は広大であったようだが、今では小杉観音堂のみとなっ
ている。
境内に志道家の墓所があり荒廃しているが、3,000石の寄組だった格式をしのぶこと
ができる。
厚狭川の則田橋まで戻って旧往還道を北上する。
六地蔵。
変化のない町並みと寒さが伝わってきたので、次の三差路で駅に向かう。
地元の方が「冬は北からの花尾山下ろしが谷間を抜けるので風が強くて冷たい」と言わ
れていたが、川の先に三角錐の花尾山が見える。